2023年6月11日「善いサマリア人」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書10章25-37節

イエス様はエルサレムに向かう旅を始めます。そして、その途中にあるサマリアという地域を通っていきます。しかし、ユダヤ人は、サマリア人が純粋な民族ではないと言って、軽蔑していました。イエス様は、サマリア人の村に入る前に、先に使いの者を出されて準備させようとしました。しかし、サマリアの村の人々はイエスを歓迎しなかったのです。その様子を見て、二人の弟子のヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。

二人は、自分たちはイエス様に従っている、自分たちはイエス様の味方だと思って、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とサマリア人と敵対しています。しかし、彼らもこの後エルサレムで、イエス様が十字架に架けられる時には皆逃げてしまったのです。彼らこそ、イエス様を否定し、敵対したわけです。イエス様はサマリア人のためにもこれから、十字架に向かうのです。それは、サマリア人にとっても、救い主であるからです。そして、わざわざこのサマリアの地を通っているわけです。

2023年6月4日「天に名が記されている喜び」

派遣された七十二人の弟子たちが帰って来て「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言って、喜びました。しかし、イエス様は「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」とおっしゃって、弟子たちの思い違いを正しておられます。

そして、イエス様は御自分のお名前によって、悪霊を追い出すことができて、意気揚々と喜んで帰って来た弟子たちに「喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたのです。この言葉は、イエス・キリストを信じる者が何を喜びとして、この世を生きているのかをはっきりと示している言葉です。イエス・キリストを信じる者は、「イエスこそ主である」と信仰を告白し、洗礼を受けていくわけです。その時、その人の名は教会の名簿だけではなく、天でも記されるのです。この意味において、教会は天に名が書き記されていることを喜びとする人たちの共同体です。

2023年5月28日「七十二人の派遣」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書10章1-16節

「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(1節)。十二人の弟子たちのほかに、イエス様に従っている多くの人たちがいました。その中から、イエス様が七十二人を任命し、二人ずつお遣わしになったのです。そして、イエス様は弟子たちに、「どこかの家に入ったら、まず、この家に平和があるようにと言いなさい」と仰っています(5節)。イエス様はこれから派遣する弟子たちに命じます。町に入って、どこかの家に入ったら、まず平和を伝えて、その家に暮らしている人がその平和の内に生きることができるように伝えなさい。この平和を告げることがすべての町や村に派遣される七十二人の弟子たちの務めでした。

「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)。イエス様は私たちに平和の知らせを待っている人たちが多いと教えてくださいます。種を蒔き、土を耕して、育ててくださったのは、神様です。その神の畑は豊かに実っています。あとは、収穫するだけなのです。それは私たちの務めです。

2023年5月21日「エルサレムに向かう決意」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章51-62節

本日の箇所から、イエス様はエルサレムに向かう旅を始めます。そして、その途中にあるサマリアという地域を通っていきます。しかし、ユダヤ人は、サマリア人が純粋な民族ではないと言って、軽蔑していました。イエス様は、サマリア人の村に入る前に、先に使いの者を出されて準備させようとしました。しかし、サマリアの村の人々はイエスを歓迎しなかったのです。その様子を見て、二人の弟子のヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。

二人は、自分たちはイエス様に従っている、自分たちはイエス様の味方だと思って、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とサマリア人と敵対しています。しかし、彼らもこの後エルサレムで、イエス様が十字架に架けられる時には皆逃げてしまったのです。彼らこそ、イエス様を否定し、敵対したわけです。イエス様はサマリア人のためにもこれから、十字架に向かうのです。それは、サマリア人にとっても、救い主であるからです。そして、わざわざこのサマリアの地を通っているわけです。

2023年5月14日「逆らわない者は味方」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章46-50節

イエス様は「誰が一番偉いか」と議論する弟子たちの心のうちを見ぬいておられ、一人の子供を連れて来て、ご自分のそばに立たせて、議論する弟子たちに言われました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(48節)

当時のユダヤ社会において、子どもというのは、まだ一人前の仕事ができない、価値のない存在とされました。イエス様は、私の名のために、そのような子どもを受け入れる人は、イエス御自身を受け入れることであり、父なる神を受け入れることであると仰いました。ここでイエス様は弱い立場にある人と、ご自分を同一視しています。ただここでは、弱い立場にある人を大事にしようという教訓ではありません。もっと深い意味があります。それは、弱い立場にある人がいてこそ、教会が教会として成り立つことを語っているのです。そういう人がいて、キリストの体が成り立っているのです。

2023年5月7日「これに聞け」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章28-45節

ペトロの信仰告白があってから、八日ほどたったときです。その時、イエスは弟子たちの中から、ペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて、祈るために山に登られました。この山の上で、祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたのです。さらに、見ると、モーセとエリヤがイエスと語り合っていたのです。ペトロは、目の前にモーセとエリヤがイエスと語り合っていたことに、力強さを感じたでしょうか。「私たちがここにいるのは、すばらしいことです。・・・仮小屋を三つ建てましょう」と言いました。ペトロは仮小屋を建てて、そこにイエスとモーセとエリヤと留まりたかったわけです。

しかし、山に登ったら、山から下りなければならないのです。山の下には多くの隣人がいます。イエスは栄光に輝くお姿のまま、山の上に留まるのではなく、山の上から下りてくださいました。十字架の道を歩まれるためでした。信仰生活は、山の上だけに留まっているのではありません。山の上で、神からの御言葉に養われたら、また、山の下へと、生活の場へと下りて行くのです。

2023年4月30日「主に問われて」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章18-27節

「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と、イエス様が弟子たちに尋ねます。その時、ある人たちは洗礼者ヨハネだと言っています。また、他にエリヤだと言う人もいました。また、ある人たちは「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言います。

続いてイエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言われました。ここでイエス様の問いかけは「あなたは」ではなくて、「あなたがたは・・・何者だと言うのか」と聞いています。ペトロはその問いに対して「神からのメシアです」と答えました。それは十二人の弟子たちを代表したものでした。それ以来、教会はこのイエス様に対して「あなたこそ、メシア、救い主です」という信仰告白の上に立てられていくのです。 

ここで大切なことは、「イエスがひとりで祈っておられたとき」とあるように、イエス様が弟子たちに質問される前に、祈っておられたことです(18節)。ペトロが「神からのメシアです」と見事な信仰告白ができたのは、このイエス様の執り成しの祈りがあったからです。

2023年4月23日「五つのパンと二匹の魚」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章10-17節

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。弟子たちは、イエス様が不可能なことを仰っておられると思いました。男だけで五千人であります。

しかし、イエス様が言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」これに対して、弟子たちは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません・・・」と答えました。

イエス様はこの弟子たちの言葉に対して、何も語らずに「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」とあります。すると、すべての人が食べて満腹しました。弟子たちが配ったうちに増えたのです。イエス様は弟子たちを五千人の人に満腹させる奇跡に用いられたのです。

2023年4月16日「主に遣わされて」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章1-9節

「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」このように、イエス様は初めて十二人の弟子たちを遣わすにあたって、徹底的に神の力のみに頼るのでなければ、神の国を宣べ伝えることはできないことを教えられたのです。また、イエス様は「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」と勧めております(4節)。これは、最初のお世話になった家より、もっと良いもてなしをするから来てくださいと言われても、自分の居心地の良さを求めて転々としてはいけないと戒めています。

さらに、イエス様は「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」と言われました(5節)。ここで「足についた埃を払い落とす」ということは、福音を受け入れない人に対して、不幸を願う呪いの言葉ではなく、まだ福音を受け入れない人がいても、その自体を神に委ねることのしるしとして、理解することもできます。

2023年4月9日「エマオ、希望の道」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書24章13-35節

イエスが復活なさった日の夕方、二人の弟子がエマオへ向かって歩いていた時、イエスのほうから「何を話しているのですか」と聞かれます。二人の弟子は、イエスがイスラエルを解放してくださると望みをかけていましたが、自分たちユダヤ人の指導者たちがイエスを死刑にするために引き渡し、十字架につけて殺してしまい、その望みは消えてしまったと言うのです。

目の前に復活なさった主イエスが共に歩んでいるのに、自分の思い、経験にとらわれて、何も見えていない二人の弟子に、イエスは「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言われました。そして、彼らに聖書の解き明かしをされ、彼らの心は静かに燃え始めました。イエスの語りかけを聞いて、私たちの心は燃えていたことに気付いたのです。イエスは生きておられて、共にいてくださるという希望の火が灯されたのです。復活の主は私たちの心も燃やしてくださいます。この主に信頼し、生きる力をいただいて、生きましょう。