2020年11月1日「主と共にある人生」

○金 南錫牧師 詩編23編1-6節

 詩編23編はユダヤ教の人々も、クリスチャンたちにも何千年にもわたって愛唱されてきた聖書の御言葉です。この詩の冒頭に「賛歌、ダビデの詩」と書いてあります。
 この詩編の作者は、イスラエルの二代目の王様であるダビデという人です。ダビデは少年の頃、お父さんの手伝いをして羊の世話をしていた経験がありました。その経験を通して、羊飼いと羊の関係はまさに、神様と自分との関係に通じるところがあると見たのです。
 羊は、とても迷いやすい動物だそうです。ですから、羊飼いは羊の群れの先頭に立って羊を導く必要があります。この詩編が書かれたパレスチナでは、水や草が非常に少ない地域です。ですから、羊飼いが草のあるところや、水のあるところに羊を連れて行かないと、羊は生きることができませんでした。
 そうした羊の姿を、弱さを抱えた人々が自分自身と重ね合わせて読まれたので、この詩編が長い間にわたって愛唱されて来たのでしょう。
 この詩編はおそらくダビデが晩年になって書いただろうと言われます。それは、主なる神が羊飼い、牧者になってくださったときに、「何も欠けることがない」(1節)、「わたしの杯を溢れさせてくださる」(5節)と告白しているからです。

2020年11月1日 召天者記念礼拝/墓前礼拝

 佐倉教会では、11月の第一日曜日、「聖徒の日」に主の御許に召された方々を覚え、ご遺族と共に召天者記念礼拝を献げています。
 天にあっても地にあっても、共に主を礼拝できることを感謝します。
 また、同日午後には、京葉霊園(八街市)の佐倉教会墓地において墓前礼拝を献げました。

主の御許に召された方々のお写真を飾ります

 

好天に恵まれた墓前礼拝となりました

2020年11月の主日聖書日課から

○イザヤ書 44章06-08節
 イスラエルの王である主
 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。
 わたしは初めであり、終わりである。
 わたしをおいて神はない。
 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら
 声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から
 来るべきことにいたるまでを告げてみよ。
 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ
 告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。
 わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。
 わたしはそれを知らない。

○マタイによる福音書 23章25-28節
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

○創世記 13章14-18節
 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
 アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。

○マタイによる福音書 03章07-11節
 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

○申命記 18章15-20節
 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」

○マタイによる福音書 05章43-48節
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

○ミカ書 02章12-13節
 ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め
 イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に
 群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。
 打ち破る者が、彼らに先立って上ると
 他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み
 主がその先頭に立たれる。

○マタイによる福音書 25章34-40節
 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

○イザヤ書 02章01-03節
 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。

○マタイによる福音書 24章36-42節
 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2020」(日本キリスト教団出版局、2019年12月1日発行)より作成

2020年10月25日「兵士たちのあざけり」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章2-3節、マルコによる福音書15章16-20節

 イエス様はピラトによって十字架刑の判決を受け、むちで打たれてからローマ兵士たちに引き渡されました(15節)。
 当時のむちは、長い革ひもで、所々に鉛の破片が縫い付けられたので、むちで打たれるたびに、血が飛び散ったことは想像することができます。ローマの兵士たちは、どうせ死刑にされる人だからと、慰みものにしたのです。兵士たちは、イエス様を王様の格好をさせるために、紫の服を着せます。
 さらに、とげのある冠を編んでかぶらせます。彼らはイエス様の前にひざまずいたり、拝んだりし、「ユダヤ人の王、万歳」とからかいました。
 また、イエス様の頭を葦の棒で上から強くたたきます。そのとき、とげがイエス様の頭や額に突き刺さり、血が流れたことでしょう。
 では、イエス様は一体どうして、これほどまでに残酷で忌まわしいあり様を見させられるのでしょうか。このイエス様の受難の光景を見させられることによって、私たち人間は、どんな者であるか、それと同時に、神様はどのようなお方であり、主イエス・キリストはどのようなお方であられるかを、思い巡らすことになります。そのとき、信仰の思いを新たにしていくのです。

2020年10月18日「ピラトの死刑判決」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章11-12節、マルコによる福音書15章6-15節

 祭りの度ごとに、総督はユダヤの人々が願い出る囚人に恩赦を与えていました。そのとき、暴動を起こして人殺しをして投獄されていたバラバという囚人がいました。
 ピラトは、いつものように恩赦をしてほしいと願う群衆に「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました。それはイエスに罪がないことを分かっていたからです。
 しかし、祭司長たちはバラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました。そこで、ピラトは改めて「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と尋ねたのです。
 群衆は、それに対して「十字架につけろ」と叫びます。ピラトはさらに「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言いましたが、群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫びたてたのです。
 実はすべての人間が、その「十字架につけろ」と叫んだ群衆につながっているのです。私たちは聖書を通して、自分がどんなに罪ある者であるかを知らなければなりません。
 そして、十字架を見上げるとき、私たちは自分の深い罪を赦されてくださった主イエスを思い起こします。
 日々、私たちを生かす十字架を見上げ、十字架の言葉を聞いて歩んでまいりたいと願います。

2020年10月11日「イエスの沈黙」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章4-7節、マルコによる福音書15章1-5節

 ユダヤ人の最高法院ではイエス様に死刑の判決を下しましたが、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、死刑の判決はローマの総督の権限に委ねられていました。
 ですから、彼らは翌朝、イエス様を総督官邸に連れて行き、総督ピラトに死刑判決を下すように訴えました。
 しかし、彼らはイエス様を宗教的な冒とく罪で訴えると、ローマ帝国は、関与しないことを分かっていましたので、イエス様をローマ帝国への政治的な反乱罪として、嘘を言って訴えたのです。
 そういうわけで、ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と確認します。イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と一回だけ答えて、その後は何も言わないで、沈黙を守っていました。そのイエス様の対応に対して、「ピラトは不思議に思った」と記されています(5節)。
 イエス様は当然、御自分の正しさを主張できたところを、一切そうなさらず沈黙されました。それは、私たちを救うためでした。
 イエス様が私たちの罪をその身に負って、私たちの身代わりに十字架に死んでくださるということは、その不条理の中で神に信頼し続けることでした。
 神様は、そのイエス様を死人の中から、やがてよみがえらせるのです。イエス様の沈黙は信仰の沈黙でした。

 

2020年10月4日「ペトロの涙」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章66-72節

 失敗ということを考えると、どうしても福音書に書かれているペトロのことが心に浮かんで来ます。今日の聖書箇所は、イエス様の筆頭弟子であったペトロが失敗したところです。
 イエス様が大祭司の前で審問を受けている同じとき、この大祭司の女中の一人がペトロに「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言います。
 ペトロは、この大祭司の女中の言葉に「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と打ち消して逃げようとするのです。
 その女中がまたペトロを見て「この人は、あの人たちの仲間です」と言うと、ペトロはまたそれを打ち消します。そして、人々も「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言うのに対して、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と言って、ついに激しく誓い始めたのです(71節)。
 そのとき、二度鶏が鳴きました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言うペトロに対して、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。
 それをペトロは鶏が鳴く声ではっきりと思い出したのです。イエス様の言葉を思い出したペトロは、いきなり泣き出しました(72節)。
 ここに、自分の気持ちを素朴に、率直に主張し、大失敗をして、その失敗を心から認め、泣き崩れているペトロの姿があります。人間である限り失敗は付きものです。大切なのは、主イエスはそのために十字架にかかって身代りとなり、しかもそういう私たちを愛し続けてくださったのです。

2020年10月の主日聖書日課から

○箴言 3章13~20節
 いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は。
 知恵によって得るものは
 銀によって得るものにまさり
 彼女によって収穫するものは金にまさる。
 真珠よりも貴く
 どのような財宝も比べることはできない。
 真珠よりも貴く
 どのような財宝も比べることはできない。
 彼女の道は喜ばしく
 平和のうちにたどって行くことができる。
 彼女をとらえる人には、命の木となり
 保つ人は幸いを得る。
 主の知恵によって地の基は据えられ
 主の英知によって天は設けられた。
 主の知識によって深淵は分かたれ
 雲は滴って露を置く。

○ヨハネによる福音書 10章37~39節
 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

○ダニエル書 12章1~4節
 南の王は激怒して出陣し、北の王と戦う。北の王は大軍を集めて立ち向かうが、彼らは敵の手に陥る。この大軍を捕らえて南の王は大いに高ぶり、幾万人もの兵を殺すが、決定的に勝つことはできない。北の王は再び前回にまさる大軍を集め、数年の後に強力な軍隊の軍備を整えて進軍する。その時には、多くの者が南の王に対して立ち上がる。お前の民の中からも、暴力に頼る者らが幻を成就させようとして立ち上がるが、失敗する。北の王は進軍し、堡塁を築き、砦に守られた町を占領する。南の王はこれに抵抗する力を持たず、えり抜きの軍勢も立ち向かうことができない。敵は意のままに行動し、対抗する者はない。あの『麗しの地』に彼は支配を確立し、一切をその手に収める。

○ヨハネによる福音書 11章11~16節
 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

○エレミヤ書 29章1、4~7節
 以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。
 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

○ヨハネによる福音書 17章13~19節
 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

○箴言 8章22~26節
 主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。
 永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。
 わたしは生み出されていた
 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
 わたしは生み出されていた。
 大地も野も、地上の最初の塵も
 まだ造られていなかった。

○マタイによる福音書 10章28~33節
 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2020」(日本キリスト教団出版局、2019年12月1日発行)より作成

2020年9月27日「大祭司の裁判」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章53-65節

 本日の聖書箇所には、イエス様が大祭司の裁判を受けたことが記されています。
 しかし、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」とありますように(55節)、すでにイエス様を死刑判決することが決まっていた裁判でした。
 ゲツセマネで祈られたイエス様は、ユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて来られました。そこに、祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来ました。
 ある人々は、神殿に対する冒とく罪を持ち出しましたが、彼らの証言は食い違っていたのです(59節)。そして最後に、大祭司による審問に入ります。
 「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。
 大祭司はイエス様に今までの偽証への釈明を求めました。しかし、イエス様は黙して、語りませんでした。そこで、重ねて大祭司は「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねたのです。
 この問いかけに対して、イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えております(62節)。
 このイエス様の言葉尻をもって、最高法院のメンバーたちは、自分を神とするイエス様に対して、神への冒とく罪として、死刑にすべきだと決議したのです(64節)。
 教会は、イエス様こそ、神の子・キリストであることを告白するところです。イエス様がユダヤの最高法院ではっきりと、「そうです」と告白されたように、教会に集われた一人一人がイエス様こそ神の子・キリストであることを告白し続けていくときに、教会は教会になっていくのです。

2020年9月20日「亜麻布の信仰」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章51-52節

 一人の若者が身にまとっていた亜麻布を捨てて、裸のままで逃げてしまいました。教会の歴史の中で、この若者は、今日の「マルコによる福音書」を書いたマルコではないかと言われてきました。
 マルコの母マリアは、イエス様が十字架に架かられる前から、イエス様に従っていた女性の弟子の一人で、信仰深く、教会のために自宅を惜しみなく開放していた人物でした。ですから、マルコは、この母の影響でクリスチャンになったのではないか、そして彼の信仰の歩みもまた母マリアの祈りに支えられていたと思われます。
 マルコが、「素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた」とあります(51節)。
 当時、布を巻き付けるような服装でもあったので、マルコは亜麻布を巻き付けるような姿でイエス様の後をついていったのです。
 しかし、ある程度、イエス様の後をついていったのですが、「人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」のです(52節)。
 この亜麻布を信仰と重ねて考えますと、マルコの信仰は、亜麻布をまとうような信仰でした。そして、試練に会ったとき、それを脱ぎ捨てて逃げてしまったのです。
 私たちの信仰は、服装のように着たり脱いだりするものではありません。ある程度従ってやめるのではなく、最後まで主イエスに従っていくこと。それが、本当の信仰ではないでしょうか。