2023年4月の主日聖書日課から

4月2日
○ゼカリヤ書9章9-10節
 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る
 雌ろばの子であるろばに乗って。
 わたしはエフライムから戦車を
 エルサレムから軍馬を絶つ。
 戦いの弓は絶たれ
 諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ
 大河から地の果てにまで及ぶ。

○イザヤ書56章1-8節
 主はこう言われる。
 正義を守り、恵みの業を行え。
 わたしの救いが実現し
 わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
 いかに幸いなことか、このように行う人
 それを固く守る人の子は。
 安息日を守り、それを汚すことのない人
 悪事に手をつけないように自戒する人は。
 主のもとに集って来た異邦人は言うな
 主は御自分の民とわたしを区別される、と。
 宦官も、言うな
 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
 なぜなら、主はこう言われる
 宦官が、わたしの安息日を常に守り
 わたしの望むことを選び
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
 息子、娘を持つにまさる記念の名を
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。
 その名は決して消し去られることがない。
 また、主のもとに集って来た異邦人が
 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
 安息日を守り、それを汚すことなく
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
 わたしの祈りの家の喜びの祝いに
   連なることを許す。
 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
 追い散らされたイスラエルを集める方
   主なる神は言われる
 既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

○ルカによる福音書23章32-49節
 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

4月9日
○創世記9章8-13節
 神はノアと彼の息子たちに言われた。
 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
 更に神は言われた。
 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。

○ルカによる福音書24章1-12節
 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

○エレミヤ書31章1-6節
 そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。
 主はこう言われる。
 民の中で、剣を免れた者は
   荒れ野で恵みを受ける
 イスラエルが安住の地に向かうときに。
 遠くから、主はわたしに現れた。
 わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し
 変わることなく慈しみを注ぐ。
 おとめイスラエルよ
 再び、わたしはあなたを固く建てる。
 再び、あなたは太鼓をかかえ
 楽を奏する人々と共に踊り出る。
 再び、あなたは
 サマリアの山々にぶどうの木を植える。
 植えた人が、植えたその実の初物を味わう。
 見張りの者がエフライムの山に立ち
   呼ばわる日が来る。
 「立て、我らはシオンへ上ろう
 我らの神、主のもとへ上ろう。」

○ヨハネによる福音書20節1-18節
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

4月16日
○列王記下7章1-16節
 エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」
 城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がったが、アラムの陣営の外れまで来たところ、そこにはだれもいなかった。
 主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。
 重い皮膚病を患っている者たちは陣営の外れまで来て、一つの天幕に入り、飲み食いした後、銀、金、衣服を運び出して隠した。彼らはまた戻って来て他の天幕に入り、そこからも運び出して隠した。彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」彼らは行って町の門衛を呼び、こう伝えた。「わたしたちはアラムの陣営に行って来ましたが、そこにはだれもいませんでした。そこには人の声もなく、ただ馬やろばがつながれたままで、天幕もそのままでした。」門衛たちは叫んで、この知らせを中の王家の人々に知らせた。
 夜中に王は起きて家臣たちに言った。「アラム軍が我々に対して計っていることを教えよう。我々が飢えているのを知って、彼らは陣営を出て野に隠れ、『イスラエル人が町から出て来たら、彼らを生け捕りにし、町に攻め入ろう』と思っているのだ。」家臣の一人がそれにこう答えた。「ここに残っている馬の中から五頭を選び、それに人を乗せて偵察に送りましょう。彼らも、ここに残っているイスラエルのすべての民衆、また既に最期を遂げたイスラエルのすべての民衆と同じ運命にあるのです。」こうして、彼らが馬と二台の戦車を選ぶと、王は、「行って見てくるように」と命じて、アラムの軍勢の後を追わせた。彼らはアラム軍の後を追って、ヨルダンまで来たが、その道はどこもアラム軍が慌てて投げ捨てた衣類や武具で満ちていた。使いの者たちは帰って来てこのことを王に報告した。
 そこで民は出て行ってアラムの陣営で略奪をほしいままにし、主の言葉どおり上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られるようになった。

○ルカによる福音書24章13-35節
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

4月23日
○イザヤ書51章1-6節
 わたしに聞け、正しさを求める人
 主を尋ね求める人よ。
 あなたたちが切り出されてきた元の岩
 掘り出された岩穴に目を注げ。
 あなたたちの父アブラハム
 あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
 わたしはひとりであった彼を呼び
 彼を祝福して子孫を増やした。
 主はシオンを慰め
 そのすべての廃虚を慰め
 荒れ野をエデンの園とし
 荒れ地を主の園とされる。
 そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
 わたしの民よ、心してわたしに聞け。
 わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
 教えはわたしのもとから出る。
 わたしは瞬く間に
 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
 わたしの腕は諸国の民を裁く。
 島々はわたしに望みをおき
 わたしの腕を待ち望む。
 天に向かって目を上げ
 下に広がる地を見渡せ。
 天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
 わたしの救いはとこしえに続き
 わたしの恵みの業が絶えることはない。

○ルカによる福音書24章36-43節
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

4月30日
○出エジプト記16章4-16節
 主はモーセに言われた。
 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。
 「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
 モーセは更に言った。
 「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに仰せになった。
 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
 「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」

○ヨハネによる福音書6章34-40
 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2023」(日本キリスト教団出版局、2022年9月28日発行)より作成

2023年4月 教会学校ニュース20号

 皆さん、進級・進学おめでとうございます。
 4月からの新しい年度も主の恵みのうちに豊かに成長されることを祈ります。
 教会学校において主イエス・キリストの言葉を聞き、元気に歩んでまいりましょう。
 5月5日には、新緑の中ピクニックを計画しています。ぜひご参加ください。

2023年3月の主日聖書日課から

3月5日
○創世記6章11-22節
 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。
 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
 わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。

○ルカによる福音書11章14-26節
 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

3月12日
○イザヤ書63章7-14節
 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を
 主がわたしたちに賜ったすべてのことを
 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み
 憐れみと豊かな慈しみを。
 主は言われた
 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
 そして主は彼らの救い主となられた。
 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
 御前に仕える御使いによって彼らを救い
 愛と憐れみをもって彼らを贖い
 昔から常に
 彼らを負い、彼らを担ってくださった。
 しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。
 主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。
 そのとき、主の民は思い起こした
 昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか
 その群れを飼う者を海から導き出された方は。
 どこにおられるのか
 聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。
 主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ
 民の前で海を二つに分け
 とこしえの名声を得られた。
 主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが
 彼らは荒れ野を行く馬のように
 つまずくこともなかった。
 谷間に下りて行く家畜のように
 主の霊は彼らを憩わせられた。
 このようにあなたは御自分の民を導き
 輝く名声を得られた。

○ルカによる福音書9章18-27節
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

3月19日
○出エジプト記34章29-35節
 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。
 モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。

○ルカによる福音書9章28-36節
 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

3月26日
○哀歌1章1-14節
 なにゆえ、独りで座っているのか
   人に溢れていたこの都が。
 やもめとなってしまったのか
   多くの民の女王であったこの都が。
 奴隷となってしまったのか
   国々の姫君であったこの都が。
 夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。
 彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。
 友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。
 貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き
 異国の民の中に座り、憩いは得られず
 苦難のはざまに追い詰められてしまった。
 シオンに上る道は嘆く
   祭りに集う人がもはやいないのを。
 シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。
 シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。
 シオンの背きは甚だしかった。
 主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し
 苦しめる者らを頭とされた。
 彼女の子らはとりことなり
   苦しめる者らの前を、引かれて行った。
 栄光はことごとくおとめシオンを去り
 その君侯らは野の鹿となった。
 青草を求めたが得られず
 疲れ果ててなお、追い立てられてゆく。
 エルサレムは心に留める
   貧しく放浪の旅に出た日を
 いにしえから彼女のものであった
   宝物のすべてを。
 苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を
   助ける者はない。
 絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている。
 エルサレムは罪に罪を重ね
 笑いものになった。
 恥があばかれたので
 重んじてくれた者にも軽んじられる。
 彼女は呻きつつ身を引く。
 衣の裾には汚れが付いている。
 彼女は行く末を心に留めなかったのだ。
 落ちぶれたさまは驚くばかり。
 慰める者はない。
 「御覧ください、主よ
   わたしの惨めさを、敵の驕りを。」
 宝物のすべてに敵は手を伸ばした。
 彼女は見た、異国の民が聖所を侵すのを。
 聖なる集会に連なることを
   主に禁じられた者らが。
 彼女の民は皆、パンを求めて呻く。
 宝物を食べ物に換えて命をつなごうとする。
 「御覧ください、主よ
   わたしのむさぼるさまを見てください。」
 道行く人よ、心して
   目を留めよ、よく見よ。
 これほどの痛みがあったろうか。
 わたしを責めるこの痛み
 主がついに怒ってわたしを懲らす
   この痛みほどの。
 主は高い天から火を送り
 わたしの骨に火を下し
 足もとに網を投げてわたしを引き倒し
 荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる。
 背いたわたしの罪は御手に束ねられ
   軛とされ、わたしを圧する。
 主の軛を首に負わされ
   力尽きてわたしは倒れ
 刃向かうこともできない敵の手に
   引き渡されてしまった。

○ルカによる福音書20章9-19節
 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。』
 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2023」(日本キリスト教団出版局、2022年9月28日発行)より作成

2023年2月の主日聖書日課から

2月5日
○箴言3章1-8節
 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。
 わたしの戒めを心に納めよ。
 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し
 平和が与えられるであろう。
 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。
 それらを首に結び
 心の中の板に書き記すがよい。
 そうすれば、神と人の目に
 好意を得、成功するであろう。
 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
 常に主を覚えてあなたの道を歩け。
 そうすれば
 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
 自分自身を知恵ある者と見るな。
 主を畏れ、悪を避けよ。
 そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり
 あなたの骨は潤されるであろう。

○ルカによる福音書8章4-15節
 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、
 『彼らが見ても見えず、
 聞いても理解できない』
 ようになるためである。」
 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

2月12日
○ヨブ記2章1-10節
 またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。
 「お前はどこから来た。」
 「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
 主はサタンに言われた。
 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
 サタンは答えた。
 「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
 主はサタンに言われた。
 「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
 サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
 彼の妻は、
 「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。
 「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

○ルカによる福音書5章12-26節
 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

2月19日
○イザヤ書41章8-16節
 わたしの僕イスラエルよ。
 わたしの選んだヤコブよ。
 わたしの愛する友アブラハムの末よ。
 わたしはあなたを固くとらえ
 地の果て、その隅々から呼び出して言った。
 あなたはわたしの僕
 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
 たじろぐな、わたしはあなたの神。
 勢いを与えてあなたを助け
 わたしの救いの右の手であなたを支える。
 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆
 恥を受け、辱められ
 争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。
 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず
 戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。
 わたしは主、あなたの神。
 あなたの右の手を固く取って言う
 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
   主は言われる。
 恐れるな、虫けらのようなヤコブよ
 イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。
 見よ、わたしはあなたを打穀機とする
 新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。
 あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。
 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ
 嵐がそれを散らす。
 あなたは主によって喜び躍り
 イスラエルの聖なる神によって誇る。

○ルカによる福音書9章10-17節
 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

2月26日
○申命記6章10-19節
 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。

○ルカによる福音書4章1-13節
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
 また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2023」(日本キリスト教団出版局、2022年9月28日発行)より作成

神様の御心を受け入れる マリアの信仰と決心 ルカによる福音書一章二六~三八節

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 この聖書箇所は、「受胎告知」と呼ばれるところで、天使ガブリエルがマリアに神の御子を宿すことを告げる場面です。二六節、二七節です。 「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」 この「六か月目に」というのは、洗礼者ヨハネが高齢になっていた母エリサベトの胎に宿ってから六か月目ということです。その時に、天使ガブリエルがマリアの元に遣わされました。神様はこのマリアに目を留めて、天使を遣わしたということです。 では、マリアという女性はどんな人だったのでしょうか。まず、ガリラヤ地方のナザレの町に住んでいました。ガリラヤ地方というのは、イスラエルでは、北のはずれの方に位置します。中心のエルサレムからは遠く離れた辺境の地です。しかも、ナザレの町は田舎の小さな町にすぎませんでした。また、マリアはヨセフという若者と婚約をしていました。相手のヨセフはダビデ家の人であったとあります。これは、ヨセフと結婚することで生まれてくる子どもは、ダビデの子孫となることを意味しています。マリアについてはこれだけのことしか分かりません。ところが、イスラエルの女性の中から、たった一人選ばれるにしては余りにも普通の人のように思われます。マリアはナザレという小さな町の普通の若い女性でした。神様はそのマリアを救い主の母となる人として選ばれました。 次に、天使ガブリエルはマリアにどんなことを告げたのでしょうか。三一節です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」なんとまだ結婚していないのに、「あなたは身ごもる」というのです。しかも、生まれてくる子どもは男の子で、「イエス」という名前まで指定されます。続いて、三二節、三三節です。 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 生まれてくる男の子が「いと高き方の子と言われる」ということは、その子が神の子であることを意味しています。そして、その子はかつてイスラエルの王であったダビデのような王様になって、永遠にこの国を治めるようになると告げるのです。それは、イスラエルの民が昔から待ち望んできた救い主なるお方が、ようやくマリアのお腹から生まれてくることを意味していました。

 天使のお告げを受け止める

 マリアは天使のお告げをどう受け止めたのでしょうか。まず、天使の挨拶に戸惑いました。いきなり天使が現れて「おめでとう、恵まれた方」と言われても、「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」わけです(二九節)。また、告げられたことを聞いて、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っています(三四節)。つまり、「あなたは男の子を産む」と告げられても、まだ結婚前の身でしたので、子どもが生まれるということは常識ではあり得ない、理解できないというのです。 これに対して、天使はこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(三五節)。聖霊なる神の力によって、あなたは身ごもるのだというのです。そして、さらにこう言いました。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(三六、三七節)。これを聞いて、マリアはこう言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(三八節)。マリアは天使の言葉を信じて、告げられたことをすべて受け入れて、これから自分の身に起こることを委ねる決心をしました。 では、マリアはどうして天使の言葉を受け入れることができたのでしょうか。マリアに告げられたことは、確かにイスラエルの人々にとっては喜ばしい知らせでした。なぜなら、昔から待ち望んでいた救い主であり、この国の王となる方がようやく来られるというからです。しかし一方で、マリア個人にとって、それは都合の悪いことでもありました。まず、婚約相手のヨセフがこんな話を信じてくれるだろうかという心配があったわけです。常識ではあり得ないこと、理解できないことですから、信じてもらえないだろうと予測をされます。そうなると、ヨセフから婚約を破棄されます。また、婚約中で身ごもるということは、当時の掟では、石で殺されなければならない姦淫の罪であり、社会の交わりから疎外され、共同体から分断されることを意味しました。要するに、イスラエル全体にとっては喜ばしい知らせでしたが、マリアにとっては都合の悪いことでした。また、マリアの命に関わるようなことでした。 ところが、マリアはそれが自分にとって都合が悪いというようなことは考えなかったようです。彼女の言葉を見ると、驚いたり、戸惑ったりはしていますが、天使の言葉を拒んではいないのです。普通であれば、自分にとって都合がいいか、悪いかを考えるのです。そして、自分にとって都合が悪ければ、「いいえ、結構です」とお断りすると思います。でもマリアは、そういうことを一切考えないで、イスラエルにとって、これは良いことだと受け止めたわけです。そして、何よりもそれが、神様が望んでおられることで、神様の御心だということを素直に受け入れたのです。つまり、天使から告げられたことは常識では理解できないことでした。しかし、マリアは天使の言葉を聞いて、それを神様の御心であり、民全体にとって喜ばしい知らせだと受け止めたのです。また、「神にできないことは何一つない」という言葉を素直に受け入れて信じました。一切を委ねる決心をしたのです。そして自分の身を通して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました(三八節)。 ここには、全能の神様を信じて、一切を委ねていくマリアの信仰が表されています。そして、神様はそのマリアの信仰を用いてくださったのです。こうして考えてみると、マリアがなぜ選ばれて、救い主の母として用いられたのか、分かるような気がします。マリアのように、私たちも神様の言葉に、信仰によって応えていきたいと思います。

随想 我が父 舒宗啓をしのぶ

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:YH)

 中国西安市の中心部、にぎやかな街の隅に陝西省(せんせいしょう)図書館がありました。父 舒宗啓(じょそうけい)が勤めた所です。私は一九六八年六月二十四日に陝西省図書館の寮に生まれました。二年間、父と母と三人で暮らしました。当時キッチンは寮の中にはなく、館員は家族でドアの外でご飯を作っていました。父は日曜日は開館日なので働き、月曜日は閉館日で休みでした。
 私は二歳のときに引っ越して、碑林区鉄路局の母が勤めていた中学校の寮に住み始めました。一九七〇年頃、文化大革命の時期、童話の本は「毒草」に指定されて、「燃やせるゴミ」になりました。父は命を賭けて童話の本を持ち帰りました。百冊以上ありました。『亀と兎の競争』『長髪妹(髪長姫、ラプンツェル)』『カラスの智慧』など、母は毎日、夜私が寝る前に読んでくれました。幸せな日々でした。
 今思い出したのですが、父は一日の仕事を終えて私を連れて家に帰るとき、陝西省著書間の出入口にあったぶどうの棚の道で、父に肩車されて、小さな青いぶどうを取って持ち帰りました。大体八月から九月に、ぶどうは熟して酸っぱい渋さのある味でした。今でも記憶に新鮮です。

 (父をしのぶ俳句)
  我が父の背中を包む夕日かな

 舒宗啓は一九三八年生まれ、湖北省鄂州市(がくしゅうし)出身。二〇二二年七月一日夜八時二十分に天に召されました。享年八十四歳。一九九二年九月二十四日、中国西安市南新街教会でキリスト教を受洗し、当時五十四歳でした。娘と息子をもうけ、私は長女です。
 経歴:中国西北大学物理系卒業、中国陝西省図書館副館長、中国西安市信息研究所文献館館長、中国西安市経済信息中心国際信息部経理

随想 他利側楽(たりはたらく) がんウイルスが示す命共生の選択

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:KM)

 私は去る五月、小さな自伝を発行しました。大変僭越ながら、促されるままここに自己紹介させていただきます。
 命育む地球を初めて宇宙のかなたから見たガガーリンの「地球は青かった」という言葉は有名です。彼の後、多くの人が宇宙から地球を眺め、いとおしむ感情を述懐しています。命育む状態は壊れやすいということでしょうか。
 衆知のとおり、今や地球環境は危機的状態にあります。先日アフリカで開催されたCOP27の議論を聴くまでもなく、地球温暖化は命の存続を脅かしています。この危機的状態の改善にとって、国際間のエゴが大きな障害になっています。
 私の若い頃、日本は第二次世界大戦を引き起こし、敗戦という史上未曽有の経験の最中にありました。この間私は、自己責任で生きることの大切さを体験し、このことで聖書に出会う機会に恵まれました。代々家業であった医者の道に進むことにしたその入口で、目指す医師像についてアンケートがありました。聖書を読んでいた私は「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても神の栄光を現すため」(コリント信徒への手紙1 一〇章三一節)というパウロの言葉を究極の目標として医道に励みたいと書きました。自力でそのようなことを実践できないことを、私自身が一番よく分かっていました。しかし、この選択は私に大きな影響をもたらしたと思います。
 ジャン・ポール・サルトルは言っています。人の一生は誕生(B=birth)に始まり、死(D=death)で終わる。そのBとDの間の選択(C=choice)が一人ひとりの人生を彩ると。私は、自分の真のふるさとに錨(A=anchor)を下ろすことができることが大切だと思います。つまりABCDの人生です。
 旧約聖書の記述によれば、創造主の神は、天地創造の最後に人を造られ、そして選択の自由を与えられて、神が良しとした楽園に住まわせました。人は自らの選択で禁断の木の実を食べて、失楽園の結果を招きました。
 創造の最後に造られた人に、神は「生めよ増えよ地に満てよ、地を治めよ」と祝福を与えられ、自分の周りに利益をもたらすこと、つまり私の言うところの「他利側楽」を期待されましたが、人は自ら失楽園の道を選択してしまいました。人はそのことを悔い改め、創造の神のお赦しを受けなければ状況は悪化するばかりです。
 私は自分の選択により、半世紀以上にわたりがんウイルスとお付き合いすることになりました。地球上の最も小さい生命であるウイルスは、自分の子孫を残すためにそれぞれ特殊な機能を持った生きた宿主細胞が必要なのです。自分の子孫を増やし過ぎれば宿主細胞は死滅し、結果としてウイルス自身も死滅してしまいます。存続のためには宿主と共に生きる条件を見いださなければならないのです。ウイルスは遺伝子の発現を調整してこれを達成させています。
 ウイルスとの長いお付き合いからいろいろなことを学びましたが、その中でもこの命共存の法則は、極小の生命であるウイルスが発信しているとても大切なメッセージであることを知りました。己の英知にのみ頼るのではなく、周囲との共生を図ることが、自分の健康寿命の延伸につながることを教えられました。現在人類を悩ませている新型コロナウイルスへの対応においても、ウイルスとの共生は大切なことだと思います。
 私の選択によって生じた困難な経験を通して、私を守り導いてくださった神の大きな愛のエネルギーの一端を、下記の拙文に託しました。お目通しいただければ、私にとって「他利側楽」の思いであり、感謝です。