2025年4月の主日聖書日課から

4月6日
○創世記25章29-34節
 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。
 「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。
 「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。
 「では、今すぐ誓ってください。」
 エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。

○マタイによる福音書20章20-28節
 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

4月13日
○哀歌5章15-22節
 わたしたちの心は楽しむことを忘れ
 踊りは喪の嘆きに変わった。
 冠は頭から落ちた。いかに災いなことか
   わたしたちは罪を犯したのだ。
 それゆえ、心は病み
 この有様に目はかすんでゆく。
 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。
 主よ、あなたはとこしえにいまし
 代々に続く御座にいます方。
 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
 果てしなく見捨てておかれるのですか。
 主よ、御もとに立ち帰らせてください
 わたしたちは立ち帰ります。
 わたしたちの日々を新しくして
 昔のようにしてください。
 あなたは激しく憤り
 わたしたちをまったく見捨てられました。

○マタイによる福音書27章32-56節
 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

4月20日
○創世記1章1-5節
 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
 「光あれ。」
 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 
○創世記1章26-31節
 神は言われた。
 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。
 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
 神は言われた。
 「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
 そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

○マタイによる福音書28章1-10節
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

○イザヤ書12章1-6節
 その日には、あなたは言うであろう。
 「主よ、わたしはあなたに感謝します。
 あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが
 その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
 見よ、わたしを救われる神。
 わたしは信頼して、恐れない。
 主こそわたしの力、わたしの歌
 わたしの救いとなってくださった。」
 あなたたちは喜びのうちに
   救いの泉から水を汲む。
 その日には、あなたたちは言うであろう。
 「主に感謝し、御名を呼べ。
 諸国の民に御業を示し
 気高い御名を告げ知らせよ。
 主にほめ歌をうたえ。
 主は威厳を示された。
 全世界にその御業を示せ。
 シオンに住む者よ
   叫び声をあげ、喜び歌え。
 イスラエルの聖なる方は
   あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

○ヨハネによる福音書20章1-18節
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

4月27日
○イザヤ書65章17-25節
 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。
 それはだれの心にも上ることはない。
 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。
 わたしはエルサレムを喜びとし
 わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
 そこには、もはや若死にする者も
 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
 百歳で死ぬ者は若者とされ
 百歳に達しない者は呪われた者とされる。
 彼らは家を建てて住み
 ぶどうを植えてその実を食べる。
 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく
 彼らが植えたものを
   他国人が食べることもない。
 わたしの民の一生は木の一生のようになり
 わたしに選ばれた者らは
 彼らの手の業にまさって長らえる。
 彼らは無駄に労することなく
 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。
 彼らは、その子孫も共に
 主に祝福された者の一族となる。
 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
 まだ語りかけている間に、聞き届ける。
 狼と小羊は共に草をはみ
 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし
 わたしの聖なる山のどこにおいても
 害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

○マタイによる福音書28章11-15節
 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
 
出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2025」(日本キリスト教団出版局、2024年12月20日発行)より作成

2025年2月16日 虹の会(信徒懇話会)

 2月16日(日)の礼拝後、虹の会(信徒懇話会)では、小島道裕さんを講師として「うどんとうどん屋の歴史」についてお話しを伺いました。
 おうどんをいただいた後、屏風絵に残されている「うどん屋の看板」のことなど、興味深いお話しを伺いました。

うどんをいただいた後、うどんの歴史について興味深いお話しを伺いました
講師の小島道裕さん(元国立歴史民俗博物館教授)
うどん屋にてうどんを食べている様子が描かれています

2025年3月の主日聖書日課から

3月2日
○イザヤ書30章8-17節
 今、行って、このことを彼らの前で
 板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ。
 まことに、彼らは反逆の民であり
 偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。
 彼らは先見者に向かって、「見るな」と言い
 預言者に向かって
 「真実を我々に預言するな。
 滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。
 道から離れ、行くべき道をそれ
 我々の前でイスラエルの聖なる方について
 語ることをやめよ」と言う。
 それゆえ
 イスラエルの聖なる方はこう言われる。
 「お前たちは、この言葉を拒み
 抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえ
 この罪は、お前たちにとって
 高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。
 崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。
 その崩壊の様は陶器師の壺が砕けるようだ。
 容赦なく粉砕され
 暖炉から火を取り
 水槽から水をすくう破片も残らないようだ。」
 まことに、イスラエルの聖なる方
 わが主なる神は、こう言われた。
 「お前たちは、立ち帰って
 静かにしているならば救われる。
 安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
 しかし、お前たちはそれを望まなかった。
 お前たちは言った。
 「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。
 それゆえ、お前たちは逃げなければならない。
 また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに
 あなたたちを追う者は速いであろう。
 一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ
 五人の威嚇によって、お前たちは逃れる。
 残る者があっても、山頂の旗竿のように
 丘の上の旗のようになる。
 
○マタイによる福音書14章22-36節
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

3月9日
○申命記30章15-20節
 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。

○マタイによる福音書4章1-4節
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」

3月16日
○イザヤ書35章1-10節
 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
 野ばらの花を一面に咲かせよ。
 花を咲かせ
 大いに喜んで、声をあげよ。
 砂漠はレバノンの栄光を与えられ
 カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
 人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
 弱った手に力を込め
 よろめく膝を強くせよ。
 心おののく人々に言え。
 「雄々しくあれ、恐れるな。
 見よ、あなたたちの神を。
 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
 神は来て、あなたたちを救われる。」
 そのとき、見えない人の目が開き
 聞こえない人の耳が開く。
 そのとき
 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
 口の利けなかった人が喜び歌う。
 荒れ野に水が湧きいで
 荒れ地に川が流れる。
 熱した砂地は湖となり
 乾いた地は水の湧くところとなる。
 山犬がうずくまるところは
 葦やパピルスの茂るところとなる。
 そこに大路が敷かれる。
 その道は聖なる道と呼ばれ
 汚れた者がその道を通ることはない。
 主御自身がその民に先立って歩まれ
 愚か者がそこに迷い入ることはない。
 そこに、獅子はおらず
 獣が上って来て襲いかかることもない。
 解き放たれた人々がそこを進み主に贖われた人々は帰って来る。
 とこしえの喜びを先頭に立てて
 喜び歌いつつシオンに帰り着く。
 喜びと楽しみが彼らを迎え
 嘆きと悲しみは逃げ去る。

○マタイによる福音書12章22-32節
 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

3月23日
○ヨブ記1章1-12節
 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。
 「お前はどこから来た。」
 「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
 主はサタンに言われた。
 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
 サタンは答えた。
 「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
 主はサタンに言われた。
 「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」
 サタンは主のもとから出て行った。

○マタイによる福音書16章13-28節
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

3月30日
○出エジプト記24章3-11節
 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

○マタイによる福音書23章25-36節
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2025」(日本キリスト教団出版局、2024年12月20日発行)より作成

2025年2月の主日聖書日課から

2月2日
○創世記28章10-22節
 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。
 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
 ヤコブは眠りから覚めて言った。
 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
 そして、恐れおののいて言った。
 「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
 「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

○マタイによる福音書21章12-16節
 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
 ところが、あなたたちは
   それを強盗の巣にしている。」
 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

2月9日
○イザヤ書6章8-12節
 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。
 誰が我々に代わって行くだろうか。」
 わたしは言った。
 「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください。」
 主は言われた。
 「行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
 この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。」
 わたしは言った。
 「主よ、いつまででしょうか。」
 主は答えられた。
 「町々が崩れ去って、住む者もなく
 家々には人影もなく
 大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
 主は人を遠くへ移される。
 国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。

○マタイによる福音書13章10-17節
 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
   耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。』
 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

2月16日
○イザヤ書30章18-21節
 それゆえ、主は恵みを与えようとして
   あなたたちを待ち
 それゆえ、主は憐れみを与えようとして
   立ち上がられる。
 まことに、主は正義の神。
 なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
 まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ
 もはや泣くことはない。
 主はあなたの呼ぶ声に答えて
 必ず恵みを与えられる。
 主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。
 わが主はあなたたちに
 災いのパンと苦しみの水を与えられた。
 あなたを導かれる方は
   もはや隠れておられることなく
 あなたの目は常に
   あなたを導かれる方を見る。
 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
 「これが行くべき道だ、ここを歩け
 右に行け、左に行け」と。

○マタイによる福音書5章17-20節
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

2月23日
○列王記下5章1-14節
 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。
 「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

○マタイによる福音書15章21-31節
 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2025」(日本キリスト教団出版局、2024年12月20日発行)より作成

「キリスト・イエスの心を心にせよ」 謙遜と尊敬の心を持って フィリピの信徒への手紙二章一~五節

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 今日のところでは、キリストにあって、思いを一つにするようにという勧めがなされています。一節、二節に「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。「そこで」と始まっていますが、これは、それまで述べてきたことを言っています。そして、あなたがたはイエスの十字架の愛によって、天の御国に属する市民となったので、御国の一員として、同じ思いとなりなさいと勧めています。
 ところが、フィリピ教会の中には一致できない問題があったようでした。一章一五節に「ねたみと争いの念にかられてする者もいれば」とあります。教会の中で、妬みや争いの念に駆られて、イエス様のことを宣べ伝える人がいたようです。それから、四章二節にはエボディアとシンティケという二人の女性が出てきますが、その二人の間に一致できない問題があったことが伺えます。パウロはこの二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と言っています。恐らく、この二人はイエス様のことを熱心に伝えたい、その熱心さのゆえに、お互いに譲らないことがあったようです。同じ信仰の仲間なのに、同じ思いになれない現実がありました。
 それは、この手紙を書いたパウロ自身もかつて経験したことでした。パウロが、第二回目の伝道旅行に出かけたときのことです。それまで一緒に働いてきたバルナバがいとこのマルコを連れていきたいと言い出しました。それに対して、パウロは強く反対します。それは、マルコが第一回目の伝道旅行のときに、途中で家に帰ってしまったからです。パウロはそんな者は一緒に連れていくべきではないと考えました。そこで、意見が激しく衝突して、二人はついに別行動を取ることになってしまいました(使徒一五章三九節)。後になって、二人は和解をするのですが、パウロにとってつらい出来事であったと思います。
 では、パウロはどのようにして、思いを一つにしなさいと言っているのでしょうか。一節をもう一度お読みします。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」とあります。これは、条件というよりも、私たちには「キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるのだから」という意味合いがあります。つまり、教会の真ん中にはイエス・キリストがおられ、お互いがつながっているのです。そして、その教会にはキリストによる励まし、愛の慰めが注がれています。また、同じ聖霊の交わりによって、お互いの間に慈しみや憐れみの心が満ちています。だから、思いを一つにすることできるということです。
 でもそうは言っても、実際には中々同じ思いになれない現実があります。三節前半に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。ここに教会の一致を妨げるものとして、二つのことが挙げられています。一つは、利己心です。自分の利益だけを求めることです。教会の心を優先するのではなく、自分の心、自分の願い、自分の利益を優先することです。そうした自分のことを優先すると、どうしても意見がぶつかってしまいます。同じ思いになることが難しくなります。もう一つは、虚栄心です。実際の自分よりも、良く見せようとすることです。見えを張ることです。人は誰でも、このような利口心や虚栄心があるので、中々思いを一つにすることが難しくなります。

 「へりくだる」ことと謙遜な者になること

 ところが、パウロは思いを一つにするために、三節後半で「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と勧めています。ここにも二つのことが挙げられています。一つは「へりくだる」ことです。自分を低くすること、謙遜な者になることです。本来、人は本能的に自分を低くすることが中々できない存在なのかも知れません。それでも、神様は私たちに謙遜な者になることを求めておられます。そして、もう一つのことは、「相手を自分よりも優れた者と考えること」です。他者を敬うこと、尊敬することです。これも心から実行することは中々難しいことです。でも、なぜ、謙遜と尊敬の心を持たなければならないのでしょうか。それは、神様の前には誰も誇れる者はいないからです。皆、神様の前に罪深く、傲慢な者です。この私たちのために、御子なるイエス様が低くなって、人となり、家畜小屋の硬い飼い葉桶で生まれ、十字架で尊い命をささげてくださいました。私たちに代わって、私たちの罪をあがなってくださいました。それが、どれほど大きな恵みなのか、本当に分かるときに、謙遜と尊敬の心が与えられるのではないでしょうか。そして、本当の意味で、自らへりくだり、相手を自分よりも優れた者と考えることができるのだと思います。
 今年、創立百二十周年を迎えている佐倉教会のこれまでの営みの中、いろんな意見の対立があったと思われます。その中で、どうやって一つの思いになっていくのか、そのことを信仰の先輩たちが大事にしてこられたので、今、創立百二十周年という大きな恵みを受けているのだと思います。フィリピの教会は、利己心と虚栄心のために信仰生活を送るような悲しい現実がありました。パウロはそういう状況を聞いて、勧めています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
 最後の五節に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」とあります。「このこと」というのは、一節から四節まで記されてきたこと、つまり、思いを一つにすることを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものなのだというのです。文語訳聖書では「汝らキリスト・イエスの心を心にせよ」と訳しました。あなたたちは、キリストの心を自分の心にしなさいということです。教会の一致を求めるキリストの心を、自分の心としてしっかりと受け止めることです。その集まりこそ、一致が得られるのだろうと思います。
 星野富弘さんの詩の中、「強いものが集まったよりも、弱いものが集まったほうが、真実に近いような気がする」という一節があります。自分の弱さを知り、キリストの力のみを頼るとき、初めて教会の一致が得られるのではないかと思います。「汝ら、キリスト・イエスの心を心にせよ」キリストが示してくださった心を、自分の心としてしっかりと受け止めて、主にある一致を求めてまいりたいと思います。

転入会者より 父との八年の介護生活 神様のご計画を受け入れる

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:YK)

 このたび佐倉教会の会員として十一月十日に迎え入れていただきました。大変うれしく思っております。佐倉教会を最初に訪れたのは父の洗礼式で、二〇一二年四月八日でした。教会堂一杯に美しいオルガンの音色が響き渡っていました。聖歌隊の歌声が奇麗だったのも印象的でした。百二十年もの間、佐倉の地で福音を宣べ伝える教会として守られてきたことに、神様からの祝福を感じます。また私を佐倉教会に導いていただいた大きな主の恵みに感謝しています。
 二〇二四年六月十七日が父とのお別れの日となりました。「介護生活がいつまで続くか分かりませんが、神様に全てを委ねていきます」と六月発行のぶどうの枝第六十号に載せていただきました。その直後に父は神様の元へ旅立ちました。主に全てを委ねつつもお別れがくる日が怖くて、毎晩「今まで守ってくれてありがとう」と伝えていました。神様のご計画だと思うと、感謝とともに受け入れることができた気がします。父との介護生活は八年間でした。大変でくじけそうな時期もありましたが、体が不自由になっても不平不満一つ言わなかった父から見習うことも多々ありました。
 ベッド上での生活が主になった父の自宅を、金牧師と教会員の方々が何度となく訪問してくださいました。聖書の学び、祈り、励ましで支えていただいた日々は忘れられない体験です。また祈祷会でのお祈りなど、たくさんのお支えがありました。金牧師、会員の皆様に心より感謝いたします。母は八年前に神様の元へ導かれましたので、両親とも地上での歩みを終えました。両親との別れはつらいものでありますが、救いと祝福を与えてくださる主に感謝の気持ちで一杯です。
 皆様に支えていただきながら、感謝と祈りを忘れず、謙遜に歩んでいきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

随想 教会はイエス様を乗せた舟

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:MO)

 佐倉教会は百二十周年を共に祝う記念礼拝を守ることができました。礼拝後の愛餐会で思い出の写真がスクリーンに映し出され懐かしい方々のお顔があり、その中にTIさんのお顔もありました。
 黒田先生の時代に、「これからの佐倉教会、こんな教会になれば良いな」と佐倉教会の在り方を話し合ったことがありました。礼拝者人数がどんどん増えていた頃で大きな建物が必要との意見が多い中、Iさんが、「器のハード面ばかりに重きを置くのではなく、近い将来高齢化が進み、少子化も必ず問題になる。教会も同じであり、これからの少子高齢化時代を見据えソフト面の対応を考えるべき」と話されたことが思い出されます。私は、四世代八人家族で生活し、主人の祖父母を家族で看取り、人が最後に向う道のりを生活の中で経験していたので、Iさんの意見は当時強く心に残りました。
 現在、正にその状況で不安が大きかったのですが、記念礼拝の何日か前に所用で教会をお訪ねしたら金先生が思い出の写真を四竃さんが持ってきてくださった。と私にも見せてくださいました。そして金先生が思ったよりたくさんの方の出入りがありますね。とおっしゃいました。私も懐かしいお顔を拝見しながら同じことに気が付きました。そしてちょっとだけ、大丈夫かもと漠然と思いました。
 百二十周年記念礼拝は木下宣世先生の説教「どんな時も、主は共に」をお聞きしました。教会は舟であり「板子一枚下は地獄」私は海辺の町で育ちましたので子供の頃から聞いていた言葉でした。教会はいつも順調な時ばかりではない。様々な問題で漕いでも、漕いでも前に進めないような逆風。前にも後ろにも進めない状況。そこにイエス様は湖面を歩いてきてくださり「私だ。恐れることはない。」とおっしゃいました。イエス様は私達には考え付かないような形で来てくださいます。百二十年航海を続けた佐倉教会、様々な問題があったけれど百二十年礼拝を守ることができたのは神様がいてくださった印です。これからの航海も、様々な困難が待ち受けていても、どこからでも駆けつけてくださるイエス様の御言葉を信じて目的地に向かって進んでいける舟であります。
 木下先生の説教により、不安な気持ちは消えて大丈夫。教会はイエス様を乗せた舟として進んでいける。教会員それぞれができることをできるように力を合わせ、金先生を中心に祈りを合わせ進んでいけばよいのだと少し明るい気持ちになりました。

奨励 私たちの信仰の土台 復活されたキリストと歩む

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:TI)

 礼拝奨励の務めをすることが決まってから、何を取り上げたらよいのかと考えていました。毎日の習慣として、できる限り新約と旧約を一章ずつ読むようにしていますが、たまたまある日の聖書箇所で、とても力強く響くパウロの言葉に出会いました。ここだと思いました。コリントの信徒の手紙一の一五章で、復活について述べたパウロの言葉です。
 「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。(中略)そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(コリントの信徒の手紙一 一五章一四節~一九節)
 私たちは、キリスト者として信仰において歩もうと努めています。そうした私たちの歩み自体は、キリストの復活により支えられていること、キリストの復活が私たちの信仰の土台であることを改めて確認したいと思います。
 私は、愛知県名古屋市内で生まれ育ちました。高校三年の秋に教会の礼拝に初めて出席し、その一年後、一九七四年の秋、大学一年のとき、両親の反対を顧みず、東京都新宿区の大久保教会においてバプテスマを受けました。通っていた教会は、日本バプテスト連盟の教会でしたので、バプテスマ(浸礼)を受けました。
 佐倉市への転居や年齢的なことを考え、佐倉教会に転入したのは、二〇〇八年三月、五十二歳のときでした。転入してきた頃、佐倉教会では、信仰生活五十年を迎えた方々を十一月の教会創立記念日にお祝いすることを始めました。信仰の諸先輩の皆さんのお祝いを見て、信仰生活五十年なんてまだまだ遠い先のことと考えていましたが、いつのまにか私自身が信仰生活五十年となり、感慨深いものがあります。
 私の信仰は、若い頃に主イエス・キリストに出会い、主を見上げ、励まされて歩んできただけという素朴な信仰です。ただ、私は、今も主イエス・キリストが私たち一人一人と歩んでくださっていることを実感として強く感じます。特に、教会の礼拝の場では、主が正にここにいらっしゃると思うのです。もちろん、それはあくまで私のうちの思いであって、他の人にそう説明しても、中々実感として理解してもらうことは難しいかもしれません。

 主イエス・キリストと私たちを結ぶもの

 主イエスが救い主キリストであることは、もちろん聖書を読めば繰り返し言われていることです。しかし、聖書に書いてあることを過去に起こった一度限りの出来事として捉えるならば、確かにそういうことがありましたね、で終わってしまうかもしれません。
 でもそうではないと思います。今から約二千年前にユダヤの地において主イエスが宣教されたことと、今を生きる私たちを主イエス・キリストへと結ぶものがあります。それが復活です。私も、主イエス・キリストが救い主であるとの信仰を持っている皆さんも、キリストの復活がなければ、本日の聖書の箇所でパウロが強く説いているように、私たちは空しい者となります。キリストの復活がなければ、私の信仰五十年の生活は何だったのか、すべて無駄であったということだと思います。もちろん、私も皆さんもこれまでの歩みが空しいものだったとは考えたくありません。キリストの復活は、私たちにとって一種の賭けとも言えるかもしれません。一方、信仰を持たない方から見れば、私たちは正に負ける賭けをしているのではないかと思うでしょう。
 信仰において、私たちには、時に、迷い、疑い、不信に悩まされることがあるかもしれません。弱ったときには、目に見えない主イエス・キリストをどのように信じ、歩んでいけば良いのか迷うこともあるかもしれません。もし、キリストが復活しなかったのならば、私たちの信仰は空しく、この世の生活でキリストに望みを掛けている私たちは、全ての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
 私が信仰を決心したのは、キリストが十字架につけられたとき、私も一人の惨めな人間としてキリストの十字架の下に立っており、キリストが私の身代わりとなってくださったことを実感として受け入れることができたからでした。でも、信仰生活を続けていくことは、一時の気持ちだけでは中々難しいところがあります。理想とは違い、実生活では、いろいろなことがあります。私にも人間的に欠けたところ、足りないところが多々ありますので、もちろん、何度も苦しい思いをしました。就職がうまくいかず、大学を一年留年せざるを得なかったとき、人生経験豊かな父の友人たちからは、人生とは何かをこんこんと説教されました。一言で言えば、「君は、キリスト教信仰を持っていても、世の中のことは何も分かっていないのだよ」ということでした。私には何も返すべき言葉がありませんでした。
 これまで、決して信仰の確信に満ちた人生でも、順風満帆の人生でもありません。でも、私は、今生きています。思い、悩み、迷いながらも今立っているのは、キリストの恵みであると思いますし、復活されたキリストご自身が共に歩んでくださっているからだと思います。私たちの望みはキリストの復活にかかっていること、今日も、明日も、人生の最後の時を迎えるまで覚えていたいものです。
 (本稿は本年八月二十五日の礼拝奨励の原稿をまとめ直したものです)

2024年12月25日 子どもクリスマス会

 12月25日(水)午後1時30分より約2時間、子どもクリスマス会を行いました。
 まず、1階会堂にて礼拝を行った後、2階集会室にて、ケーキをいただき、お祝いの会を開きました。
 お祝いの会では、賛美、朗読劇、クリスマスの思い出のお話し、ゲームなどが行われました。

金牧師からクリスマスのメッセージを聞きます

 

ケーキとお菓子をいただきました