2022年4月の主日聖書日課から

4月3日
○哀歌3章18-33節
 わたしは言う
 「わたしの生きる力は絶えた
 ただ主を待ち望もう」と。
 苦汁と欠乏の中で
 貧しくさすらったときのことを
 決して忘れず、覚えているからこそ
 わたしの魂は沈み込んでいても
 再び心を励まし、なお待ち望む。
 主の慈しみは決して絶えない。
 主の憐れみは決して尽きない。
 それは朝ごとに新たになる。
 「あなたの真実はそれほど深い。
 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
 わたしは主を待ち望む。
 主に望みをおき尋ね求める魂に
 主は幸いをお与えになる。
 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
 若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
 軛を負わされたなら
 黙して、独り座っているがよい。
 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
 打つ者に頬を向けよ
 十分に懲らしめを味わえ。
 主は、決して
 あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
 主の慈しみは深く
 懲らしめても、また憐れんでくださる。
 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても
 それが御心なのではない。

○マルコによる福音書10章32-34節
 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

4月10日
○ゼカリヤ書9章9-10節
 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る
 雌ろばの子であるろばに乗って。
 わたしはエフライムから戦車を
 エルサレムから軍馬を絶つ。
 戦いの弓は絶たれ
 諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ
 大河から地の果てにまで及ぶ。

○イザヤ書50章4-7節
 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
 疲れた人を励ますように
 言葉を呼び覚ましてくださる。
 朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
 弟子として聞き従うようにしてくださる。
 主なる神はわたしの耳を開かれた。
 わたしは逆らわず、退かなかった。
 打とうとする者には背中をまかせ
 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
 主なる神が助けてくださるから
 わたしはそれを嘲りとは思わない。
 わたしは顔を硬い石のようにする。
 わたしは知っている
 わたしが辱められることはない、と。

○マルコによる福音書14章32-42節
 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

4月17日
○出エジプト記14章15-22節
 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

○マルコによる福音書16章1-8節
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

○イザヤ書42章10-16節
 新しい歌を主に向かって歌え。
 地の果てから主の栄誉を歌え。
 海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの
 島々とそこに住む者よ。
 荒れ野とその町々よ。
 ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。
 セラに住む者よ、喜び歌え。
 山々の頂から叫び声をあげよ。
 主に栄光を帰し
 主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
 主は、勇士のように出で立ち
 戦士のように熱情を奮い起こし
 叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。
 わたしは決して声を立てず
 黙して、自分を抑えてきた。
 今、わたしは子を産む女のようにあえぎ
 激しく息を吸い、また息を吐く。
 わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。
 大河を島に変え、湖を干す。
 目の見えない人を導いて知らない道を行かせ
 通ったことのない道を歩かせる。
 行く手の闇を光に変え
 曲がった道をまっすぐにする。
 わたしはこれらのことを成就させ
 見捨てることはない。

○ヨハネによる福音書20章11-18節
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

4月24日
○民数記13章1-2節、17-29節
 主はモーセに言われた。「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」
 モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすにあたってこう命じた。「ネゲブに上り、更に山を登って行き、その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。彼らは上って行って、ツィンの荒れ野からレボ・ハマトに近いレホブまでの土地を偵察した。彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。この場所がエシュコルの谷と呼ばれるのは、イスラエルの人々がここで一房(エシュコル)のぶどうを切り取ったからである。
 四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」

○ヨハネによる福音書20章19-31節
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2022」(日本キリスト教団出版局、2021年12月10日発行)より作成

2022年3月の主日聖書日課から

3月6日
○エレミヤ書31章31-34節
 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

○マルコによる福音書1章12-15節
 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

3月13日
○エレミヤ書2章5-13節
 主はこう言われる。お前たちの先祖は
 わたしにどんなおちどがあったので
 遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い
 空しいものとなってしまった。
 彼らは尋ねもしなかった。
 「主はどこにおられるのか
 わたしたちをエジプトの地から上らせ
 あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地
 乾ききった、暗黒の地
 だれひとりそこを通らず
 人の住まない地に導かれた方は」と。
 わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き
 味の良い果物を食べさせた。
 ところが、お前たちはわたしの土地に入ると
 そこを汚し
 わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。
 祭司たちも尋ねなかった。
 「主はどこにおられるのか」と。
 律法を教える人たちはわたしを理解せず
 指導者たちはわたしに背き
 預言者たちはバアルによって預言し
 助けにならぬものの後を追った。
 それゆえ、わたしはお前たちを
 あらためて告発し
 また、お前たちの子孫と争うと
 主は言われる。
 キティムの島々に渡って、尋ね
 ケダルに人を送って、よく調べさせ
 果たして、こんなことがあったかどうか確かめよ。
 一体、どこの国が
 神々を取り替えたことがあろうか
 しかも、神でないものと。
 ところが、わが民はおのが栄光を
 助けにならぬものと取り替えた。
 天よ、驚け、このことを
 大いに、震えおののけ、と主は言われる。
 まことに、わが民は二つの悪を行った。
 生ける水の源であるわたしを捨てて
 無用の水溜めを掘った。水をためることのできない
 こわれた水溜めを。

○マルコによる福音書3章20-27節
 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

3月20日
○イザヤ書48章4-8節
 お前が頑固で、鉄の首筋をもち
 青銅の額をもつことを知っているから
 わたしはお前に昔から知らせ
 事が起こる前に告げておいた。
 これらのことを起こしたのは、わたしの偶像だ
 これを命じたのは、わたしの木像と鋳像だと
 お前に言わせないためだ。
 お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。
 自分でもそれを告げうるではないか。
 これから起こる新しいことを知らせよう
 隠されていたこと、お前の知らぬことを。
 それは今、創造された。
 昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。
 それをお前に聞かせたことはない。
 見よ、わたしは知っていたと
 お前に言わせないためだ。
 お前は聞いたこともなく、知ってもおらず
 耳も開かれたことはなかった。
 お前は裏切りを重ねる者
 生まれたときから背く者と呼ばれていることを
 わたしは知っていたから。

○マルコによる福音書8章27-33節
 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

3月27日
○出エジプト記24章12-18節
 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。

○マルコによる福音書9章2-8節
 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2022」(日本キリスト教団出版局、2021年12月10日発行)より作成

2022年2月の主日聖書日課から

2月6日
○サムエル記下12章7-13a節
 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」
 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」

○マルコによる福音書4章26-32節
 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

2月13日
○箴言2章1-9節
 わが子よ
 わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして
 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら
 銀を求めるようにそれを尋ね
 宝物を求めるようにそれを捜すなら
 あなたは主を畏れることを悟り
 神を知ることに到達するであろう。
 知恵を授けるのは主。
 主の口は知識と英知を与える。
 主は正しい人のために力を
 完全な道を歩く人のために盾を備えて
 裁きの道を守り
 主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。
 また、あなたは悟るであろう
 正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。

○マルコによる福音書4章1-9節
 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

2月20日
○列王記下4章32-37節
 エリシャが家に着いてみると、彼の寝台に子供は死んで横たわっていた。彼は中に入って戸を閉じ、二人だけになって主に祈った。そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。彼は起き上がり、家の中をあちこち歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は七回くしゃみをして目を開いた。エリシャはゲハジを呼び、「あのシュネムの婦人を呼びなさい」と言った。ゲハジに呼ばれて彼女がエリシャのもとに来ると、エリシャは、「あなたの子を受け取りなさい」と言った。彼女は近づいてエリシャの足もとに身をかがめ、地にひれ伏し、自分の子供を受け取って出て行った。

○マルコによる福音書2章3-12節
 四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

2月27日
○ヨナ書1章7節-2章1節
 さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」
 そこで、くじを引くとヨナに当たった。人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。
 ヨナは彼らに言った。
 「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。
 「なんという事をしたのだ。」
 人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。
 彼らはヨナに言った。
 「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」
 海は荒れる一方だった。ヨナは彼らに言った。
 「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。ついに、彼らは主に向かって叫んだ。
 「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。
 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。

○マルコによる福音書4章35-41節
 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2022」(日本キリスト教団出版局、2021年12月10日発行)より作成

神様と共に歩んだアブラハム 満ち足りた人生への導き 創世記二五章一~一八節

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記一二章から始まるアブラハムの物語の最後です。アブラハムが晩年になって、息子のイサクに妻をめとるために、信頼していた忠実な僕を故郷の町に遣わしました。僕はその町で、アブラハムの親類のリベカという女性に出会って、彼女の家族と交渉して、承諾を得ます。そして、リベカも「はい、まいります」と決心をして、その日のうちに両親の下から離れて、遠いカナンの地に嫁いでいきました。このとき、アブラハムは百四十歳になっていました。今日の箇所には、その後、アブラハムが百七十五歳で召されるまでのことが記されています。
 「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった」(一節)。
 アブラハムは、妻サラが亡くなった後、ケトラと再婚しました。このケトラとの間に六人の子どもたちが生まれます。そのことが二節から四節に示されています。そして、ケトラとの間に生まれた子孫たちは、やがてアラビア半島に暮らすようになって、後のアラブ人の祖先となっていきます。
 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(五~六節)。アブラハムにはサラとの間に、百歳のときに与えられた約束の子イサクがいて、その前にサラの女奴隷であったハガルとの間に、イシュマエルという息子がいました。それに、先ほどのケトラとの間に生まれた六人の子どもたちを含めると、全部で八人の子どもたちがいたわけです。
 アブラハムは約束の子イサクに全財産を譲ったとき、他の七人の子どもたちにも贈り物を与え、彼らに十分な配慮をしました。そして、彼らを東の方に移住させ、イサクから遠ざけました。それは、相続を巡って、兄弟間での争いを避けるためでした。そうしてアブラハムは神様の祝福のバトンをイサクにしっかりと渡しました。

 アブラハムの人生と信仰

 神様は、そのようなアブラハムの人生を大いに祝福されます。
 「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(七~八節)。
 ここで三つのことを考えたいと思います。
 第一に、アブラハムは「満ち足りた」晩年を迎えました。満ち足りた晩年とは、神様との関係において、「満ち足りた」ことです。それまで、アブラハムは神様によって導かれてきて、神様にいつも祈っていました。ですから、アブラハムの人生の晩年においても、いつも神様のことを思い、神様との交わりの中で過ごしていたと思います。そして神様と共にいることを本当に喜んでいたのです。
 第二に、アブラハムは「長寿を全う」しました。「アブラハムの生涯は百七十五年であった」とあります。アブラハムは、七十五歳のときに、神様に召し出されて、それまで暮らしていたカルデアのウルという町を離れて、カナンの地へと旅立ちました。そのとき以来、ちょうど百年間生きたことになります。百年間にわたって、神様に導かれ、神様と共に歩みました。
 その間、失敗もありました。カナンの地を通り過ぎて、エジプトまで来たときに、エジプトの王ファラオを恐れて、妻のサラを自分の妹だと偽ったことがありました。また、神の約束を信じ切れずに、妻のサラが女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、イシュマエルを得たこともそうでした。
 また、試練もありました。一緒に旅をしてきた甥ロトと別れたこと。それから、百歳になってようやく与えられた息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神様に命じられたことも大きな試練でした。また、最愛の妻サラが召されたこともつらいことでした。それでもアブラハムは、自分を召し出してくださった神様に従い、神様と共に歩み続けました。
 第三に、「先祖の列に加えられた」とあります。これは、神様の下に迎え入れられたことで、死んで「先祖の列に加えられる」という表現は、聖書の一つの希望を語っています。いくらこの地上で満ち足りても、死んだ先で独りぼっちであるならば、どうでしょうか。天の故郷では、先に召された信仰の先輩たちが私たちを迎えてくださるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙一一章一三節にこう書いてあります。
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
 それから、一六節に「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」とあります。ここで、彼らとは、神様に忠実に従って生きた人々のことを言っています。彼らは、地上ではよそ者であって、天の故郷を熱望していました。地上の生涯で終わりではないと、その先にある天の故郷を見詰めていました。それは、私たちを創造し、私たちを愛してくださった神様の下で永遠に過ごすことで、そこに希望を置いていたのです。アブラハムはその望み通り、神様が許されたときまで生きて、先祖の列に加えられたのです。
 このように、神様は、アブラハムという人を選び、その人生を導いて、大いに祝福されました。私たちの人生もそうでしょう。神様は、私たちにも目を留めてくださり、これまでの人生を恵みによって、導いてくださったのではないでしょうか。

 イサクとイシュマエル

 続いて、アブラハムが召されたとき、イサクとイシュマエルが一緒に父アブラハムを葬りました。 「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあった」(九節)。
 サラの女奴隷ハガルの子であったイシュマエルは、十四歳のときにイサクが生まれたことで、アブラハムの家から追い出されていました。しかし、父の死の知らせを聞いて数十年ぶりにイサクと会って、彼と協力して父親の葬りを行ないます。普通であれば、自分を追い出したアブラハムとイサクに対するわだかまりがあったはずですが、それが消えていたようです。アブラハムは息子たちの手によって、妻サラが葬られたところに、一緒に葬られました。そして、「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された」とあるように(一一節)、神様はアブラハムの跡取りとなったイサクを祝福されます。
 こうしてみると、アブラハムは「満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」ことが分かります。アブラハムは七十五歳のときに、神様に召し出されて以来、百年間にわたり、神様に導かれ、神様に信頼し、神様と共に歩んだ人生でした。その間、失敗や試練もありましたが、神様の声に聞き従ってきました。このところに「満ち足りた人生」があると思います。

転入会者より 落ち着き、包容感、穏やかさ、真摯さに引かれて

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:FH)

 昨年九月に引っ越してきたが、当時所属していた教会から今年四月までは籍を置いたまま役責を全うして欲しいとの要請があったため、今回は転入会させていただく教会をゆっくりと探すことができた。
 受洗してから今まで、出戻りも含め国内外九つの教会にお世話になり、豊かなお交わりをいただいた。ただ今回は、ひょっとしたらこの世で所属する最後の教会になるかもしれないという思いを抱きながらの教会探しとなった。
 千葉市から成田市までの日本基督教団の教会の中から、公共交通機関でもクルマでも四十五分以内で通えるところで、ホームページ等でここはどうかなあと思った教会の礼拝に出席させていただいた。一度切りのところ、数回行ったところ……。
 その中で、佐倉教会は、会堂のたたずまい、牧師のメッセージ、教会員の雰囲気等、何か引かれるところがあり、転入会を決めさせていただいた。何かを一言で表すのは難しいが、「落ち着き」「穏やかさ」「包容感」「真摯さ」といった感覚の中に神様の導きを感じたのかもしれない。
 それにしても、教会というところは入り難いところだと改めて感じた。「初めての方もお気兼ねなくお越しください」等とよく書かれているが、扉を開けると上から下まで観察され、どなたですかと目で訴えてくる。初めて教会を訪ねる方は、何かしらの課題を抱え勇気を奮ってこられることが多いのではと思うので、それはあまり心地良いことではないだろう。
 コロナ禍で、多くの教会が所属する教会員のためにインターネットを活用し始めたが、これからは教会の敷居を越えられない方や日曜日も働かざるを得ない方をも視野に入れ、訪ねてこられるのを待つだけでなく、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイによる福音書二八章一九節)を実践するべく、インターネットでの宣教を考えていく必要があるだろう。
 イエス・キリストに倣って教会は率先して弱い立場にある人々の傍らにいようとしてきた。昨今、多様性についての認知が世の中では進んでいるが、教会の中では年齢や性の扱いは旧来のままのように感じる(例えば、壮年会/青年会、○○兄/○○姉)。訪ねてこられる様々な背景を持つ方々の障壁にならないよう、こういったことも再考していくべきであろう。
 少子高齢化の波は、既に教会に及んでいる。各個教会の存続問題につながるという認識の下、変えてはいけないことと変えるべきことを見極めながら、皆様とのお交わりを深められたらなあと思っている。

日々与えられる神様の恵み 勇気を出して生きられる

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:TI)

 今から八年前の二〇一三年にこの場所で「イエス・キリストの体なる共同体としての教会」と題して奨励をするときを与えられました。本日お話するのは、それから八年余りが過ぎて、その間に、主より与えられたときを、どのように生きてきたかの一端をお話させていただくことにしました。
 私は、奨励をした同じ年、つまり六十七歳の二〇一三年春先に東邦大学病院に入院し、身体のホルモンバランス機能が低下する難病の「下垂体機能低下症」という病名をいただきました。以後今日まで服薬生活をして、命を長らえております。この病気は、遺伝的要素が強く、七十歳で死亡した私の父親も、六十代前半で死亡した私の叔父も今日的に考えれば同じ病気だったのだと思います。神様のみ力による医学の進歩と担当された医師との出会い・診断で、私は父の年を越えて今日の日を迎えられたのです。
 神様からの恵みのこの八年間を与えられて、それにふさわしい時を過ごしてきたかどうか、改めて、今回、振り返る時が与えられました。この間に心に残ったことを幾つかお話したいと思います。
 まず、二〇一三年に教会役員として教会の墓地管理委員となりました。仕事は教会墓地に納骨する方のお手伝いをすることが主なる仕事でした。この八年間の間に十三名の方々の納骨のお手伝いをさせていただきました。納骨に当たっては、それぞれのご家庭の事情があり、悲しみ・喜び等を、直接肌で感じる機会を与えられました。これも神様の恵みと思いました。
 例えば、ご家族との関係を断ち切られ、一人で人生後半を生きてこられた方、ご遺族が心の病の中にあり、そのご遺族を思いながら天に召された方、ご遺族が社会的に孤立しており、葬儀もなく納骨された方等々が今思い出されます。これが、生前信仰を共にしていた方々の地上での最後の別れなのかと思いました。神様のなさりようは、厳しいものだとも思いました。

 義母との交わりから

 次に、二〇一九年四月かねてから「ゆうゆうの里」に入居していた義理の母が、天に召されました。生前中は、毎週金曜日、夫婦で「ゆうゆうの里」を訪問し、午前中一時間余が私と義理の母との散歩時間でした。義母は日本百名山を走破した健脚で、九十歳になっても足腰は強く、私との散歩でも、アップダウンを難なく歩く人でした。
 特に、印旛沼の風車からユーカリが丘の我家まで、距離にすると七~八キロメートルぐらいでしょうか。義母と妻で、何回となく歩いてきました。また、我家に来たときは、庭の草取りをよくしてくれました。草取りをした後には雑草が一本もないような丁寧な草取りでした。
 しかし、八十歳ぐらいから認知症が徐々に現れ始めました。義母は、大変きちょうめんで働き者でしたので、「ゆうゆうの里」でのゆったりした生活の中では、自分の「役割」を見いだせず、「生きている意味がない。死にたい。」と頻繁に口にするようになりました。ただ、散歩の途中はいつも楽しそうにしていました。義母は、信仰を持てなかったため、自分で意思表示ができる最後まで自己肯定感、即ちありのままの自分を受け入れることができませんでした。骨折してから、一年余の車椅子生活の後、天に召されました。
 義母との「ゆうゆうの里」での十四年にわたる交わりのときは、私たち夫婦にとっては、貴重な体験でした。年をとって様々な役割を担えなくなった日々を受け入れ、神様から与えられた命に感謝することの難しさも学びました。このような機会を神様から与えられたことに、今は感謝しております。
 このような経験をする機会を与えられた中で、自分の信仰について改めて考えてみよう、学んでみようとの思いが沸いてきました。まず、説教集を読むことを始めました。本来、怠け者の私は、聖書を開き、説教集を読み始めると、すぐに眠くなってしまうのです。金牧師の主日の説教を聞く度に、これではいけないと思うようになり、少しずつ勉強が始まりました。
 主として元鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師の説教集の中からパウロ書簡、ヨハネによる福音書、ヘブライ人への手紙を中心に読みました。この中でヘブライ人への手紙は、特に印象に残りました。ヘブライ人への手紙一二章五~六節に、「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。
 この八年間に経験したことは、まさに、神様が私に与えてくださった鍛錬の日々でした。病を告知されたことにより、他の病に苦しむ方々を思いやることを学びました。教会墓地管理委員としては、自分の力だけでお世話することの限界を自覚しました。私たちが神様からいただいた人生の終わりの時には、各人各様の終焉の迎え方があるということも、改めて学びました。そして、信仰を持てなかった義母からは、いかなるときも主イエス・キリストと共に歩むことのできる喜びを気付かされました。これら一つ一つが、私を育ててくれた「糧」となったと思います。

 全てを神様に委ねて

 このような時を経て今思うことは、私たちは、いつも自分の生活を見直さなければならない。そしてその生活が「主イエス・キリストにおける神の愛」から引き離されていないか振り返る必要があるということでした。私たちは、苦難・艱難に遭うと、自分の殻に閉じこもりがちになります。そのようなときこそ、気を取り直し、「主イエス・キリストの父なる神様」への祈りのときを持ち、福音に帰っていくべきだと思います。
 しかも、神の恵みは、日々新たに与えられるもので、それによって、私たちは弱いながらも信仰の旅を続けられることを確信しました。このためには、毎週の主日礼拝は、神の恵みに気付く機会であり、欠かすことはできません。
 私たちは、祈りのときには、「主イエス・キリストの御名によって」と言って祈りを結びます。私たちは、「イエス・キリストの御名」の中に生きている者として、「イエス・キリストの御名」を身に帯びている者として、いつもキリスト者として祈っていることが理想です。しかし、現実は、主イエス・キリストの父なる神を信じるということは、自分の弱さ、愚かさ、恥を告白し、さらに自分が罪人であることを勇気を出して神様に伝える、即ち、そのような不確かな・ほころびの多い自分を、神様を信頼して全てを神様に委ねることだと思うようになりました。さらに、全てを神様に委ねることから心の平安が与えられるのだと思いました。そして、それは私たち、取り分け高齢の方々にとりましては、主イエス・キリストが死に向かう歩みの友となっていてくださることでもあります。
 「その主イエス・キリスト」と共に歩むことは、この世に生きている中で、平安を得るためであります。しかし、平安を得るということは、これまで知らない苦難に遭うこともあります。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望へと導かれます。ですから主イエス・キリストに囲まれている私たちは、恐れることなく生きられます。
 本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書一六章三三節には、主イエス・キリストが十字架につけられる前夜に、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と励ましの言葉を述べています。私たちは、主イエス・キリストに囲まれて生きています。このことはいかなるときでも「勇気を出して生きられる」ということではないでしょうか。
 祈り:御在天の父なる神様、本日は、奨励の機会を与えられ感謝いたします。今後とも勇気を出して主イエス・キリストと共に歩む人生をお導きください。アーメン。
(二〇二一年八月二十二日の主日礼拝奨励より)