イースターに寄せて 母の文語体聖書

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:TA)

 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを心掛け、教会の様々な行事に初めて参加体験した日々は、私のこれまでの人生で一番足早に過ぎた一年でございました。
 顧みますと、教会の出来事が浮かび上がってまいります。
 今までのにぎやかな雰囲気とは異なった「心のクリスマス」を過ごしたこと。またあるときは、金先生のお説教に込み上げるものを我慢できず、お説教の終わるのを待ちかねて礼拝堂を抜け出し、洗面所で一人涙を流したこと等々。
 それはコロナウイルスが猛威を振るい出し、世界中の国々が恐怖の渦に巻き込まれ始めた三月上旬のある日、主日礼拝の終わった後、KさんとAさんからのお誘いを受け、婦人会に参加した折のことでございました。
 普段は人様に自分のことなどほとんど話すことのない私でしたけれど、なぜか生前の母が文語体の聖書を持っておりましたことをお話しする気になったのです。
 と申しますのは、受洗を志し、聖書に親しむ日々を送るようになったとき、ふと思い出したことがございました。
 母の居間の文机の上には、端然と聖書が置かれており、私は時折居間に呼ばれ、聖書の一節を暗誦させられたものでした。最初の暗誦は、「マタイによる福音書、六章二八~三〇節」だったことも鮮明に記憶しております。
 当時小学校低学年だった私にとっては、言葉の意味も分からず、けれども文章がリズミカルで音楽的に感じられたせいか、さして苦痛ではなく、にもかかわらず書かれている意味を理解できたのはしばらく後のことでした。
 今にして気付けば、私の受けた母からのしつけは聖書が原点のように思われます。
 讃美歌の思い出も多く、そのようなわけでつい皆様にお話ししてしまいました。
 会の終わる頃、金先生のお心遣いで母の好んだ讃美歌を歌ってくださいましたとき、心温まるひとときを持つことのできた私は、ただ涙に終始してしまったことも記憶に新しくよみがえります。
 母が逝って三十年。聖書と母のつながりを今はもう確かめるすべもございません。

 そして再び巡りきたったイースターの日、祈りも涙もまこと(真実)であることが天にいます神様の御許に届くことを願っている私がおります。
 受洗の際の誓いを忘れることなく、神様に私の全てを委ね、御手にすがり、御力を頼み、祈りを怠らぬ明け暮れを送り迎える私でありたいと存じます。
 過ぎた一年を振り返るとき、金先生を始め教会員の皆様に折に触れて、有形無形の支えをいただきましたことを思い、とてもうれしく感謝いたしております。
 今後とも何卒よろしくと申し上げます。
 本当にありがとうございました。