「安心しなさい、わたしだ 恐れることはない」

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:金南錫牧師)

 マルコによる福音書六章四五~五六節
 
 弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まないのです。イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られました。しかし、弟子たちは湖の上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思って、大声で叫びました。そのおびえる弟子たちに向かって、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そして、イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まったのです。弟子たちは非常に驚きました。聖書は「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです(五二節)。
 パンの出来事。それは、イエス様がまことの神であられることを示しているのです。弟子たちは、五千人という群衆がどこかよそで飢えを満たしてほしい、この飢えた群衆から自分たちを解放してほしい、と願いました。しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。そして、弟子たちは確かめた上で、五つのパンと二匹の魚、これだけしかない、そう思って差し出しました。しかし、イエス様はそれを弟子たちから受け取り、これがあるということで神に感謝したのです。
 弟子たちが持っているものは、ゼロではないのです。決して多くはありませんが、イエス様はそれを用いてくださるのです。そして、まことの神であられる主イエスは弟子たちの賜物を用いてご自身の福音伝道の御業を進めることを望んでおられるのです。しかし、弟子たちはその理解までには至りませんでした。
 実は、湖の上を歩いてこられるイエス様の出来事も、イエス様がまことの神であられるということを示しているのです。四八節に「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。旧約聖書において、人が神を面と向かって見ることは死を意味していました。ですから、神様は、通り過ぎることをもって、ご自身が共にいることを示されたのです。私たちの信仰の歩みはまことの神であられる主イエスが共にいてくださるので、安心できるのです。

 佐倉教会の誕生

 百十五年間、佐倉教会を守っていたのは、神様の働きでした。佐倉教会の『百周年記念誌』によれば、佐倉教会の最初の頃は、「教会」とは言わず「福音伝道館」と呼ばれ、ヘフジバ・ミッションという伝道団体から派遣された宣教師によって、生み出されたのです。この伝道団体は、主として千葉県の北総地方に伝道を展開していました。佐倉教会はこのミッションによって生み出された教会です。
 早くも伝道最初の年の一九〇四年十一月十二日(土)には、九名の受洗者が与えられました。そして、十一月二十七日、佐倉教会が創立されました。
 『創立八十周年記念誌』によれば、その当日、クリスマスの委員として十八名の名前が挙げられています。きっと、この人たちが当時の熱心な信徒であったと思われます。最初にこれだけの人が与えられたことは、驚くべきことです。そして十二月二十四日(土)には、クリスマス祝会が盛大に行われました。そのとき、感話を述べた田辺元治郎という人は、陸軍少佐で佐倉軍隊の高官でクリスチャンであったようです。度々礼拝で所感を述べたり、家庭を開放して祈祷会を開いたりしていました。祈祷会は水曜日午後七時から行われ、十名前後の出席であったということが記録に残っています。
 五三~五五節に「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」とあります。人々は、救いを求め、イエス様の所に病人を連れて来たのです。教会は、救いを求める人々が、礼拝に来て、神の救いに与ることが
できるところです。
 創立百十五年を迎えたこの時、私たちが心に刻むべきことは、ここに教会が建てられ、主の日のたびに礼拝がささげられ、それを続けてきたということです。佐倉教会が創立された最初の年の日曜日礼拝は午後二時から行われ、午後六時から伝道会が行われたそうです。
 また、当時の説教題は「洗礼について」「受洗者の注意」「基督者と家庭」といった実際的なクリスチャンの心得を説くことが多かった様です。出席者は十四名から二十五名、平均二十名ほどでした。現在、平均出席は、約五十五名ですので、成長させてくださった神に感謝すべきことであります。

 神様の働きと導き

 神様は佐倉教会に牧師を立て続けてくださいました。最初に開拓伝道をされたヘブジバ・ミッションの宣教師たちはアメリカ中西部の独立教会などが連合して組織したミッションに属していました。大教派のような豊富な資金を持たず、ただひたすら日本人に福音を伝えたいという、燃えるような情熱を持って海を渡って来られたのです。そして現在教会堂の建っている所にあった酒屋を買い取り、教会堂に改造してくれたのです。そのためにアメリカの教会の人たちが懸命に献金を捧げてくださったのです。
 特に、ヘフジバ・ミッションの代表者アグネス・グレン夫人宣教師は、一九〇四年から一九二五年まで、北総地域において開拓伝道をなさいました。しかし、一九二五年一月になると、ヘフジバ・ミッションが日本での伝道を中止して、宣教師を米国に引き揚げることになりました。アグネス・グレン宣教師は日本伝道が成功しなかったことに落胆し、失意のうちに日本を去られたと記されています。
 しかし、佐倉教会に対する神様の御心は変わることはありませんでした。一人の在任期間は長くはありませんが、一九一六年から一九四三年まで、八人の牧師が遣わされ、佐倉の地において、福音伝道の業は続けられました。そして、一九四三年から一九四八年まで、五年ほどの無牧のときがありましたが、一九四八年から一九七一年まで、「生活そのものが祈りである」と言われて、信徒たちに厚く信頼された石川キク牧師の三十年に及ぶ伝道牧会の下で、佐倉教会の基礎が築かれました。その後、島津虔一先生も教会の皆から厚く信頼され、二十九年間牧会をされました。その後、有馬先生は三年、黒田先生は十年、そして、二〇一六年から十四代目の牧師として私が遣わされております。
 佐倉教会の百十五年間のすべての働きや歩みの背後には、人の思いを超えた「誰か」の、そして「何か」の働きと導きがあったと思わざるを得ません。聖書は、そのことを神の働き、聖霊の働きと言い表しています。ここまで導いてくださった神様が佐倉教会の基となるように、そして、佐倉教会が迎えている創立百十五年の中に生かされている恵みに感謝しつつ、これから、共に神への信頼と希望を持って、生きていくように、祈り願います。