○今井武彦兄 ヨハネによる福音書16章25-33節
2013年に「イエス・キリストの体なる共同体としての教会」と題して奨励をする時を与えられました。それから8年間余りどの様に生きてきたかの一端をお話します。
私は、奨励をした同じ年、つまり67歳の2013年春先に東邦大学病院に入院し、身体のホルモンバランス機能が低下する難病の「下垂体機能低下症」と診断されました。神様のみ力による医学の進歩で、以後今日まで服薬生活をして、命を長らえております。
同じ2013年墓地管理委員となり、教会墓地に納骨する方のお手伝いをしました。この8年間の間に13名の方々の納骨のお手伝いをしました。納骨に当たっては、それぞれのご家庭の事情があり、悲しみ等を、直接 肌で感じる機会を与えられました。
次に、2019年4月かねてから「ゆうゆうの里」に入居していた義母が、94歳で天に召されました。義母は、80歳位から認知症が徐々に表れ始めました。義母は、信仰を持てなかったため、最後まで、ありのままの自分を受け入れることができませんでした。
このような経験をする機会の中で、自分の信仰について改めて考えてみようと思い、パウロ書簡、ヨハネによる福音書、ヘブライ人への手紙を中心に読みました。ヘブライ人への手紙12章5~6節に「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。
今、私たちは、苦難・艱難に遭うと、自分の殻に閉じこもりがちになります。このような時こそ、自分の生活を見直さなければなりません。気を取り直し、「主イエス・キリストの父なる神様」への祈りの時を持ち、福音に帰って行くべきだと思います。しかも、神の恵みは日々新たに与えられるもので、このためには、毎週の主日礼拝は、神の恵みに気付く機会であり、欠かすことは出来ません。しかし、現実は、主イエス・キリストの父なる神を信じるということは、自分の弱さ、愚かさ、恥を告白し、さらに自分が罪人であることを勇気を出して神様に伝える、即ち、そのようなほころびの多い自分を、全てを神様に委ねることだと思うようになりました。
「その主イエス・キリスト」と共に歩むことは、この世に生きている中で、平安を得るためであります。しかし、平安を得るということは、これまで知らない苦難にも遭うこともあります。主イエス・キリストと共に歩む私たちは、恐れることなく生きられます。
ヨハネ16章33節には、主イエス・キリストが「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と励ましの言葉を述べています。このことはいかなる時でも「勇気を出して生きられる」ということではないでしょうか。