2021年8月29日「サラの笑い」

○金 南錫牧師  創世記18章1-15節

 暑い真昼に、アブラハムはいつものように、天幕の入り口に座って休んでいました。その時、神様は三人の旅人の姿でご自身を現されたのです。アブラハムはここで、三人の旅人を迎え入れ、もてなしました(1、2節)。 アブラハムは、客の足を洗う水を用意し、休むためのスペースを提供しました。また、妻のサラには上等な食事を用意するように促しました(6節)。アブラハム夫婦は、見知らぬ旅人をたいへん手厚くもてなします。これは、旅人をもてなす遊牧民の習慣でした。

 この習慣に従って、アブラハムは自分も走り回って、三人の旅人に文字通りのご馳走を準備しました。「アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」とある通りです(7節、8節)。三人の旅人が涼しい木陰で食卓に着いた時、給仕係を務めたのはアブラハムでした。このように、アブラハムは手厚く、へりくだって、見知らぬ旅人をもてなしています。ヘブライ人への手紙13章2節に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と記されていますが、この「ある人たち」とはアブラハム夫婦に違いありません。

 三人が旅立つ時に、その中の一人がアブラハムに重要なことを伝えました。それは、10節にあるように、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」という予告でした。サラは近くの天幕の入り口でその予告を耳にしました。そして、サラは心の中で笑いました。どうしても信じられなかったからです。

 このサラの笑いに対して、主なる神は「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と、厳しく問われるのです。この神の問いに対して、サラは「恐ろしくなった」とあります(15節)。そして、サラはあわてて「わたしは笑いませんでした」と言いますが、主は「いや、あなたは確かに笑った」と彼女の笑いを厳しく追及されるのです。

 しかし、その追及の言葉の中に、14節の「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」という言葉があるのです。神様はアブラハム夫婦の不信仰による笑いにもかかわらず、「来年の今ごろ、サラには必ず男の子が生まれている」という約束の言葉を繰り返し語られるのです。つまり、神様は不信仰を厳しく追及しつつ、その信仰を支えてくださるのです。約束の言葉に対して、笑ってしまうような信仰の弱さを持っていたアブラハム夫婦でしたが、彼らの信仰の弱さを、神様は支えてくださったのです。そのアブラハムの神は私たちの神でもあります。私たちの弱さ、信仰の弱さを、神様が支えてくださるのです。ですから、信仰が弱まる時、「神様、どうか私の信仰を強めてください」と祈り願いたいものであります。

 また、今日の聖書箇所の最後に、サラが笑いながらも、主への恐れを新たにしたように、いつもこの主への恐れを覚えたいものです。この主なる神への恐れがある限り、信仰は弱まらないでしょう。