2020年5月10日「神から与えられた権威」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書11章27-33節

 エルサレムに入城されたイエス様は、その週の内に捕らえられ、十字架につけられて殺されるのです。しかし、そこに至るまでに、マルコはいろいろなことを語っています。
 特に本日の11章27節から12章にかけては、イエス様とユダヤの宗教指導者たちとの幾つかの論争が語られていきます。これらの論争を通して、イエス様が何ゆえに十字架につけられたのかを示されていくのです。
 さて、本日の聖書箇所は、受難週の火曜日の出来事です。イエス様一行は、またエルサレム神殿の境内に入られました(27節)。
 すると、祭司長、律法学者、長老たちが待っていたかのように、やって来ました。彼らはイエス様を陥れようとしてやって来たのです。彼らが、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と尋ねました(28節)。
 ここで「このようなこと」とは、イエス様がエルサレム神殿から商人を追い出して、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したことなどを指しています。それに対して、何の権威があってそういうことをしたのか、というふうに問うているのです。
 イエス様は彼らの質問に対して、逆に問いかけました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(29、30節)
 反問された彼らは、洗礼者ヨハネの洗礼は天から、つまり神からのものだと言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言われ、彼らの敗北は明らかになります。
 他方、人からのものだと言えば、洗礼者ヨハネを本当に預言者だと思っている群衆の目が怖いということで、彼らは「分からない」と返答しました。すると、イエス様は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられました(33節)。
 ここに出てくる祭司長、律法学者や長老たちは、確かにユダヤ社会において、権威を有しておりました。しかし、イエス様とのやり取りで、彼らの不信仰があらわにされているのです。
 イエス様の前では、天とか神とは口先ばかりで、彼らの恐れていたのは、群衆であって、この世の権威だけが問題になってしまっていたようです。即ち、彼らの権威とは、自分たちの存在を正当化するためのものであり、そのような権威が保たれることが最大の関心事でした。
 そして、そのためには、自分たちの権威を脅かすイエス様を抹殺する以外に解決方法がなかったのです。どうも彼らの権威とは、人を生かすためのものではなく、人を死へ追いやるもののようです。
 私たちも、それぞれに譲ることのない権威のようなものにこだわり続けて、自分を譲ることも相手を生かすこともしないでいるのではないでしょうか。
 本日の箇所は、イエス様が何の権威で、主であるかという問題を示しています。その本当の答えは、イエス様の十字架上での死と、それを超える永遠の御手が示されたときに、与えられるのです。まさに天の父なる神様から備えられた権威から来るものにほかなりません。
 そして、その権威によって、イエス様は私たちを救いへと導いてくださるのです。私たち一人一人は、イエス様の十字架の出来事を通して、永遠なる神の力、権威を見出すのです。
 教会の頭なる主イエスに感謝して、この一週間も歩み続けたいものです。