2021年5月の主日聖書日課から

5月2日
○サムエル記下1章17-22節
 ダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠み、「弓」と題して、ユダの人々に教えるように命じた。この詩は『ヤシャルの書』に収められている。
 イスラエルよ、「麗しき者」は
 お前の高い丘の上で刺し殺された。
 ああ、勇士らは倒れた。
 ガトに告げるな
 アシュケロンの街々にこれを知らせるな
 ペリシテの娘らが喜び祝い
 割礼なき者の娘らが喜び勇むことのないように。
 ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ
 お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな。
 勇士らの盾がそこに見捨てられ
 サウルの盾が油も塗られずに見捨てられている。
 刺し殺した者たちの血
 勇士らの脂をなめずには
 ヨナタンの弓は決して退かず
 サウルの剣がむなしく納められることもなかった。

○ヨハネによる福音書14章1-7節
 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。彼らは、これに対して答えることができなかった。

5月9日
○列王記上18章20-24節
 アハブはイスラエルのすべての人々に使いを送り、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。

○マタイによる福音書6章5-8節
 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

5月16日
○エレミヤ書10章1-5節
 イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。主はこう言われる。
 異国の民の道に倣うな。
 天に現れるしるしを恐れるな。
 それらを恐れるのは異国の民のすることだ。
 もろもろの民が恐れるものは空しいもの
 森から切り出された木片
 木工がのみを振るって造ったもの。
 金銀で飾られ
 留め金をもって固定され、身動きもしない。
 きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず
 歩けないので、運ばれて行く。
 そのようなものを恐れるな。
 彼らは災いをくだすことも
 幸いをもたらすこともできない。

○ルカによる福音書24章44-49節
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

5月23日
○ヨエル書2章25節-3章2節
 わたしがお前たちに送った大軍
 すなわち、かみ食らういなご
 移住するいなご、若いいなご
 食い荒らすいなごの
 食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
 お前たちは豊かに食べて飽き足り
 驚くべきことを
 お前たちのために成し遂げられた主
 お前たちの神なる主の御名を
 ほめたたえるであろう。
 わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
 イスラエルのうちにわたしがいることを
 お前たちは知るようになる。
 わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。
 わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
 その後
 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
 あなたたちの息子や娘は預言し
 老人は夢を見、若者は幻を見る。
 その日、わたしは
 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

○マタイによる福音書12章14-21節
 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、わたしの選んだ僕。
 わたしの心に適った愛する者。
 この僕にわたしの霊を授ける。
 彼は異邦人に正義を知らせる。
 彼は争わず、叫ばず、
 その声を聞く者は大通りにはいない。
 正義を勝利に導くまで、
 彼は傷ついた葦を折らず、
 くすぶる灯心を消さない。
 異邦人は彼の名に望みをかける。」

5月30日
○イザヤ書6章6-8節
 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
 「見よ、これがあなたの唇に触れたので
 あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
 わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

○マタイによる福音書11章25-30節
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2021」(日本キリスト教団出版局、2020年12月25日発行)より作成

2021年4月の主日聖書日課から

4月4日
○イザヤ書 12章1-3節
 その日には、あなたは言うであろう。
 「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが
 その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
 見よ、わたしを救われる神。
 わたしは信頼して、恐れない。
 主こそわたしの力、わたしの歌
 わたしの救いとなってくださった。」
 あなたたちは喜びのうちに
   救いの泉から水を汲む。

○マタイによる福音書 28章1-10節
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

4月11日
○イザヤ書 65章17-20節
 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。
 わたしはエルサレムを喜びとし
 わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
 そこには、もはや若死にする者も
 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
 百歳で死ぬ者は若者とされ
 百歳に達しない者は呪われた者とされる。

○マタイによる福音書 28章11-15節
 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

4月18日
○列王記上 17章17-22節
 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。

○マタイによる福音書 12章38-42節
 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

4月25日
○ネヘミヤ書 2章16-18節
 役人たちは、わたしがどこに行き、何をしたか知らなかった。それまでわたしは、ユダの人々にも、祭司にも、貴族にも、役人にも、工事に携わる他の人々にも、何も知らせてはいなかった。やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。

○ヨハネによる福音書 11章17-27節
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2021」(日本キリスト教団出版局、2020年12月25日発行)より作成

2021年3月の主日聖書日課から

3月7日
○ヨブ記 1章8-12節
 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

○マタイによる福音書 16章21-26節
 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

3月14日
○出エジプト記 24章3-8節
 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

○マタイによる福音書 17章1-8節
 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

3月21日
○創世記 25章30-34節
 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。

○マタイによる福音書 20章23-28節
 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

3月28日
○ゼカリヤ書 9章9節
 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る
 雌ろばの子であるろばに乗って。

○哀歌 5章19-21節
 主よ、あなたはとこしえにいまし
 代々に続く御座にいます方。
 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
 果てしなく見捨てておかれるのですか。
 主よ、御もとに立ち帰らせてください
 わたしたちは立ち帰ります。
 わたしたちの日々を新しくして
 昔のようにしてください。

○マタイによる福音書 27章45-54節
 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2021」(日本キリスト教団出版局、2020年12月25日発行)より作成

2021年2月21日「男と女」

○金 南錫牧師 創世記2章18-25節

 今日の聖書箇所のはじめに、神様は「人が独りでいるのは良くない」と言われました。この「良くない」という言葉は、人間本来のあり方ではないことを言います。それで、神様は「彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。岩波訳では「彼と向き合うような助け手を造ってあげよう」と訳されています。つまり、神様はアダムが独りでいるのは、良くないと思って、彼と向き合うような助け手、パートナーを造って与えようとしました。

 しかし、人間として自分に合う本当の相手を見出していくことは、そんなに容易なことではありません。そこには、旅のような歩みがあります。「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」(19節)。神様は鳥や獣を造られました。しかし鳥や獣では、人間に合うパートナーとしては不十分でした。人間の相手は人間でなければならないのです。ここで「人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」という表現は、人がそれらのものをどのように理解し受け止め、どのような関係を持つのかを描き、伝えています。つまり、「呼ぶ」とか「名をつける」ことは、そのものの本質を見抜いて、自分の生活の中に取り込んでいくことです。アダムは一つ一つ動物の特徴を見て、名前をつけましたが、自分と交わりを持つことができる存在を見つけることができませんでした。20節に「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」とある通りです。

 そこで、神様はアダムに合う助ける者として、女をお造りになりました。まず神様はアダムを深い眠りに落とされます。そして、アダムからあばら骨の一部を抜き取って、そのあばら骨で「女」を造られました。アダムは目を覚まし、彼女に出会って「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と歓声を上げたのです。それはアダムが彼女を妻とし、二人が信頼し合い、一つの体として生きる決意の表明でもあったのです。

 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(24節、25節)。今日の聖書箇所は、結婚式の式辞によく読まれるところでもあります。結婚とは「自分の世界」の象徴である「父母」を離れ、「私」という単独の世界を出て、自分を支える存在である「あばら骨」と出会って、「私たち」という新しい自分になっていくことです。神様が私たちを「男と女」として造られたことは、お互いを必要としながら、他者と共に生きる存在として造られたことを意味します。私たちが、お互いを必要とする存在として造られたことに感謝して、人との交わりの中で、それぞれに祝福された道を共に進もうではありませんか。

2021年2月の主日聖書日課から

2月7日
○列王記下 5章9-14節
 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

○マタイによる福音書 15章24-28節
 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

2月14日
○イザヤ書 30章8-14節
 今、行って、このことを彼らの前で
 板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ。
 まことに、彼らは反逆の民であり
 偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。
 彼らは先見者に向かって、「見るな」と言い
 預言者に向かって
 「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。
 道から離れ、行くべき道をそれ
 我々の前でイスラエルの聖なる方について
 語ることをやめよ」と言う。
 それゆえ
 イスラエルの聖なる方はこう言われる。「お前たちは、この言葉を拒み
 抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえ
 この罪は、お前たちにとって
 高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。
 その崩壊の様は陶器師の壺が砕けるようだ。容赦なく粉砕され
 暖炉から火を取り
 水槽から水をすくう破片も残らないようだ。」

○マタイによる福音書 14章22-27節
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

2月21日
○申命記 30章15-20節
 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。

○マタイによる福音書 4章1-11節
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

2月28日
○イザヤ書 35章1-4節
 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
 野ばらの花を一面に咲かせよ。
 花を咲かせ
 大いに喜んで、声をあげよ。
 砂漠はレバノンの栄光を与えられ
 カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
 人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
 弱った手に力を込め
 よろめく膝を強くせよ。
 心おののく人々に言え。
 「雄々しくあれ、恐れるな。
 見よ、あなたたちの神を。
 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
 神は来て、あなたたちを救われる。」

○マタイによる福音書 12章22-28節
 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2021」(日本キリスト教団出版局、2020年12月25日発行)より作成

2021年1月24日「天体と生物の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章14-25節

 今日の聖書箇所は、天地創造の第四日目に天体を創造し、五日目に植物以外の生き物を創造されたところです。16節に「二つの大きな光る物」とありますが、これは太陽と月のことを指しています。古代の人たちは、太陽や月などは信仰の対象でもありました。しかし、聖書を書いたイスラエルの民は、太陽や月などは人間を含むあらゆる命あるもののために必要なものだと考えていたのです。このことは、彼らの信仰の素晴らしさを語っています。つまり、太陽や月星は、拝む信仰の対象ではなく、この地を照らす役割を持つ神が造った被造物の一つに過ぎないという信仰がありました。

 なお、彼らは、太陽や月星の天体が創造される目的は、「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるし」となったと考えていました(14節)。人間はこの神が創造された太陽や月星を見上げることから、時間を認識されるようになりました。動物は太陽や月星を見ても、目に映ったものを見るだけでありますが、人間はそれらを考察して、「昨日、今日、明日」そして、「春夏秋冬」のような季節の移り変わりがあって、それが一年、二年となり、自分の人生と結びつけたのです。詩編90編に「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」とありますように、神によって太陽や月星の天体が創造されることによって、人間ははじめて「日」を数え、「季節」を数え、「年」を数えることができるようになったのです。

 神様は、第四日までの創造で、地上には植物が生長し(12,13節)、大空には太陽や月星が輝いて、生き物が生きる生活空間を備えられました。そして、いよいよここで住む鳥や魚など生き物の創造が開始されるのです。また、神様はそれらのものを祝福して言われました。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」(22節)神様は鳥と魚にさえも、祝福してくださいました。この祝福を通して、私たち人間にも大きな祝福が及んでいることを深く心に留めたいと思います。

 最後の24節、25節には地上の動物の創造が書いてあります。ここでは、地上の動物を三種類に分けて、「家畜、這うもの、地の獣」が創造されています。これで人間を除くすべての生き物が創造されることとなります。

 神様は海に魚を、空に鳥を、地に家畜や這うもの、獣を創造し、「産めよ、増えよ、満ちよ」と祝福されました。すべての生き物は、神が「良しとされた」掛け替えのない神の作品です。神様が私たちに生物と共に生きる豊かな世界を備えてくださいました。それは、すべての生き物と共に神の祝福を与る者として、共存共栄の責任を委ねられたことです。ですから、私たちは神様が創造し、育んでくださったこの被造世界に対して、愛と配慮をもつ謙虚な歩みをしながら、この自然環境を大切にしていきたいと祈り願います。

2021年1月17日「天と地の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章6-13節

 神様は天地創造の第一日目に光を創造されました。そして、第二日目に天を創造されました。古代の人々は、「大空」というのを、地を覆っている固い丸い天井のように、想像しておりました。また、その天井に月や星などが、貼り付いていると考えました。

 二日目に天という世界を創造された神様は、次の三日目に地上世界を創造されました。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた」(9節、10節)。しかし、三日目の創造はまだ続きます。「神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた」(11節、12節) 。神様は天の下の水が一か所に集まって、地と海とを分けられました。この時、まだ動物や人間が現れていませんが、やがて造られる動物や人間が生きていける地上世界が、天地創造の三日目に創造されたのです。この世界は神の良しとされた世界です。

2021年1月10日信徒奨励「すべて神の栄光が現れるために」

○KM兄 コリントの信徒への手紙一10章31節

 人の一生は誕生(BirthのB)に始まり、死亡(DeathのD)で終わります。このBとDの間のCは本人の選択(ChoiceのC)で、このCにより人生は彩られると言われています。
 1932年にスタートした私の人生はいまだ続いていますが、これまでに多くの選択がありました。
 第二次世界大戦の勃発、そして祖国の敗戦。我国未曾有の時流の中で、人生の価値を真剣に考えさせられました。そして聖書を通してイエス・キリストと出会い、彼の言葉を信じて洗礼を受けました。この選択はその後の私の人生に大きな影響をもたらしました。
 父の跡を継いで医者の道を選びました。その道の入り口で「我孵りなば」と題するアンケートがあり、目指す医師像を問われました。
 「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である」というキリストの言葉がありますが、病人の求めに応えられる医者になりたい、そして「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を現すために」というパウロの言葉を目指したいと答えました。
 残されていたこの記録を今読んでみて、若かりし頃の意気込みを懐かしく思うと同時に、若い日にこの選択をしてとても良かったと思います。
 人様にご迷惑をお掛けした選択も少なくなかったと思いますが、よい結果につながり、大きな歓びと満足がありました。自分の創り主とつながっていた(AnchorのA)からだと思います。
 皆様もどうぞご自身の創り主とつながる選択により満足されるABCDをお過ごしください。

危機を乗り越える 主イエスの復活の信仰 マルコによる福音書一五章四二節~一六章八節

○ぶどうの枝第53号(2020年12月20日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創立から今日に至るまで様々な時代を生き抜いた教会は、この歴史を大事にしてきた集まりです。本日、創立百十六年を迎えた佐倉教会は、日本の教会の歴史の中では、長い歴史になります。戦中の困難な時代、戦後の大きく変わった時代、そして、近年においても、この時代は本当に揺れ動いています。人々はまさに危機の時代を生き、特に教会はその中でも、危機の波を乗り越えてきました。
 その中、教会に結ばれてきた教会員お一人お一人は、その時代の危機を乗り越えて、その時代の信仰者として歩んでこられた人たちです。つまり、それぞれの時代において、与えられた賜物を生かして、教会を支えてきた信仰者でした。そして、その信仰が私たちに受け継がれてきたのです。
 『日本キリスト教団佐倉教会 創立八十周年記念誌』の中、佐倉教会を通して献身された石川深香子先生が書いた、こういう文章があります。
 「この八十年の歳月は戦前、戦中、戦後という激動の時代も経過してきたわけですし、特にキリスト教会にとっては迫害の時代が続きましたから佐倉教会としても例外でもありませんでした。
 …しかしそのような中でも、…特にキリストの体なる教会が立てられていくために、教会の役員として又信徒として牧師と労を共にされたお一人お一人、今も現役で活躍しておられる皆様の中に大きく作用し続けていることを、遠く離れて母教会を見守らせていただいている私にはよく分かります。そのお陰で教会はサロン的な集いに落ちることなく建全な成長を遂げてこられたと思っております。…これから教会は伝道の業がなされるために一人一人の信仰がいつも正されていかなくてはならないと痛切に感じます。」

 信仰の始まり

 では、いつも正されていかなくてはならない信仰の始まりは、どこにあるのでしょうか。それは、復活の主に出会った弟子たち、即ち、使徒たちと言われる最初の弟子たちに遡っていきます。その信仰こそ、私たちの信仰の原点になります。使徒たちは実際に、イエス様と寝食を共にしてきました。そして、新約聖書に残されている主の言葉を後の人に伝え、主のご命令によって、人々に宣教してきた人たちです。その信仰によって生まれた教会、その教会は主イエスの復活の命を受け継がれて来たのです。
 本日の聖書箇所は、そのイエス様の埋葬と復活について記されています。イエス様は聖金曜日の午前九時に十字架につけられ、昼の十二時に全地は暗闇で覆われ、午後三時に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ、死なれました。その金曜日の日没からは、安息日に入ります。安息日には遺体を埋葬することができなかったので、午後三時から日没までの短い時間に、イエス様の埋葬をやり終えなければなりませんでした。その役割を担ったのがアリマタヤ出身のヨセフです。
 イエス様の十一人の弟子たちの中では、この役割を担う者は誰もいませんでした。彼らはユダヤ人たちに捕まることを恐れて、家の戸口に鍵を閉めて隠れていました。アリマタヤのヨセフはイエス様の十字架の出来事に触れて、勇気を出し、総督ピラトのところに行って、イエスの遺体の引き取りを願い出たのです。
 ピラトは百人隊長を呼び寄せ、本当に死んでしまったかどうかを確かめた上で遺体の引き渡しを許しました。それでアリマタヤのヨセフは、イエスの遺体を十字架から下ろして亜麻布で巻き、岩を掘って造った墓の中に納めました。墓の入り口には石を転がして蓋をしました。そのようにして、イエス様の遺体は、安息日が始まる前、金曜日のうちに墓に葬られたのです。
 毎週、礼拝では使徒信条を告白しますが、その中に「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」とあります。これは、「葬られた」ことを抜きにして主イエスの受難、十字架の苦しみを見詰めることができないことを語っているのです。イエス様が墓に葬られたことは、教会の信仰、そしてその信仰を受け継いだ私たちの信仰においても、とても大事なことなのです。ですから、四つの福音書すべてがイエス様が十字架につけられて死んだことだけではなく、墓に葬られたことを記しているのです。
 安息日が終わると、マグダラのマリアをはじめ女性の弟子たちがイエス様の遺体に油を塗るために、墓へ向かいました。今まで慕っていたイエス様が亡くなられたことの悲しみが彼女たちの心を支配していました。しかも、墓の入り口は大きな石で塞がれていたので、彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたのです。
 しかし、墓で彼女たちを待ち受けていたのは、思いもかけない出来事でありました。「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」(一六章四、五節)。不思議にも入り口の石が既に脇へ転がしてあったのです。
 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が見えて、こう語ります。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(六節)。

 教会で復活の主に出会う

 天使のような若者は、死んで葬られたイエス様が復活なさって、ここにはおられないと語っています。そこには、イエス様がどのようにして復活なさったかについて、書いてないので分かりませんが、大事なことは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」というこの言葉を信じるかどうかです。様々の時代において、教会員お一人お一人は、この主イエスの復活を信じ、その復活の命に触れて、信仰者として歩んでこられました。信仰を命にして生きたのです。今、その信仰が私たちにも、受け継がれてきたのです。
 「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(七節)。最初の弟子たちにとって、ガリラヤとは自分たちの生活の場でありました。そこで、復活のイエス様が逃げ去った弟子たちに、もう一度出会ってくださると約束しているのです。
 今日の私たちにとって、ガリラヤとはどこでしょうか。それは、キリストの体なる教会です。教会で私たちは、復活の主に出会い、その復活の命に触れて、主を礼拝します。
 佐倉教会において、創立から百十六年間守られてきたこの礼拝を通して、信仰の源泉である主イエス・キリストの十字架と復活、そして、その復活の命にあずかるという信仰に、これからもしっかりと立ち続ける者となっていけますよう、切に祈り願います。

兄弟姉妹の近況報告 I姉 久しぶりの祈り

○ぶどうの枝第53号(2020年12月20日発行)に掲載(執筆者:MI)

 いかがお過しでしょうか。私たち施設の利用者はますます厳しい監視下に置かれています。半年以上も靴を履いて外へ出たことがありません。礼拝に出席できないことがこんなに悲しく悲しいことだと、初めて分かりました。
 段々聖書も読まず、祈りもしない日が続いてしまいます。一昨日の日曜日は起き上り、ベッドのふちに腰掛けて主人の写真に見詰められながら、しばらく祈りができました。
 「弱虫の私をもう少し強くしてください。相手が居なくて神さまやイエスさまや聖書のことを話し合う機会がありません。どうぞ私が落ちこぼれないようにしっかりつかまえていてください。私には頼るべきお方はあなたしかいません。しがみついて付いて行きますから、どうぞお手を離さないでください」。ただただそれだけを祈りました。久しぶりに祈りができて、泣いてしまいました。
 MTさんが時々電話を下さいますので、教会の様子が少しは伝わってきます。皆様、どうぞコロナに気をつけて、元気でいてください。いつかきっとまた、佐倉を訪ねる日が来ると信じます。

(九月二十三日記)