2023年4月30日「主に問われて」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章18-27節

「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と、イエス様が弟子たちに尋ねます。その時、ある人たちは洗礼者ヨハネだと言っています。また、他にエリヤだと言う人もいました。また、ある人たちは「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言います。

続いてイエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言われました。ここでイエス様の問いかけは「あなたは」ではなくて、「あなたがたは・・・何者だと言うのか」と聞いています。ペトロはその問いに対して「神からのメシアです」と答えました。それは十二人の弟子たちを代表したものでした。それ以来、教会はこのイエス様に対して「あなたこそ、メシア、救い主です」という信仰告白の上に立てられていくのです。 

ここで大切なことは、「イエスがひとりで祈っておられたとき」とあるように、イエス様が弟子たちに質問される前に、祈っておられたことです(18節)。ペトロが「神からのメシアです」と見事な信仰告白ができたのは、このイエス様の執り成しの祈りがあったからです。

2023年4月23日「五つのパンと二匹の魚」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章10-17節

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。弟子たちは、イエス様が不可能なことを仰っておられると思いました。男だけで五千人であります。

しかし、イエス様が言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」これに対して、弟子たちは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません・・・」と答えました。

イエス様はこの弟子たちの言葉に対して、何も語らずに「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」とあります。すると、すべての人が食べて満腹しました。弟子たちが配ったうちに増えたのです。イエス様は弟子たちを五千人の人に満腹させる奇跡に用いられたのです。

2023年4月16日「主に遣わされて」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書9章1-9節

「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」このように、イエス様は初めて十二人の弟子たちを遣わすにあたって、徹底的に神の力のみに頼るのでなければ、神の国を宣べ伝えることはできないことを教えられたのです。また、イエス様は「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」と勧めております(4節)。これは、最初のお世話になった家より、もっと良いもてなしをするから来てくださいと言われても、自分の居心地の良さを求めて転々としてはいけないと戒めています。

さらに、イエス様は「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」と言われました(5節)。ここで「足についた埃を払い落とす」ということは、福音を受け入れない人に対して、不幸を願う呪いの言葉ではなく、まだ福音を受け入れない人がいても、その自体を神に委ねることのしるしとして、理解することもできます。

2023年4月9日「エマオ、希望の道」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書24章13-35節

イエスが復活なさった日の夕方、二人の弟子がエマオへ向かって歩いていた時、イエスのほうから「何を話しているのですか」と聞かれます。二人の弟子は、イエスがイスラエルを解放してくださると望みをかけていましたが、自分たちユダヤ人の指導者たちがイエスを死刑にするために引き渡し、十字架につけて殺してしまい、その望みは消えてしまったと言うのです。

目の前に復活なさった主イエスが共に歩んでいるのに、自分の思い、経験にとらわれて、何も見えていない二人の弟子に、イエスは「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言われました。そして、彼らに聖書の解き明かしをされ、彼らの心は静かに燃え始めました。イエスの語りかけを聞いて、私たちの心は燃えていたことに気付いたのです。イエスは生きておられて、共にいてくださるという希望の火が灯されたのです。復活の主は私たちの心も燃やしてくださいます。この主に信頼し、生きる力をいただいて、生きましょう。

2023年4月2日「恐れることはない。ただ信じなさい。」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章40-56節

ヤイロという人が、イエスの足もとにひれ伏し、自分の家に来てくださるように願いました。それは、12歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからです。イエスがそこに向かう途中で、12年間も出血が止まらない病を患っていた女が群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエスの服の房に触れたのです。イエスは自分の内から力が出て行ったのを感じて「わたしに触れたのはだれか」と言われました。彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で証しました。イエスは彼女に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と宣言したのです。

この救いの出来事を目撃していたヤイロに「お嬢さんは亡くなりました。・・・」との知らせが届きました。ヤイロは途中で出血の止まらない女の割り込みがなければ、助かったかも知れないと思ったのかも知れません。この時、イエスは会堂長ヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけたのです。それは、想定外の出来事が起こっても、先のことを神に、主イエスに委ねていくことです。

2023年3月19日「神があなたになさること」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章26-39節

悪霊に取りつかれている男が、イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で叫びました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから、苦しめないでほしい」。それは「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである」とあります。悪霊たちは、豚が自分たちの新しい居場所として適していると思ったのでしょうか。「悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお赦しになった」とあります(31節)。悪霊たちは男から出て行き、豚の群れに入ります。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだのです。

「そこで、この出来事を見ようとしてやって来た人たちは、イエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった」(35節)。悪霊たちから解放された男は、イエスの足もとに座り、神の言葉、イエスの言葉を聞くようになりました。そのことが彼を正気にさせたのです。男は家へ帰ります。そしてイエスが自分にしてくださったことを町中にことごとく言い広めたのです。福音を聞いたことのないこのゲラサ地域において、開拓伝道のパイオニアとして遣わされたのです。

2023年3月12日「この方はどなたなのだろう」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章22-25節

イエスは弟子たちと一緒に船に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われました。弟子たちはイエスの招きに従い、船に乗り込みました。ところが、弟子たちが船を漕ぎ出してしばらくすると、突風が吹き下ろしてきました。弟子たちは突然の嵐に見舞われました。嵐の中、弟子たちは必死に船の中の水を汲み出し、できる限りのことをしていたと思います。

ところが、いくら頑張っても、船は沈みそうになりました。命の危機を感じた弟子たちは近寄って、イエスを起こし「先生、先生、おぼれそうです」と言いました。すると、イエスは起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になりました。そして、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われたのです(25節)。

ここで、イエスは弟子たちに、あなたがたは「湖の向こう岸に渡ろう」というイエスの招きに従って、この船に乗り込んだのではないか。あなたがたの信仰は今ここに私と共にあるはずではないか。そう問いかけて、弟子たちのあるべき信仰をしっかりと見つめさせようとしたのです。

2023年3月5日「どう聞くべきか」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章16-21節

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(16節)。ここで「ともし火」とは、私たちが受け取った神の言葉だということができます。私たちは主イエスが蒔いた神様の言葉を受け取りました。ですから、「ともし火を灯したら、それをいつまでも覆い隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置く」ように、私たちが受け取った神の言葉を隠したり、見えなくしたりするのではなく、他の人に見えるようにすることがここで問われているのです。

 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(18節)。ここで言われているのは、神の言葉を持っている人は更に与えられ、神の言葉を持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられるということです。私たちは、神の言葉を持っている者として、神の言葉を新たに聞き続け、他の人に宣べ伝えることが出来ますよう、祈り願います。

2023年2月26日「まかれた種」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章4-15節

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(5節)。この種蒔きは種を手で一杯つかんで、蒔き散らします。種は様々なところに落ちます。道端に蒔かれた種は「御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちのこと」です。石地に落ちた種は「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのこと」です。茨の中に落ちた種は「御言葉を聞くけれども、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちのこと」です。良い地に落ちた種は「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちのこと」です。このたとえの中心は、種を蒔く人の姿にあります。自分は道端なのか、石地なのか、茨なのか、そこに目を向いて嘆くよりも、私たちに種を蒔き続けてくださる主イエスの変わらぬ愛により目を向けたいと願います。

2023年2月5日「変えられた人々」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章1-3節

「すぐその後、イエスが神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(1節)。ここで「すぐその後」というのは、先週、ファリサイ派のシモンという人の家で、イエス様が罪深い女を赦した、その出来事のすぐあとに、ということです。

イエス様は神の国の福音を宣べ伝えながら、町や村を巡られました。それに十二弟子も一緒でした。そして、その一行を陰で支えていた人たちが出て来ます。

 イエス様の一行には女性たちがいました。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」「スサンナ」です。スサンナについては、聖書に何も書いてないので、よく分かりません。

 マグダラのマリアは「七つの悪霊」に取りつかれていました。神に敵対する力である悪霊が七つもついていたマリアは社会の中で軽蔑され、見捨てられた人なのです。その彼女が神の国の福音を聞いて、信じ、今度は神の国の福音を宣べ伝えるイエス様の一行を支える者となったのです。

 もう一人は「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。当時、ガリラヤの領主ヘロデの家令であったクザの妻なので、地位もあり、人々にも一目置かれる立場であったと思います。

このように、イエス様に従っていた女性たちは階級の差も超えていました。共通点は主イエスを信じて、救われた人たちです。その救いの喜びと感謝のゆえに、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」のです。