2022年10月16日「百人隊長の信仰」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章1-10節

「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6-7節)。

百人隊長は軍隊に身を置くものとして、言葉の権威というものがどういうものであるか、よく知っていました。そして、百人の隊長にすぎない私でも、言ったことがその通りに成るのであれば、神の権威を持つ、あなたの言葉をください。「ひと言おっしゃってください」そうすれば「僕は治ります」というイエス様の言葉に対する熱い信頼があったのです。イエス様はこれを聞いて感心しました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」これほどの信仰とは、神の言葉は必ずその通りに成ると、信じる信仰です。使いに行った人たちが家に帰ってみると、まさに言葉通り、その部下は元気になっていたのです(10節)。

2022年10月9日「家と土台」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章43-49節

今日の聖書箇所は、平地説教の最後のところです。まず、43-44節に「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」とありますが、まさに、木はその結ぶ実によって分かります。その木が良い木なのか、悪い木なのか、それは結ぶ実によって見分けることができるのです。ここでイエス様が本当に語ろうとしていることは、45節です。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出します。しかし、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出すのです。つまり、心の倉から出てくるものを見れば、その人が善い人か悪い人かが分かるわけです。

46節から49節に、「主よ、主よ」と呼びながら、イエスの言うことを行わない人は、土台なしに家を建てた人に似ています。しかし、イエスの言葉を聞いて、それを行う人は、岩の上に土台を置いて家を建てた人に「似ている」と言われています。この平地説教において、岩の上に土台を置いて家を建てた人は、イエス様の慰めの言葉だけではなく、「敵を愛しなさい、人を裁くな」という厳しい言葉にも耳を傾け、それを行う人です。

2022年10月2日「まず、自分の目から」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章37-42節

今日のところで、イエス様は「正しい裁き」を否定したわけではありません。また、「人の目にあるおが屑を取り除いてはならない」とは言っていないのです。最後の42節に「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と言っています。つまり、相手を正すのがいけないのではなくて、まず自分の目に「丸太」があるのを忘れていませんかと指摘しているのです。

イエス様は一つのたとえを話されました。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」目の見えない盲人は、他の盲人を導くことができません。なぜなら、二人とも穴に落ちてしまうからです。つまり、自分が盲人であることに気付かず、他の人を導くことの危険を指摘しています。ここで、盲人とは、誰でしょうか。自分自身が盲人であると自覚することを、このたとえは教えています。キリスト者はたえず、聖書の御言葉によって、自分を知る必要があります。

2022年9月25日「敵を愛しなさい」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章27-36節

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」このような御言葉を前にするとき、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。敵を愛するどころか、私たちは自分の味方を愛することにも困難を覚えているのが現実です。自分の夫や妻、子どもでさえ、愛することの困難を感じることがあります。ですから、敵を愛する愛がないことを告白せざるを得ません。誰もこのようなことを語る資格があるわけではありません。もしあるとしたら、主イエス以外にはいないのです。なぜなら、イエス様ご自身がそうように、生きてくださったからです。

では、なぜイエス様は「敵を愛し、あなたを憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と語ったのでしょうか。それは、敵対関係そのものを、断ち切るためなのです。やられたら、仕返ししたいのが、人間でありますが、そうではなく、その敵対関係を断ち切っていくということが、ここで言われていると思います。

2022年9月18日「幸いな人」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章20-26節

イエス様は山から下りて、平らな所にお立ちになって話されました。イエス様はまず、あなたがたは幸いであると宣言されたのです。そうすると、集まっていた人は皆、「何が幸いなのだろう」と聞き耳を立てたと思います。しかし、「貧しい人々は、幸いである」この言葉は、人間の常識として、すぐには受け入れない言葉です。私たちは皆豊かになることを願います。貧しくならないように努力します。それなのに、イエス様はなぜ「貧しい人々は幸いである」と語ったのでしょうか。

イエス様は、貧しい人たちに「あなたがたは幸いである」と宣言し、その理由として「神の国はあなたがたのものである」と言われました。神の国とは、神が王として支配されることです。私たち人生が神に支配されること、それが神の国です。その神の国が与えられることが、貧しい人、今飢えている人、今泣いている人の幸いであると言っています。では、どうやって、神の国は貧しい人や、今飢えている人、今泣いている人のものになるのでしょうか。それは、神の独り子、イエス・キリストによってです。

2022年9月11日「十二人を選ぶ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章12-19節

「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)。イエス様はその夜、一体、何を祈られたのでしょうか。それは、翌日になって、イエス様がお選びになった十二人の顔ぶれを見ると分かって来ます。シモンとアンデレはガリラヤの漁師でした。同じ漁師のヤコブとヨハネは「雷の子ら」と呼ばれるほど、すぐ怒りっぽくなる人たちでした。また、ユダヤ人同胞からはローマの手先として嫌われていた徴税人マタイがいるかと思えば、ローマと妥協している人間なら短刀で暗殺することを計っていた熱心党のシモンもいました。特にこの中には、後に裏切り者となるイスカリオテのユダもいれば、自分の命が惜しくて、イエスのことを知らないと三度も否定するシモン・ペトロもいます。

 つまり、イエス様が十二弟子たちを選ばれたのは、有能で、立派だから選ばれたのではありません。もし、私たちがユダであったとすればどうでしょうか。ペトロであるなら、疑い深いトマスであるならどうでしょうか。裏切りの時点で終わりであり、救いも赦しもなくなってしまいます。私たちはそれぞれに弱さを持っています。しかし、イエス様はそのような私たちを、祈りによって、あなたの弟子として受け入れてくださるのです。

2022年9月4日「安息日の主」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章1-11節

本日の聖書箇所には、二つの安息日の出来事が記されています。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」(1節)それに対してファリサイ派の人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と非難しました。また、ほかの安息日に、イエス様は会堂に入って教えておられました(6節)。そこに右手の萎えた人がいました。律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスを訴える口実を見つけようとして、「イエスが安息日に病気をいやされるかどうか」と注目していたのです。イエスは彼らの考えを見抜いた上で手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」そして「手を伸ばしなさい」と言われました。この人はイエス様の言葉を信じて、動かない手を伸ばしました。すると、手は元どおりになったのです。

安息日が定められている理由は、神の創造の御業、神の救いの御業を覚えて神様に感謝することが目的です。そのために、安息日にはすべての仕事を休むわけですが、問題はこの手段のほうが目的になっていたのです。

2022年8月14日「主よ、御心ならば」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書5章12-26節

全身重い皮膚病にかかった人は、人が近づいたとき、口を覆って「わたしは汚れたものです、汚れたものです」と言わなくてはなりませんでした。それは、他人に汚れが移らないようにするためでした。そのことに耐えながら、町に来たのです。そして、イエス様を見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言います。その時、イエス様は手を差し伸べて、その人に触れました。それは、あなたのその病を、私が引き受けるよ、という意味です。

また、一人の中風の人が床に寝かされたままで、運ばれて来ました。ところが、大勢の群衆が集まっていて、イエス様の許に近づけない状況でした。中風の人を連れて来た人たちはなんと屋根に上って、瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろしたのです。その人たちの信仰を見て、イエス様は中風の人に「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。これは、わたしがあなたの罪を引け受けますよ、という意味です。

私たちは主イエス・キリストの十字架によって、罪赦され、日々その恵みの内に、生かされるものとなったのです。

2022年8月7日「しかし、お言葉ですから」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書5章1-11節

シモン・ペトロは、漁師のプロでした。しかし、この時現実は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。失望し、ペトロをはじめ、仲間と共に、網を洗っているところに、イエス様が来て、あなたの船を出してほしい、とお願いしました。そして、イエス様はペトロの船に乗って、その船から、群衆に向かって、教え始められました。ところが、話し終わった時、今度イエス様はペトロに向かって、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロの失望しているその問題に、イエス様がお言葉をもって、語りかけてくださったのです。ペトロはイエス様に「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました(5)。そして、信仰によって、沖に漕ぎ出していた時、主イエスが生きて働いておられることを、ペトロは知りました。

私たちの信仰生活においても、今置かれている現実の問題、今抱えている問題の中で、主イエスは御言葉を語ってくださるのです。そして、私たちも御言葉に従っていく時に、主の奇跡を体験することができます。自分の経験ではなく、御言葉のみによってです。