讃美歌練習を担当して 信仰が生み出す新しい歌

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:MK)

 本日(三月二十九日)は、金先生が冬期休暇なので奨励を務めさせていただきます。前回は五年前、本誌『ぶどうの枝』にも書いたのですが、当時訪問した長崎のキリシタンのことをお話ししました。
 今回は、讃美歌練習で考えたことについてです。練習の担当になって、自分なりにできることを考えようと楽譜を見ていましたら、これは職業病なのですが、作詞・作曲者の生没年が気になりました。『讃美歌二一略解』や、二階にある『讃美歌物語』などを参考に、讃美歌の歴史的な背景について、少しお話をしている次第です。
 作詞作曲者が「いつ」の人なのか、いつ作られたのか、ということに注意しておりましたら、年代の傾向も分かってまいりました。
 古い方では、中世のグレゴリオ聖歌のようなものがあります。逆に新しい二十世紀以降のもの、日本人が作ったものもあります。そして、その中間、おそらく数としても一番多いのが、十九世紀頃の讃美歌です。今日「讃美歌らしい」という感じがするのは、だいたいこの頃の歌だと思います。
 讃美歌集の中では皆同じように見えても、時代も背景も様々であることが分かります。そして、ここが大事だと思うのですが、今から見ると古い時代の歌であっても、その当時は新しい歌だった、ということです。歴史というのは、今から見ると古いのですが、その当時は一番新しい時代であり、一番新しいものだったのです。讃美歌も、その時代その時代の、新しい歌として作り続けられていた、ということです。
 十九世紀頃の「讃美歌らしい讃美歌」というのは、日本で言えば、江戸時代の終わり頃から、明治時代頃に当たり、つまりアメリカやイギリスから、日本にやってきた宣教師たちが紹介した讃美歌だと思われます。それは、宣教師たちにとっては、自分たちと同時代に作られた「新しい歌」だったことになります。
 本日の讃美歌、三三三番は、元はタンザニアの民謡で、結婚式の時に男女のグループが歌い交わすものだそうです。それを讃美歌にしたというのは、自分たちの文化から賛美の歌を作り出した、という意味で素晴らしいと思います。
 新しい歌を作るということには、古くからの歌をただ歌い続けるのではなく、あるいは他人のものをそのまま使うのではなく、自分たちの信仰を、自分たちの形に表わして賛美する、という意味があるのだと思います。そのために、新しい讃美歌は、常に作られ続けなければならないのだと思います。
 そして、讃美歌を作ることに限らなくても、賛美自体は、誰にでもできるはずです。他人のものではない、自分なりの賛美―言葉でもよいし、行いでも、そして自分の生き方、ほかならぬ自分の人生自体が、御心に従って生きようとするなら、賛美になりうるのではないか、ということに思い至ります。それも、一つの「新しい歌」なのではないでしょうか。
 前回、長崎のキリシタンのお話のときは、「待ち望む信仰」と題しました。二百五十年もの間、潜伏に耐えることができたのは、彼らの信仰が、いつか、大きな黒船に乗って司祭(パードレ)がやってくる、キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになるという、希望を持ってその日を待ち望むものだったことが、キリスト教の信仰そのものと一致していたからではないか、と考えました。
 今、コロナウイルスの感染対策として、集まって声を出すこと自体を自粛しなければならないのですが、かつての潜伏キリシタンたちに倣って、今は心で賛美し、願わくは遠からず、また大きな声で、晴れやかに歌える日が来ることを待ち望みたいと思います。