随想 母の写真を見詰めて

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:CK)

 「私には親がいないのよ」。元日の朝、受話器を置いた母は両手で顔を覆って泣き出した。親類の一人だろう。子供の私には事情は分からなかったけれど、なんとかしなければという思いで「私がいるよ、お母さん。私がいるからいいじゃない!」。そう声をかけたが泣きやまない。私の中に生まれた、なぜか母に置き去りにされたような寂しさ、もどかしさ、そして小さな怒り。そのとき心に誓った。私は決して母から離れない、と。そしてその誓いを最後まで守り通した(と思う)。
 同じジムに通い、二人でエステ。ショッピングにも連れ立って。「私たちは一卵性双生児ならぬ一卵性親子」と母がよく笑いながら言っていたけれど、まさにそういう表現がぴったりだったと思う。母は本当に心から私を愛し、私の幸せをいつも願ってくれていたけれど、私もまた、母の幸せをいつでも願っていたのだ。二人で過ごした半世紀。思いがけず母が病により召され、五十を過ぎてようやく私はソロソロと一人で人生を歩み出した。
 母亡き後私の生活に起きた変化は二つ。一つは一人暮らしが難しい父の日常を支えるため本格的に一緒に暮らし始めたこと。もう一つは礼拝の奏楽のためオルガン練習を始めたことだ。子供の頃近所のピアノ教室に通った程度で、きちんと音楽の勉強をしたわけでもない自分には大それた挑戦だけれど「やると決めたらやり通せ!」と姿の見えない母に叱咤激励され、母の寝室だった部屋にオルガンを据えた。お気に入りだったおしゃれな籐のベッドも今やリビングへ追放処分だ。父をデイサービスへ、息子を学校へ送り出すとオルガンに向かう。
 五時間も六時間も練習してしまうことがある。肘がしびれている、右手の甲に変なこぶができてしまった。明らかに手の使い過ぎ。けれど……。どうしたらよいか分からないのだ。一人ぼっちのこの部屋で。母と過ごしたこの部屋で。母のため精一杯頑張ったつもりでも、やはりこうすればよかった、ああしてあげればよかったと後悔がある。そんなとき、オルガンの上に飾られた写真を見詰める。奏楽者を目指すきっかけとなった古い白黒写真。小さなリードオルガンに手を添える着物姿の曾祖母とそばでほほえむ若き日の母。譜面台には讃美歌集。「オルガンはギュウギュウ押さずに、力を抜いて軽いタッチで弾くほうが良い音が出るわよ」。まだまだ拙くて、半人前とも呼べないけれど、先生の言葉を思い出し、そーっと鍵盤を押さえてみる。すると指先からあふれる柔らかな響きに包まれて、私の悲しみも溶けてゆく。
 今の私を支えてくれる息子の言葉。「僕は教会に通っていて本当に良かった。天国でまたあーちゃんに会えるから」。そうね。また会えるよね。