長崎のキリシタンの里と「マリア十五玄義図」

○ぶどうの枝第42号(2015年7月19日発行)に掲載(執筆者:MK)

 長崎の「マリア十五玄義図」

浦上天主堂旧蔵。西村貞『日本初期洋画の研究』1945年より

 「マリア十五玄義図」というキリシタン時代の絵画については、婦人会主催の会でもお話ししたことがあります。カトリックの「ロザリオの祈り」に対応した、聖母マリアとキリストの物語を十五の場面として描いた絵で、大阪府茨木市に伝来した二点が現存していますが、もう一つ、長崎の潜伏キリシタンの里に伝わったものがありました。残念ながら戦災で焼失してしまい、その直前に出た本に載っている写真でしか見ることができなかったのですが、ところが近年そのガラス乾板が存在していることがわかり、国立歴史民俗博物館のホームページで公開されています。その現地を訪ねて来ました。

 外海のキリシタンの里

 この絵が伝えられたのは、現在長崎市となっている外海(そとめ)地方の「出津(しつ)」という里です。住民のほとんどが潜伏キリシタンだった所で、幕末に長崎に大浦天主堂が建ち、秘かに信徒が訪れるようになると、神父のプチジャンは出津にも招かれて、夜中に村人の漕ぐ船で渡り、そこでこのマリア十五玄義図を見ています。その後、外海地方には、ド・ロ神父が着任して、多くの教会や授産施設が作られました。世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部となっています。

出津の教会堂

 出津の教会堂は、台風にも耐えるように背が低く作られた、白塗りで素朴な、しかしがっしりとした建物で、地元の信徒の方がガイドをしてくださいました。この地方には「バスチャン」という日本人伝道師の話が伝えられており、「ジワン」という神父の弟子だったという彼は、キリスト教の年中行事を記した「日繰り」を作って教えたが、山中で潜伏中に捕らえられ、その屋敷の跡が現在も残されています。「皆を七代までわが子とする、その後は神父が大きな黒船でやってきて毎日でもコンピサン(告白)ができるようになる、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる・・」という予言を残したとされ、二百五十年の禁教の後に、それが実現したとも言えます。
 ド・ロ神父はフランスの貴族の出身で、建築、印刷、医学、農業、織物、製粉・製麺など、当時最先端の技術を伝え、施設を作っています。まさに万能の人ですが、フランス革命の後で貴族がどうなるか分からなかったから色々な技術を身につけたのだそうで、何がどう関係するか分からないものです。国家による大規模な近代化とは別に、民間の無私の奉仕で、こんな所に西洋文明が直接伝えられていたことにも驚きました。
 なお、ここは遠藤周作の『沈黙』という小説の舞台で、付近には記念文学館もあります。

 浦上天主堂

 出津のマリア十五玄義図は、その後、浦上天主堂に移されて焼失しました。訪問して気がついたのですが、今年は、大浦天主堂で潜伏キリシタンの婦人がプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」の百五十周年で、カトリックではその日三月十七日を日本独自の記念日としており、多くの行事が行われたそうです。浦上の信徒は、禁教がまだ解かれなかった明治元年(一八六八)から六年間にわたって各地に配流され、戻ってから力を合わせて建てた天主堂も原爆で全壊、崖下に落ちた鐘楼の屋根は、今もそのまま残されています。苦難の歴史の前に、粛然とさせられます。

浦上天主堂と原爆で吹き飛んだ鐘楼の屋根

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