○金 南錫牧師 創世記18章16-33節
三人の旅人、即ち主なる神と二人の天使はアブラハムにイサクの誕生を約束され、そのあと、ソドムの方へ進んで行かれます。そして、神はその目的をアブラハムに明らかにされたのです。20節、21節に書いてあるように、神様は「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」ことを指摘されました。そして、彼らの実態を調べるために現地を訪問しようとなさったのです。その時、アブラハムは、ソドムの町がその罪のゆえに滅ぼされないように、神に祈っているのです。そのことが、23節以下の神との問答です。23節から25節を見ますと、アブラハムは、最初、確かにソドムの町には悪い人もいるかもしれない、しかし、正しい人もいるはずであるということで、その両者を一緒に滅ぼすとは不正なことではないかと神に訴え出ています。神様はそれに対して、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と語ります(26節)。しかし、それに対して、アブラハムは町の滅びを回避するために、「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」と問います(28節)。そこで神は言います。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。また、さらに、40人、30人、20人ではと言い、最後に10人では、と問うのです。まことにねばり強い交渉であります。そして、アブラハムはついに「その十人のためにわたしは滅ぼさない」という神の言葉を引き出します(32節)。
このアブラハムの神との交渉に示されていることは、私たちの祈りの姿勢に対する一つの大きなチャレンジであります。つまり、一度や二度では引き下がらない大胆さと、ねばり強さが問われています。アブラハムはそのような聖書的な祈りの最初のモデルであると言えます。
では、アブラハムの「ねばり強い祈り」の原点は何でしょうか。それは、アブラハムが祈り始める直前に記されています。22節にこう記されています。「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」。ここに「アブラハムはなお、主の御前にいた」と書いてありますが、最初のヘブライ語の原文を見ますと、アブラハムではなく、「主がなお、アブラハムの前にいた」となっています。英語の聖書でも(NLT)、同じように主なる神様が主語になって、「the Lord remained with Abraham」と訳されています。つまり、これは、アブラハムがまだ何もしていないのに、神様がそのアブラハムの前にあえて留まり、佇んで、アブラハムはどうするのか、待っている、神の姿を描いているのです。アブラハムは、目の前に立ちつくしておられる神様に、大胆に、ねばり強く祈ることができました。私たちも日々、その神様の御前に出て、ねばり強く祈り続けることができますよう、祈り願います。