2021年2月14日「命の息を」

○金 南錫牧師 創世記2章4-17節

  本日の聖書箇所から、人間の創造について新しい記事が始まります。創世記1章27節において、神様はすでに人間を創造されました。ところが、2章7節に、土の塵で造られた人間のことが改めて記されています。ですから、聖書学者たちは、この創世記がいくつかの時代の複数の著者によって、書かれたと言っています。

 聖書は確かに、神様が自分たちにどのように関わってくださったか、その言葉を、時代を超えて多くの人が受け継ぎ、纏められたものです。そこには長い年月と多くの時代背景があります。創世記が書かれた時代は、イスラエルの民が国の崩壊、バビロンへの捕囚、そして、捕囚からの解放を経験した後の時代です。つまり、この創世記の言葉を受け継ぎ、私たちの手元にあるような形にまとめていった人たちは、それぞれに人間の弱さ、罪を抱えていたと思いますが、その罪の結果として国の崩壊と捕囚を経験しているのです。その上で、自分たちは何者であるのかを問い、アイデンティティを再確認していったのです。

 その営みの中、彼らは、人間は一体どういう存在であるか、生きるとは何か、という問いとその答えである聖書の言葉を受けていったのです。そこでは、イスラエルの民の創造を示すのではなく、人間の創造を示しています。つまり、イスラエルの民に限定されるものではなく、すべての人は主なる神によって創造され、その存在の意味を与えられていることを語るのです。ですから、私たちと無関係ではないのです。すべての人に、この聖書の言葉は語りかけているのです。

 2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。もし、皆さんは、人間とはどういう存在ですかと聞かれた時、どう答えるのでしょうか。聖書は、人間とは土の塵からできている存在であると語っています。どんな人も、葬儀をして火葬場に持っていくと、人の体は灰になります。灰になった人の骨を見ると「人間は本当に塵でできているんだな」と思います。ですから、私たちは死を意識して、どう生きるか、自分の生き方を考え続ける者なのです。

 神様は、土の塵に過ぎない私たちの体に、命の息を吹き入れられました。すべての人間は自分の力で生きているように見えますが、実は神によって生かされている存在です。ほかの動物や生き物も神によって、生きるものとされましたが、そこには「息」を吹き入れるような表現はありません。神様は人間にだけ命の息を吹き入れてくださったのです。それは、人間は神の息を受けて、生きる存在であることを示しています。神と共に生きる喜びの中で残された人生の歩みを進めて行こうではありませんか。

2021 年2月7日「安息」

○金 南錫牧師 創世記2章1-3節

 創世記2章に入りました。神様は六日間で、天地万物のすべてを創造されました。創世記1章を見ますと、神様は天と地とその中のすべてのものを創造され、六日目に人間を創造されました。創造主なる神様は、この世界やあらゆるいのちを創造され、今日の2章1節にあるように、天地万物を完成されたのです。そして、七日目には、神様はすべての働きを止めて休まれました。では、神様はなぜ七日目に休まれたのでしょうか。この「休む、シャバト」という言葉は、休憩するという意味ではなく、「働きを止める」という意味です。神様は天地創造の働きを止められました。それは、すべてが完成されたからです。

 2節、3節をお読みします。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

 神様は、七日目の日を祝福されました。なお、この七日目の日にはほかの日のように「夕べがあり、朝があった」という言葉が記されていません。これは、七日目の日が終わっていないことを意味します。神様が私たちに安息を与えるために制定された日は、今もなお続いているのです。つまり、今もなお、神様は私たちに安息を与えるために、この日を祝福し、聖別され、残しておられます。

 また、神様はこの七日目の日を聖別されました。「聖別する、カドーシュ」ということは、神様のものとして「取り分ける」ことです。それでは、何のために、安息日を神様のものとして取り分けるのでしょうか。モーセがシナイ山で、十戒を授かった時に、神様は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じられました。その理由は「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」と告げています(出20:11)。つまり、神様が天地創造の時に、六日間ですべてを創造され、七日目に休まれた。この神の創造の御業を覚え、喜び祝う日として、安息日が定められているのです。

 しかし、聖書にはもう一つの安息日の由来が記されています。申命記5章12-15節です。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」となっています(15節)。つまり、神の救いの御業を思い起こす日として、安息日が定められているのです。ですから、安息日の目的は、神様の創造の御業を覚えること、神の救いの御業を覚えること、この二つのことを覚えて、神様に感謝することです。

 天地創造の第七の日に、神はそのすべての業を完成して、休まれました。この日を神の日、安息日として祝福し、聖別されました。それは、安息なきの私たちを神の安息に招くためです。祝福された人生は、週の初めの日、聖日から始まります。

2021年1月31日「人間の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章26-31節

 六日間の天地創造のクライマックスは、人間の創造でありました。今までは、まず神様が言葉によって命令し、その言葉通りのことが実現され、神様がそれを見て良しとされたという創造でした。ところが、人間の創造においては、神様がまずご自分に向かって問いかけることから始まるのです。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(26節、27節)。

 私たち人間は神にかたどって創造された「神のかたち」です。つまり、人間の創造には、神の深い愛が行われているということです。その第一が「神にかたどって創造された」とあることです。ここで「神にかたどる」というのは、神の人格に近いものとして創造されたということです。即ち、神と人間とはお互いに交わりができるように造られたということで、それが人間の尊厳につながります。

 27節において、「神にかたどって創造された」ということが、「男と女に創造された」と言い直されているのです。このことは、男も女も神にかたどって造られたことで、男の中にも女の中にも、神様は等しくご自分のかたちを刻み込んでおられるのです。ですから、男も女もそれぞれに神のかたちを指し示していることを心に留めていただきたいと思います。28節に、神様は人間を創造された後、彼らを祝福して言われました。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 ここで神様は、人間に向かって生き物をすべて「支配せよ」と祝福してくださいました。聖書協会共同訳では、「治めよ」と訳されています。神様は創造された人間に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福してくださり、あらゆる生き物を「治めよ」と言われました。ここで神様が求めておられることは、人間が神の代わりに、権限をいただいて、生きるすべてのものを治めることで、あくまでも、神から管理を委ねられたということです。しかし、私たち人間ははたして、そのような神様の期待に応える歩みをしてきたか、ということを問わざるを得ません。むしろ、人間は、あたかも自分がこの自然界における主人であるかのように振る舞い、人間が自然破壊の最たるものと言われるようになりました。聖書は人間もほかのすべての生き物と共に、神によって創造された被造物であると語りかけているのです。ですから、私たち人間はただ、神様が創造し、育んでくださったこの自然界と共に、謙虚に生きる被造物であることを忘れてはいけません。

 最後の31節に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。『見よ、それは極めて良かった。』夕べがあり、朝があった。第六の日である。」とあります。天地万物を創造された神の業は、「極めて良かった」のです。これが神様の造られた世界です。

2020年8月9日「まさか、私のこと?」

〇金 南錫牧師 マルコによる福音書14章10ー21節

 ユダは、イエス様に選ばれた十二弟子の一人でした。彼はイエス様からの招きを受け、すべてを捨ててイエス様に従って来たのです。三年間、イエス様と寝食を共にし、イエス様と共に福音を宣べ伝えていた弟子の一人でした。
 それなのに、この時、イエス様を引き渡そうとしたのです(10-11節)。しかし、イエス様は今までに三回にわたって、ご自分が「引き渡される」ことを語っておられました。ユダは、イエス様の予告通りに、イエス様を引き渡した者でした。
 つまり、ユダは自分の意志でイエス様を引き渡そうとしているわけですが、実はそのすべてのことが神様のご計画の中にありました。そして、イエス様はそのすべてをご存じだったのです。
 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。
 この時、ユダがイエス様を裏切るなどということは、他の弟子たちは誰も知りませんでした。だから、「まさか、私のことでは」と口にしたのです。実際、イエス様が捕らえられたとき、ほかの弟子たちはイエス様を見捨てて、逃げてしまいました。ユダだけではなく、ほかの弟子たちも皆イエス様を裏切ったのです。
 どんな時代においても、大人も子どもも誰でも、「まさか、私のことでは」という御言葉は、他の誰のことでもなく、まさしく自分のことだと気づかねばなりません。