転入会者より 転入に当たり思うこと 人を愛すことのイメージ

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:KN)

 私は、一九七九年(二十歳)のときに沼津教会で受洗しました。
 その後、すぐに就職のために千葉県に住むこととなり、千葉教会を経て佐倉教会に通うようになりました。
 初めて佐倉教会に来た頃、私は三十代半ばであり子どもたちは小学生でした。それから現在に至る長い年月で、「人を愛す」ということのイメージが変化したように思います。
 原罪とは、アダムとエバが神様のようにこの世を支配したいと願うことだと聞きました。このことが心に残りました。良かれと思い子どもにアドバイスすることも、場合によっては私の好みに合った方向付けとなり、支配につながるからです。子ども自身が心の奥に持っているものを引き出す関わりが必要であり、それが「愛」です。そんなことは当然だと思う人は多いと思います。けれども、場合によってはアドバイスが支配につながり、それは原罪につながるという発想はありませんでした。
 少し前のことですが、テレビをつけると田中ウェルベ京さんが話していました。
 「子どもたちが悩んでいるときに、すぐに共感したり解決できる助言をしたりしてはいけません。まず話を聞いて、本当の悩みは何かということを子どもと二人で探る。そうすることで、お互いに実態把握の力と解決する力を養うことができます。また、解決してあげないで問題をそのままにしておくこともよいことです。私たちは、先の見えない困ったことが起きると本能で恐怖を感じます。それなので早く解決してモヤモヤから抜け出したいと思います。けれども、解決しないでそのままにとどめておける力が必要であり、そういう力を付けることが大切です」
 この話を聞き「人を愛す」ということのイメージが、より具体的になってきました。
 私の子どもたちは何年も前に成人しているので、成長期の子どもとして向き合う必要はありません。にもかかわらず田中ウェルベ京さんのお話が心に残っているのは、受洗してから「人を愛す」ということの方法を無意識に模索していたのかもしれません。「隣人愛」という言葉は、私たちにとってとても大切な言葉ですが、私にとっては難しい言葉でした。
 神様の愛に気付いてほしいと願う人に会ったら、遠回りではありますが田中ウェルベ京さんのお話のように対応することが良いと思います。そうすることで、人はたくさんの可能性を持ち、神様に愛されていると伝えることになると思います。
 佐倉教会に、再び迎えてくださりありがとうございます。私にとっての「人を愛すことのイメージ」を書かせていただきました。佐倉教会には、在籍する人の数だけ「人を愛すことのイメージ」と「信仰の形」があると思います。皆様の尊い「愛」と「信仰」に敬意をもって、共に礼拝を守っていきたいと思います。
 どうぞよろしくお願いたします。

草創期の佐倉教会の人びと―百二十周年記念誌の編纂から―

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:MK)

 二〇二四年度の事業として取り組んでいた百二十周年記念誌は、皆様のさまざまな御尽力・御協力により、本年三月三〇日に無事刊行することができました。歴史についての部分では、草創期の教会について新しく判明したことも多かったのですが、記念誌には書ききれなかったことや、その後さらに分かってきたこともあり、四月二〇日のイースター祝会でお話させていただきました。

 草創期の牧師たち

 歴代の牧師については、百周年記念誌には一三人の方の写真が載っていますが、他にもお名前が挙げられている方がいます。嶋津虔一先生が編纂された「八十年史」(百周年誌に転載)では、一九〇四年(明治三七)に宣教を始めたソルントン宣教師夫妻が佐倉教会の「生みの親」とされていますが、同年七月には佐倉を離れており、最初の総会は同年一一月二七日(創立記念日)ですから、その時に牧師だった木村定三師が初代ということになると思います(敬称は以下略)。木村定三は同年六月に弘前から赴任しており、詳細は不明ですが、ヘフジバ・ミッションと密接な関係があったホーリネスの中心人物である中田重治が弘前出身なので、その縁なのかもしれません。この年には、手塚千織子も「伝道婦」として二月に静岡から赴任しています。
 翌一九〇五年一〇月以降は資料が乏しいが、井上伊之助・三谷碩五郎が定住伝道者と思われる、とされており、この内、井上伊之助(在職一九〇七~〇九か)は、台湾伝道者として有名であることが分かりました。聖書学院(中田重治らの東洋宣教会・中央福音伝道館の神学校)の神学生時代に、当時日本の植民地だった台湾で父親が原住民に殺害されたが、「敵を愛せ」と示され、さらに台湾伝道の召命を受けて、佐倉教会の牧師を辞した後、台湾に渡って医療と伝道に尽くした人です。自らは一人の受洗者も出せなかったが、一九四七年の帰国直前に山地の原住民がリバイバル(信仰復興)的な状態になったことを知らされ、一九七七年時点で八〇%がキリスト教徒になっているそうです。台湾で色々な紹介動画が作られており、高尾日本語教会が一〇年前に作った「父の仇討ちを乗り越えた青年―井上伊之助」には、一九〇八年(明治四一)ちょうど佐倉で牧師をしていた時期の新婚当時の写真が出ています。
 https://www.youtube.com/watch?v=OB0tQVVF-Nk&t=517s
 この二人に続く牧師は、菱谷(ひしや)与三郎(在職一九一一~一三)と鈴木仙之助(同一九一三~一六)ですが、記念誌にも書いたように元警察官だった人で、菱谷与三郎の写真は初めて見つかりました。二人とも、銚子教会の牧師だった平出(ひらいで)慶一が受洗に導き、東京の聖書学院に送った、と『主のあわれみ限りなく 平出慶一自伝』(一九八二年、日本福音基督教団成城キリスト教会)にあります。平出慶一は自らの経歴の中で、聖書学院卒業後、二年間のオブリゲーション(義務)としてヘフジバ・ミッションの銚子町の教会に赴任したと書いていますので、井上伊之助以降の佐倉教会の牧師も、聖書学院卒業後に同じ形で来ていたものと思われます。

 初代会堂前の写真

 銚子教会で一九〇六~〇八年に牧師をつとめた平出慶一のことは、同教会の米沢講治先生から教えていただき、自伝があるのに気づいて入手した所、口絵に佐倉教会(佐倉福音伝道館)が現在地に移る前の、最初の会堂の写真があって驚きました。
 この写真は百二十周年記念誌にも掲載させていただきましたが、写っている人物について、もう少し分かってきました。中央で大太鼓をたたいている平出慶一の右二人目は、当時佐倉の牧師だった井上伊之助、平出慶一の後ろの西洋人は、日英国旗が掲げられていることから、英国人(聖公会牧師)で松江で伝道して多くの弟子を育てたバックストン、その左はバックストンの弟子の一人で、聖書学院の校長をつとめ、佐倉にも何度か来援している笹尾鉄三郎、左端の方にいるのは、この後に佐倉の牧師になる菱谷与三郎と思われます。バックストンを迎えての特別伝道集会に関係者が集結した際の写真と思われ、この集会自体についての記録は見当たらないのですが、関係者の年譜から、年代は一九〇八年に特定できます。今後さらに人物やその背景が判明するかもしれません。なお、英国国旗があるのは、一九〇二年に日英同盟が結ばれ、一九〇四~五年に日露戦争があったことも背景として考えられます。
 銚子教会で見つかったグレン師関係の六点の写真については記念誌に書いたとおりですが、廻船の時代は物流の拠点として栄えた銚子に、まず宣教師館などの伝道の拠点が作られ、そこから佐倉などに伝道が進められたことが分かります。
 草創期の佐倉教会に関わった人びとの生き様に、多くのことを感じさせられます。

随想 神様の御旨にすべて委ねる

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:YH)

 ヨルダン川を渡る……全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は壁のように立つであろう。(ヨシュア記三章一三節)
 ヨシュアと祭司たちにとって、ヨルダン川を渡ることは、信仰によって望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することでした。神の導きを疑う気持ちはありませんでした。魂の中に何か引っかかるものを感じるのならば、そのまま前進せずに明らかな道が与えられるまで待ちました。その御声を聞く、自分の意思などはない、小指より小さな信仰によって、自分の計画も目的も全て愛の神の御旨の中に注ぎ入れ、何も持たないが、神にあって全てを得ていました。ヨルダン川の水は壁のように立つでありましょう。不思議な解放感に満たされ、罪の綱からの解放、疑いと恐れからの解放、心配、重荷、悲しみ、不安、一切からの解放でした。神の力の奥底へと漕ぎ出し、しっかりと守り救われる。その力の奥底へと聖霊に全てを委ね、沈んでいきます。
 自我を捨てるまでアブラハムは、イサクを献げました。「イサクから生まれる者があなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
 聖霊が私たちを満たし、私たちは満たされ、完全にされます。私たちの魂の中にある光が陰ることなどあり得ません。すべてを委ねるという契約を守っている限り。

随想 初めて教会に行ったとき

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:SK)

 女学校で隣の席だったSさん、日常の会話の中で自分の家とは何か違うものを感じていました。
 ある日「教会へ行きませんか。」と誘われ、日曜の朝六時前、彼女と一緒に着いた先はカトリック教会のミサだったのです。その日は祝祭日だったのか、ピカピカで荘厳な感じでした。教会に対して全く無知だった私はカトリック、プロテスタントなど知る由もありません。ミサの間中、友達も私自身もどんな行為をしたのか……。
 終了後「うちへ寄って朝食をどうぞ」に黙って雪解けの道を歩いていき朝食をいただきました。温かな千六本の大根の味噌汁、なんとおいしかったことか。忘れられない味です。その後、半年程何度か行きましたが詳しい記憶はありません。
 卒業後、県庁に勤めた私。国道四号線を隔てた所に模造紙の貼られた立て看板によって教会のあることに気付きました。歩いて十二、三分。教会はどこも同じとしか知らない私です。
 冬を控え大根干しがあちこちに見られる秋晴れの日曜日、見つけた教会に行きました。木造、平屋建て十二、三坪六畳二間にたくさんの人が正座をしているのです。そこで背広にネクタイ、六十代半ばの牧師が説教されました。内容は全く不明です。土曜午後の十名ほどの聖書研究には和服に袴を着けて定刻に来られ、四、五名のときであっても同様で、内容は不明ながら、なぜか引かれるものがあり毎週出席しました。
 一九四九年四月イースター、多方面からの支援によって建てられた新会堂(日本キリスト教団青森長島教会)で十数名と共に、中山真平牧師より洗礼を受けました。

私の好きな讃美歌 四九三番「いつくしみ深い」

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:YT)

 いつくしみ深い 友なるイエスは
 うれいも罪をも ぬぐい去られる。
 悩み苦しみを かくさず述べて、
 重荷のすべてを み手にゆだねよ。

 いつくしみ深い 友なるイエスは
 われらの弱さを 共に負われる。
 嘆き悲しみを ゆだねて祈り
 つねに励ましを 受けるうれしさ。

 いつくしみ深い 友なるイエスは
 愛のみ手により 支え、みちびく。
 世の友われらを 捨てさるときも
 祈りに応えて なぐさめられる。
      *
 私が初めて行った教会の礼拝で賛美した曲で、以前から好きな讃美歌です。そのときの様子を今も感慨深く思い出します。
 一九九五年、夫の転勤先の静岡で受洗し、礼拝や結婚式、葬儀等、様々な場面でこの曲をたくさんの人々と賛美する機会が与えられました。
 その都度心が癒やされ、喜びは増し、悲しみや苦しみは軽減され、心に安らぎと平安が与えられてきました。
 心が騒ぎ不安を感じる弱さの中にいるときも、楽しく幸せなときにも自然と口ずさんでおります。
 詩や旋律に神様の深い愛といつくしみを感じ、困難な中にあっても、乗り越える勇気を与えられ感謝です。
 「重荷のすべてをみ手にゆだねよ」と口ずさみ安らぎを得ております。
 神様が私に信仰を与えてくださいました恵みを深く感謝し、賛美しております。

2025年7月の主日聖書日課から

7月6日
○申命記26章1-11節
 あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。あなたは、そのとき任に就いている祭司のもとに行き、「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いなさい。祭司はあなたの手から籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。
 あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
 「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
 あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。

○マタイによる福音書5章21-37節
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

7月13日
○イザヤ書49章14-21節
 シオンは言う。
 主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。
 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。
 見よ、わたしはあなたを
   わたしの手のひらに刻みつける。
 あなたの城壁は常にわたしの前にある。
 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。
 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。
 破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。
 あなたが失ったと思った子らは
   再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。
 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

○マタイによる福音書6章22-34節
 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

7月20日
○歴代誌下6章12-21節
 彼は、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を伸ばした。境内の中央に縦五アンマ、横五アンマ、高さ三アンマの青銅の台を造らせてあったので、ソロモンはその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざまずき、両手を天に伸ばして、祈った。「イスラエルの神、主よ、天にも地にもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを、今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの律法に従って歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を絶たず、わたしの前から消し去ることはない』と。
 イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。
 神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。

○マタイによる福音書7章1-14節
 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

7月27日
○エレミヤ書7章1-7節
 主からエレミヤに臨んだ言葉。
 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。
 「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。

○マタイによる福音書7章15-29節
 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。か。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2025」(日本キリスト教団出版局、2024年12月20日発行)より作成

2025年6月28日 講演会「メサイアの聖書的背景」

 佐倉メサイアをうたう会主催により、次のとおり講演会「メサイアの聖書的背景 -聖書の世界観・言語・ヘブライズムとヘレニズムの融合-」が開かれます。

1 日 時  2025年6月28日(土) 17時30分~18時30分
2 場 所  日本キリスト教団佐倉教会礼拝堂
3 講 師  菊地  実(東京基督教大学教員)
4 参加費  無料

 どなたでもご参加いただけます。

2025年6月の主日聖書日課から

6月1日
○エレミヤ書10章1-10a節
 イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。
 主はこう言われる。
 異国の民の道に倣うな。
 天に現れるしるしを恐れるな。
 それらを恐れるのは異国の民のすることだ。
 もろもろの民が恐れるものは空しいもの
 森から切り出された木片
 木工がのみを振るって造ったもの。
 金銀で飾られ
 留め金をもって固定され、身動きもしない。
 きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず
 歩けないので、運ばれて行く。
 そのようなものを恐れるな。
 彼らは災いをくだすことも
 幸いをもたらすこともできない。

 主よ、あなたに並ぶものはありません。
 あなたは大いなる方
 御名には大いなる力があります。
 諸国民の王なる主よ
 あなたを恐れないものはありません。
 それはあなたにふさわしいことです。
 諸国民、諸王国の賢者の間でも
 あなたに並ぶものはありません。
 彼らは等しく無知で愚かです。
 木片にすぎない空しいものを戒めとしています。
 それはタルシシュからもたらされた銀箔
 ウファズの金、青や紫を衣として
 木工や金細工人が造ったもの
 いずれも、巧みな職人の造ったものです。

 主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。

○ルカによる福音書24章44-53節
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

6月8日
○ヨエル書2章23節-3章2節
 シオンの子らよ。
 あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。
 主はあなたたちを救うために
 秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。
 元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
 麦打ち場は穀物に満ち
 搾り場は新しい酒と油に溢れる。

 わたしがお前たちに送った大軍
 すなわち、かみ食らういなご
 移住するいなご、若いいなご
 食い荒らすいなごの
 食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
 お前たちは豊かに食べて飽き足り
 驚くべきことを
 お前たちのために成し遂げられた主
 お前たちの神なる主の御名を
 ほめたたえるであろう。
 わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
 イスラエルのうちにわたしがいることを
 お前たちは知るようになる。
 わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。
 わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。

 その後
 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
 あなたたちの息子や娘は預言し
 老人は夢を見、若者は幻を見る。
 その日、わたしは
 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

○マタイによる福音書12章14-21節
 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、わたしの選んだ僕。
 わたしの心に適った愛する者。
 この僕にわたしの霊を授ける。
 彼は異邦人に正義を知らせる。
 彼は争わず、叫ばず、
 その声を聞く者は大通りにはいない。
 正義を勝利に導くまで、
 彼は傷ついた葦を折らず、
 くすぶる灯心を消さない。
 異邦人は彼の名に望みをかける。」

6月15日
○イザヤ書6章1-8節
 ウジヤ王が死んだ年のことである。
 わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
 主の栄光は、地をすべて覆う。」
 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。
 「災いだ。わたしは滅ぼされる。
 わたしは汚れた唇の者。
 汚れた唇の民の中に住む者。
 しかも、わたしの目は
   王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
 「見よ、これがあなたの唇に触れたので
 あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。
 誰が我々に代わって行くだろうか。」
 わたしは言った。
 「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください。」

○マタイによる福音書11章25-30節
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

6月22日
○エゼキエル書18章25-32節
 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

○マタイによる福音書3章1-6節
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6月29日
○イザヤ書60章19-22節
 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
 月の輝きがあなたを照らすこともない。
 主があなたのとこしえの光となり
 あなたの神があなたの輝きとなられる。
 あなたの太陽は再び沈むことなく
 あなたの月は欠けることがない。
 主があなたの永遠の光となり
 あなたの嘆きの日々は終わる。
 あなたの民は皆、主に従う者となり
 とこしえに地を継ぎ
 わたしの植えた若木、わたしの手の業として
 輝きに包まれる。
 最も小さいものも千人となり
 最も弱いものも強大な国となる。
 主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。

○マタイによる福音書5章13-16節
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
 
出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2025」(日本キリスト教団出版局、2024年12月20日発行)より作成

2025年度 年間行事

時刻集会・行事
42010:30イースター合同礼拝
42012:00イースター祝会
53111:00サツマイモの会(苗植え付け)
6810:30ペンテコステ・花の日合同礼拝
8310:30賛美礼拝
92110:30敬老・子ども祝福合同礼拝
11210:30召天者記念礼拝
11214:00墓前礼拝
111511:00サツマイモの会(収穫)
112310:30教会創立記念礼拝
122110:30クリスマス合同礼拝
122112:00祝会
122419:00クリスマスイブ礼拝
122513:30子どもクリスマス会
1410:30新年礼拝
2812:00お餅つき会