○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)
二〇二〇年から始まった新型コロナウイルス感染症によって、約三年間、いろいろな活動や計画が中断されました。今日の聖書箇所に出てくる会堂長ヤイロも、そうした計画を中断された一人です。
イエス様がゲラサの地からガリラヤ湖を通って、戻ってこられると、群衆は喜んで迎えました。またそれだけではなく、待っていたのです。その中、ヤイロという人が来て、イエス様の足もとにひれ伏し、自分の家に来てくださるように願いました。それは、十二歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからです。そして、イエス様がそこに向かう途中で、群衆が周りに押し寄せて来ました。一分一秒を争う中、群衆が道を阻むわけです。
そこに、一人の女性まで現れます。彼女は十二年間も出血が止まらない病を患っていました。当時、そのような病気の女性は、ユダヤの律法によって、汚れている病気とされて、言わば日陰者のような生活を強いられました。自分の病気が治らず、絶望の中を生きていたのです。医者に全財産を使い果たしましたが、誰からも治してもらえなかったのです。そういうときに彼女は、イエス様と出会ったのです。彼女はこの方によって、病気を癒やしていただけると思い、群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエス様の服の房に触れたのです。
彼女は必死でした。イエス様の服の房に触れたときに、その出血が止まったのです。癒やされたのです。彼女は、その癒しを自分自身感じながらも、一切秘密にして、このまま去ろうと思っていました。しかし、イエス様は自分の内から力が出ていったのを感じて、「わたしに触れたのはだれか」と言われました(四五節)。周りの人はびっくりしました。皆、「私ではない」と答えます。すると、ペトロが見かねて「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言いました。つまり、これほど密になっているのだから、誰が主イエスに触れたのか分かるはずがない、と言いたかったのです。
では、イエス様はなぜこの人を探すのでしょうか。また、イエス様が「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていますが、イエス様は本当に分からなかったのでしょうか。そうではないと思います。ここでイエス様はある意図があって「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていたのです。それは、彼女を公の場に引き出して、励まし信仰を育てるためです。
四七節に「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」とあります。この女は皆の前で、証をしたのです。なぜ主イエスに触ったのか、その理由とたちまち癒やされた次第を証しました。この十二年間どんな思いで、人生を歩んできたのか。その中、主イエスの服に触れれば治るという必死の思いをもって、イエスの服の房に触ったときに、出血が止まったことを証しました。この証は、彼女の信仰告白となりました。
その信仰の証を表した彼女に、イエス様は言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(四八節)。 このイエス様の言葉は、共同体の生活に復帰するために、必要な宣言でした。こうして十二年間も、出血の止まらない病を患っていた一人の女が、イエス様と出会い救われました。癒やされました。
会堂長ヤイロの恐れ
ところが、この救いの出来事を目撃した会堂長ヤイロは、心の中で「イエス様、一人娘が死にかけているんです。早く切り上げて、私の家に向かっていきませんか」と叫んでいたと思います。そして、何が起きるのでしょうか。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」(四九節)。ヤイロは家から来た人から、お嬢さんは亡くなったという知らせを聞くのです。これを聞いたときのヤイロの反応は、聖書に書いてありません。むしろ、イエス様が傍らで驚いているヤイロに、直ちに語りかけるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
恐れというのは、心配することです。今ヤイロは、イエス様なら助けてくれるかも知れない、癒やしてくれるかもしれない、その望みをかけて出かけてきたのです。それなのに、途中で十二年間も出血が止まらない女が現れ、彼女から「イエス様」と呼び止めたわけでもないのに、誰かがわたしに触れたとイエス様の方から、探し出すわけです。ヤイロにとっては、この割り込み、中断さえなければ、助かったかもしれない、そう思ったのかもしれません。
私たちの人生の中でも、このように中断せざるを得ない出来事、想定外の出来事が起こります。まさに三年間続いたコロナ禍がそういうことです。そのコロナ禍によって、私たちは活動を制限され、立てた計画を中止、変更され続けてきました。そのときに、「なぜですか」と問うのが私たちであります。しかし、想定外のことで計画などが中断されるときに、神様は私たちの目をご自身に向けさせるのです。そして、言われるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」
今ヤイロは、イエス様から「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉、また彼の家から来た人から「娘は死んだ。もうイエス様には来てもらう必要はない」という言葉、この二つの言葉を同時に聞いています。このとき皆さんがヤイロなら、どちらを選ぶでしょうか。目の前の現実に苦しみ、悩み、恐れても、イエス様の言葉を選んでいくのが信仰です。この後、イエス様はヤイロの家に向かっていきます。つまり、ヤイロはイエス様の言葉を選んだのです。そして、そこで娘が命を吹き返すことを体験することができました。
三年間のコロナ禍を通ってきた佐倉教会は、二回の教会員懇談会を経て、今年から新しく選出された役員と共に、新しい歩みを始めようとしています。高齢化の中、誰がご奉仕できるのか、という不安の声もありますが、こういうときこそ、何を信じ、どんな言葉に耳を傾けるのかが問われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(四八節)。これからの歩みの中、想定外の出来事が起こるかもしれません。でも先のことを神に、主イエスに委ねていこうではありませんか。そして、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけてくださる主イエスの言葉に耳を傾けつつ、またその言葉に励まされて、共に歩んでいきたいと思います。