2023年3月5日「どう聞くべきか」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章16-21節

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(16節)。ここで「ともし火」とは、私たちが受け取った神の言葉だということができます。私たちは主イエスが蒔いた神様の言葉を受け取りました。ですから、「ともし火を灯したら、それをいつまでも覆い隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置く」ように、私たちが受け取った神の言葉を隠したり、見えなくしたりするのではなく、他の人に見えるようにすることがここで問われているのです。

 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(18節)。ここで言われているのは、神の言葉を持っている人は更に与えられ、神の言葉を持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられるということです。私たちは、神の言葉を持っている者として、神の言葉を新たに聞き続け、他の人に宣べ伝えることが出来ますよう、祈り願います。

2023年2月26日「まかれた種」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章4-15節

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(5節)。この種蒔きは種を手で一杯つかんで、蒔き散らします。種は様々なところに落ちます。道端に蒔かれた種は「御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちのこと」です。石地に落ちた種は「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのこと」です。茨の中に落ちた種は「御言葉を聞くけれども、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちのこと」です。良い地に落ちた種は「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちのこと」です。このたとえの中心は、種を蒔く人の姿にあります。自分は道端なのか、石地なのか、茨なのか、そこに目を向いて嘆くよりも、私たちに種を蒔き続けてくださる主イエスの変わらぬ愛により目を向けたいと願います。

2023年2月5日「変えられた人々」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章1-3節

「すぐその後、イエスが神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(1節)。ここで「すぐその後」というのは、先週、ファリサイ派のシモンという人の家で、イエス様が罪深い女を赦した、その出来事のすぐあとに、ということです。

イエス様は神の国の福音を宣べ伝えながら、町や村を巡られました。それに十二弟子も一緒でした。そして、その一行を陰で支えていた人たちが出て来ます。

 イエス様の一行には女性たちがいました。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」「スサンナ」です。スサンナについては、聖書に何も書いてないので、よく分かりません。

 マグダラのマリアは「七つの悪霊」に取りつかれていました。神に敵対する力である悪霊が七つもついていたマリアは社会の中で軽蔑され、見捨てられた人なのです。その彼女が神の国の福音を聞いて、信じ、今度は神の国の福音を宣べ伝えるイエス様の一行を支える者となったのです。

 もう一人は「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。当時、ガリラヤの領主ヘロデの家令であったクザの妻なので、地位もあり、人々にも一目置かれる立場であったと思います。

このように、イエス様に従っていた女性たちは階級の差も超えていました。共通点は主イエスを信じて、救われた人たちです。その救いの喜びと感謝のゆえに、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」のです。

2023年1月29日「罪深い女を赦す」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章36-50節

主イエスはある日、一緒に食事をしてほしいというファリサイ派の人の願いを受け入れて、その人の家に入られました。そこに一人の女性が入って来たのです。彼女はその町で「罪深い女」として、知れ渡っていました。おそらく娼婦だろうと言われています。「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38) 。彼女はイエス様を前にして、あまりの感動に涙がこもったのでしょうか。ただイエス様のお姿を見るだけで、涙が自然に溢れてきたのです。

その涙がイエス様の足に落ち、彼女は急いで自分の髪の毛でそれを拭き、その足に口づけをし、持参した香油をイエス様の足に塗りました。イエス様は、この女の行為を止めることはされませんでした。それは、どうしてこのようなことをするのか、彼女の心をよく分かったからです。彼女は自分の多くの罪をイエス様によって赦されることを信じ、感謝と喜びに溢れたのです。

2023年1月22日「洗礼者ヨハネとイエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章18-35節

ガリラヤの領主ヘロデの結婚に対して、洗礼者ヨハネは恐れず批判したために、捕えられ、牢に閉じ込められてしまいました。ヨハネが牢獄にいる間、公の生涯を始められた主イエスは、悪魔の試みに打ち勝ち、汚れた霊に取りつかれた男をいやし、漁師のシモン達を弟子として招きました。そしてそれまで誰も聞いたことのない新しい、権威ある教えを説かれたのです。そして今日の箇所の直前には、百人隊長の僕を癒したり、やもめの息子を生き返らせたりする軌跡を起こされています。こうした主イエスの様々な活動を、牢獄に捕らわれていたヨハネは見ることができませんでした。そしてヨハネは、弟子たちの中から二人を呼んで、主イエスのもとに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせました(19節)。彼が牢獄に閉じ込められる前に語って来たことは、神の裁きの宣言でした。そして、ヨハネは来るべき方、ナザレのイエスが、いつ聖なる裁きを為してくださるのか、期待していました。けれどもいつまで経ってもそのような動きが見られないので、「来るべき方は、あなたでしょうか」と聞いたわけです。

このヨハネの問いに対して、主イエスはイザヤの預言の言葉を引用して、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と言いました。つまり、主イエスは今この預言が成就していることを、ヨハネに伝えなさい、今起きていることこそ、メシアのしるしであると言ったのです。

2023年1月15日「イエスの洗礼」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書3章15-38節

洗礼者ヨハネは民衆から、この人がメシア、救い主ではないかと、心の中で思われていたのです。ところが、ヨハネは「わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言って(16節)、この後、救い主が来られることを告げています。さらに、領主ヘロデが、自分の悪事をヨハネから非難されることで、「ヨハネを牢に閉じ込めた」とあります(18節)。これは、ヨハネの役割は主イエスをお迎えするための、主の道を整えること、それまでのことを示しています。この後、イエス様は洗礼を受けられました。

イエス様が洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来ました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」とあります。これは、洗礼を受けて、人と同じようにして生きたいとされた主イエスに対する、父なる神の祝福の宣言であったのです。

2023年1月8日「主の道を整えるもの」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書3章1-14節

ヨハネは荒れ野で神の言葉を聞き、それからヨルダン川に行って、洗礼を通して人々に罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは、神の方に向きを直す。そして、神のもとに帰ることです。ヨハネは神へと向きを直した人々に、救いのしるしとして洗礼を授けていました。

また、彼が何よりも強く批判したのは、イスラエルの民の安易な選民思想でした。当時のユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた特別な民、アブラハムの子孫だから、神の怒りを受けるのは自分たちではなく、異邦人の者たちだと考えていたのです。しかし、神の前にはすべての者が救いを必要としています。ユダヤ人もまた、主に立ち帰って救いを受ける必要があります。5節、6節に「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」と書いてある通りです。

2023年1月1日「少年イエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章39-52節

イエス様の両親ヨセフとマリアは、毎年過越祭にはエルサレムへ旅をしました。イエス様が12歳になった時も、慣習に従って、都へ上りました。祭りが終わり、帰路に着いた時、少年イエスが、両親とはぐれてしまいました。一日分の道のりを行ってから、イエスがいないことに気付かされました。そして、知人や親類の間を捜し回ったが、見当たらなかったのです。三日後にようやく神殿の境内で、イエスを見つけました。

母マリアがイエスを呼びかけます。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」その時、イエス様の言葉が不思議な言葉でした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」両親はイエス様の言葉の意味が分かりませんでした。ところが、マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」とあります(51節)。私たちもすぐには受け入れられない御言葉があるかもしれません。それでも、まず心に納めていることが信仰への第一歩です。

2022年12月25日「万民のための救い」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章21-38節

シメオンは、信仰があつく、神様の前に正しく生きてきた人でした。また、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたのです。慰められることは、救われることを意味しています。シメオンは、自分だけが救われることを願うのではなく、神の民イスラエル全体が救われ、慰められることを願い、救い主が到来するのを待ち望んでいました。そして、「主が遣わすメシアに会うまでは、決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」のです(26節)。その日、シメオンは、霊に導かれて神殿の境内に入っていきました。すると、ちょうどその時に、幼子イエスを抱いたヨセフとマリアがやって来たのです。「あの幼子が、イスラエルの民全体のために、神がお遣わしになった救い主、メシアである」。

シメオンは、その幼子の姿を見て、なぜか畏れと清らかな思いに満たされました。そして、幼子を腕に抱き、神をたたえたのです。シメオンは自分が、70年、80年、もっとかもしれませんが、この日のために生きてきたことを確信するようになったのです。この幼子から、シメオンだけではなく、すべての人を照らし、慰める光が満ちてくるのです。

2022年12月18日「救い主と天使」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章8-20節

周囲は真っ暗です。突然、天使が現れて、主の栄光が周りを照らしました。その時、恐れている羊飼いたちに、主の天使が「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と告げました。羊飼いたちは、天使の突然の知らせを聞いて、「どうして、私たちにこんな大切なことが知らされたのか」と思ったのかも知れません。

しかし、天使たちが離れて、天に去ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。そして急いで、ベツレヘムに向かいました。ベツレヘムの町中を探し回して、飼い葉桶に寝ておられるイエス様を見つけることができました。救い主に出会うことができたのです。私たちも、彼らがしたように、日々イエス様を探し求めることが必要です。特に、礼拝を捧げることを通して、新たに主に出会い、自分の生活を変えて行くことができます。