○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一3章4ー10節
2025年3月9日「御子に似る者となる」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章28ー3章3節
3章2節に「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」とあります。聖書は、復活なさって、天に上げられたイエスが、やがてもう一度、この世に来られると約束しています。それが「御子が現れるとき」のことです。その日、その時、この地上の生涯を終えて眠っているクリスチャンは、神様によって起こされるのです。そして、御子をありのままに見て、御子に似た者になるのです。私たちの信仰生活の歩みは、この希望に向かっての歩みなのです。
2025年3月2日「御子の内にとどまりなさい」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章18ー27節
「子供たちよ、終わりの時が来ています。」ヨハネはこの手紙を受け取る教会の人たちに向けて、「子供たちよ」と親しみをこめて語りかけています。また、「終わりの時」と聞くと、「世の終わり」のことを思うのかも知れませんが、聖書は、御子イエスが人となって、この世に生まれたクリスマスの時から、すでに終わりの時が始まっていると教えています。
「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」ここに「反キリスト」という言葉が出て来ます。これは、キリストに反するものという意味があります。22節に「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」とあるように、イエスはキリストではない、神ではないと主張する人たちのことを、「反キリスト」と言っています。特に当時、教会に悪い影響を与えていたグノーシスと呼ばれる、神が人となられたことを否定する人たちのことです。「終わりの時」にはそうした「反キリスト」が現れるというのです。
「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。」(24節)「初めから聞いていた」それは、イエス様のご生涯のことです。それを心にとどめなさい。イエス様がこの世に来てくださって、私のために十字架で死に、復活なさった、それが私の内にいつもあるならば、もうあなたがたの永遠の命は始まっていると、ヨハネはいうのです。
2025年2月23日「新しい掟」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章7ー17節
ヨハネは「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟」だというのです。ここで古い掟は、モーセを通して与えられた律法のことを指しています。イエス様はこの律法を心を尽くして神を愛すること、隣人を自分のように愛すること、この二つに要約されると教えられました。そしてこの古い掟は、弟子たちはすでに聞いて、教えられて来ました。
ヨハネはその古い掟を、8節の前半を見ると、新しい掟として書いていると言っています。「「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」(9-11節)ここで「兄弟を憎むこと」と「愛すること」について、光の中にあることと関連して語っています。これは後に出て来る「互いに愛し合うこと」を言っています。3章11節に「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」とあります。また、3章23節には、「その掟とは、神の子イエス・キリストを信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛することです」とあります。
イエスはこのことをはっきりと弟子たちに教えられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)イエスが十字架に付けられる前の晩に、弟子たちと一緒に食事をし、彼らの足を洗った時に言われた言葉です。その言葉を直接聞いたヨハネは、今日のところで、もう一度「互いに愛し合う」というイエスの言葉を新しい掟として語っています。
2025年2月16日「弁護者キリスト」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章1ー6節
「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」(1節)ヨハネはこの手紙を書きながら、どうかこの手紙を読む人たちが罪を犯さないようになってもらいたい、という願いを持って書いています。続いて、1節後半にこう書いてあります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」どうしても罪を犯してしまう私たちのために、イエス・キリストという弁護者がおられると言っています。
では、そのイエス・キリストはどこにおられるのでしょうか。私たちの隣におられます。そして同時に、天に昇り、御父の隣にいてくださるのです。この天におられるイエス・キリストが弁護者としておられるんだと言っています。イエス様は今、神様と私たちの間に立って、どうしても罪を犯してしまう弱い私たちのために、父なる神様に弁護してくださるのです。本当に心強いことだと思います。
2025年2月9日「光の中を歩む」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一1章5ー10節
「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」(6節)また、8節で「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」とあります。さらに10節で「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることである」と言っています。これは、私たちの罪の現実の姿でもあります。
しかし、神様はこの罪の現実の中にいる私たち人間を放ってはおらず、その闇から救い出して、光の中に招いてくださいました。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(7節)どんなに汚れた罪であっても、イエスの血によって清められます。そのことを信じて、心から受け入れる人は、その罪が赦されて、神との交わりに、御子イエス・キリストとの交わりに入れられます。新しい歩みをされるようになります。
2025年2月2日「初めからあったもの」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一1章1ー4節
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」(1節) ここで「初めからあったもの」とは、イエス・キリストのことを指しています。ヨハネは確かに、イエスの愛弟子として、三年間一緒に生活をし、聞いて、見て、触れて、イエス様がどういうお方なのか、体験を通してよく分かっていました。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(2節) ヨハネは、命そのものであるキリストが人として現れたと繰り返して言っています。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(3-4節) ヨハネは、一人でも多くの人たちが永遠の命そのものであり、その命を与えるイエス・キリストを知って、イエス・キリストとの交わりに入ってほしい、その喜びの生活を送れるように、心から願って、この手紙を書き記しました。
2025年1月26日「主の恵みに生きる」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章15ー23節
パウロはフィリピ教会の人たちからの贈り物を感謝して受け取りました。しかし、「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と言っています。つまり、フィリピの信徒たちが贈り物をささげる業を通して、神に喜ばれる信仰の実がますます豊かなになるように、パウロは願っていました。
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(19節)「神の栄光の富」とは、私たちの地上の富をはるかに超えた本当の豊かさです。神様はその豊かさの中から、恵みとして私たちの必要を満たしてくださるのです。パウロは、神様の恵みの豊かさを知っていました。その豊かさの中で、自分が養われていることを知っていたのです。ですから、自分を養ってくださっている神様が、フィリピの信徒たちをも支えてくださると、確信していたのです。
2025年1月19日「わたしを強めてくださる方」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章10ー14節
フィリピの信徒たちは、今ローマの牢獄にあるパウロのことを心配して、彼に贈り物を送ることを考えました。そして、エパプロディトという人を遣わして、皆から集めたものをパウロのもとに届けたのです。パウロはその贈り物を受けた時に、非常に喜びました。ところが、11節で「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と言っています。パウロは今あなたがたから贈り物をいただいて、必要が満たされているけれども、実はどんな境遇にあっても、私は満足する、満ち足りていることを習い覚えたと言うのです。
12節でパウロは具体的に説明しています。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」そして、パウロはどうして満足することができたのか、その秘訣について13節で、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言っています。わたしを強めてくださる方とは、キリスト・イエスのことです。19節に「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」とあるように、私たちにとって、本当に必要なものはキリスト・イエスが与えてくださるのです。このお方が私を強めてくださるのです。
2025年1月12日「喜び、祈り、神の平和」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章1ー9節
パウロはフィリピの信徒たちに「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と呼び掛けています。また、パウロがそんな彼らに「このように主によってしっかりと立ちなさい」と勧めています。信仰にしっかり立って、どんなことがあっても、動揺をしないように、ということです。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節) ここでの「あなたがた」とは、フィリピの信徒たちを指しています。パウロは、世のすべての人ではなく、主イエスを信じる信徒たちに対して、広い心を求めているのです。なぜなら、この広い心(寛容)は、キリスト者たちが聖霊によっていただく九つの賜物の一つであるからです(ガラ5:23-24)。しかし、実際には広い心を示すのがなかなか難しいことだと思います。自分のことを理解してくれる人たちに対しては、広い心を示すのかもしれません。しかし、パウロは「すべての人に」と言っています。どんな人に対しても、自分に反対する人に対しても、です。では、どうすればすべての人に広い心を示すことができるのでしょうか。パウロが「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」と勧める前に、先に「主において常に喜びなさい」と言いました(4節)。つまり、広い心は自分の力でできるものではなく、心の中に真の喜びがあるときにできることだと思います。「主において」とは「主の中に」ということです。主の中にいる時に、人は本当の喜びに満たされます。そして、その主が与えてくださる喜びがあるとき、すべての人に広い心を示すことができるのです。