2024年6月9日「起きて祈っていなさい」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章39-53節

「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」弟子たちは、これからやってくる出来事、イエス様の逮捕や苦しみ、あるいは自分たちにかかって来る困難を前にして、悲しみの果てに、眠り込んでいたのです。しかし、イエス様はご自分の十字架を前にして、ひざまずいて祈っておられたのです。誘惑に勝つためには、神様に祈るしかないのです。

「起きて祈っていなさい。」悲しみの中で、苦しみの中で、眠り込んでしまう弱い私たちを、主イエスが呼び起こしてくださるのです。この世界は、十字架の主イエスが、救い出してくださった世界です。だから、苦しみ、悲しみの中に逃げ込んでいてはいけないのです。私たちが為すべきことは、この神様の救いの中で、目を覚まして、祈ることです。

2024年6月2日「祈ってくださるイエス」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章31-38節

イエス様は、シモンペトロや、弟子たちに向かって、間もなくサタンのふるいにかけられ、信仰が試されることを予告なさいます。すると、シモンペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」つまり、最後までイエス様に従いますと覚悟したのです。でもイエス様は、ペトロの信仰が簡単に吹き飛んで、無くなってしまうことを見抜いておられました。ですから、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と予告なさったのです。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様はペトロが立ち直ることを信じて、祈ってくださったのです。その執り成しの祈りによって、ペトロは後に立ち直って、兄弟たちを励ますことになります。同じように、私たちがどんな試練に会っても、主イエスは私たちが立ち直ることを信じて、祈ってくださるのです。

 

2024年5月26日「仕える者のように」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章24-30節

「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」このイエス様の言葉を聞いた弟子たちは、自分たちのうち、一体だれがそんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めました。そして、この議論はいつの間にか「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」という議論に変わっていきました。

イエス様は弟子たちに対して「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」とおっしゃいました。それでは、なぜ、上に立つ人は仕える人のようにならなければいけないのでしょうか。それは、イエス様ご自身が弟子たちの中で、仕える人として歩んでくださったからです。

「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」これは自分の決意や覚悟によって、実現できることではないのです。本当に仕える人のようになるためには、まず、イエス様が私のすべての罪を背負って、私の代わりに死んでくださったことを心から受け入れた時に、私たちは仕える人となっていくのです。

2024年5月19日「過越の食事と主の晩餐」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章1-23節

イエス様は過越の食事の席に着いて、言われました。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」イエス様は食卓を囲んでいる弟子たちに、ご自分が苦しみを受ける前に、共に過越の食事をしたいと切に願っていたのです。それは、神の国の完成が、御自分の十字架の死によって差し迫っていることを弟子たちに伝えたかったからです。

そして、その十字架による救いの恵みに、弟子たちを預からせるために、イエス様はパンと杯を取り、それに新しい意味を持たせて分け与えてくださいました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」杯も同じようにして言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(19-20)

最初の教会において、この最後の晩餐が、聖餐式として守られていました。私たちもこの聖餐式の時に、パンと杯に与り、信仰の決意を新たにしていきたいと思います。

2024年5月12日「目を覚ましていなさい」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書21章29-38節

21章5節から、世の終わりに起こる苦しみや迫害のことが記されています。そして、そうした出来事に直面すれば、人は恐れや不安に取りつかれてしまいます。そうような私たちに、主イエスは葉が茂ってきたら、夏が近いのを知るのと同じように、苦しみや迫害のことが起こるのを見たら、それは神の国が近づいている。つまり、私たちの救いの完成が近づいているというのです。

続いて32節、33節に「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とあります。すべてが過ぎ去っても、滅びても、わたしの言葉、神の言葉は決して滅びないというのです。普通なら、天地は変わらないと思うのですが、イエス様はその天地すら滅びるとおっしゃいます。そして、決して滅びない、神の言葉のみに信頼して、歩みなさいというのです。

36節で、イエス様は滅びる者にならないように、もう一度この世に来られる主イエスの御前に立つ者として、祈りながら目を覚ましていなさいと教えています。

2024年5月5日「身を起こして頭を上げなさい」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書21章5-28節

「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していた。」エルサレム神殿の巡礼に来た人たちは、神殿の壮大さや美しさを見て話していたのです。それを聞いたイエス様は「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と仰いました。すると、人たちは「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と問いました。

その問いに対して、イエス様は直接に答えずに、戦争や地震、飢饉や疫病などの苦しみが世の終わりに向かう歩みの中で必ず起こる。また、信仰のゆえに、迫害され、裏切られ、殺される、憎まれるという迫害について語っておられたのです。しかし、イエス様はそうした出来事の中でも、信仰者の歩みは終わることではなく、進んでいくのだと言われます。それが、27節、28節です。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

2024年4月28日「やもめの献金」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書20章41-21章4節

イエス様はある貧しいやもめが賽銭箱にレプトン銅貨2枚を入れるのを見ておられたのです。レプトン銅貨一枚というのは、一日賃金に当たる一デナリオンの128分の1、今のお金で換算してみると、50円玉1枚ほどの価値です。やもめが50円玉二枚を入れたのを見て、イエス様は「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と言われました。

ここで「生活費、bios」と訳された言葉は、原語では「命、人生」という意味です。英語で言えば「Life」です。つまり、ここでイエス様は、やもめの献金額だけを見ておられたのではなく、彼女の命、人生、生活全体を見ておられたのです。ですから、このやもめが生活費を全部入れたというのは、自分の命、人生そのものを神にお捧げしたということです。レプトン一枚は明日の生活のために、そして残りの一枚は神様のために、そのほうが責任ある行動ではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、本当に大切なことは、今日も、明日も、神様に委ねることです。

2024年4月21日「神のものは神に」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書20章20-40節

「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」 機会を狙っていた彼らとは、祭司長や律法学者たちなどユダヤ社会の指導者たちのことです。彼らはぶどう園のたとえによって、ぶどう園の主人から託されたものを自分のものにする。その罪を鋭く指摘されて、イエスを殺そうとしたのです。

遣わされた回し者が質問します。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この質問は、イエス様を陥れるために、とてもよく考えられた質問です。すると、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。当時の銀貨には、ローマ皇帝の肖像が刻まれていました。その銀貨は皇帝のものです。ですから、皇帝に返す。そして、神の似姿として造られた人間のいのち、生涯は神様のものです。ですから、それを神様に返しなさいと、イエス様が語っておられるのです。

2024年4月14日「まことの権威」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書20章9-19節

「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」そして、収穫の時になったので、ぶどう園の主人はぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところに送ったのです。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返しました。主人は二番目、三人目の僕を送ったのですが、彼らは袋だたきにされたのです。主人は考えます。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」しかし、農夫たちは主人の愛する息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったのです。

イエス様はこのたとえ話をした後に、詩編の言葉を語ってくださいます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」律法学者や祭司長たちは、イエス様を殺そうとしたのです。しかし、神様は十字架の上で命を捨てることになるイエス様を、親石として、用いてくださるのです。そして、その神様は、主イエスにつながる石として、私たちを用いようとしています。今こそ、その時です。