2025年6月29日「闇は光に勝たなかった」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書1章1ー5節

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この冒頭の言葉は、不思議な言葉です。この言は、誰のことを言っているのでしょうか。1章14節を見ると、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。ここにあるように、初めにあった言とは、神の独り子イエスキリストのことです。ですから、1節をこう読み替えることができます。「初めに、イエス・キリストがあった。イエス・キリストは神と共にあった。イエス・キリストは神であった。」

「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(2-3節)ここで「成った」とは、創造されたということです。ですから、これは言であり、初めに神と共にあったイエス・キリストによって、この世のすべてのものは造られたと、この福音書は語っているのです。

天地を創造なさった神は言をもって、私たちに語りかけてくださいます。そして、それが出来事となって、私たちを生き生きと生かしてくださいます。それが4節、5節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」という言葉です。

ここで最後に「暗闇は光を理解しなかった」とあります。これは「闇は光に勝たなかった」とも訳すことができます。実は、このヨハネによる福音書が書かれた時代、イエス様を救い主として信じる者は、ユダヤの会堂から追放されてしまったり、ローマ帝国による大きな迫害を受けている時代でした。そういう時代状況の中で、著者ヨハネは、光の主が今この時も私たちと一緒にいてくださるじゃないか、そういうふうに呼びかけているのです。ですから、ここは「暗闇は光に勝たなかった」と訳した方が良いのではないでしょうか。

2025年6月22日「偶像を避けなさい」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一5章18ー21節

使徒ヨハネがこの手紙を終えるにあたって、信仰者が確信しておくべき三つのことを記しています。まず一つ目は「神から生まれた者はみんな罪を犯さない」ことです。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」(18節)ここで、神から生まれた者とは、イエスがキリストであり、神の御子で

あることを信じる私たちのことです。その私たちは罪を犯さないというのです。これは、私たちが全く罪を犯さないことではなく、罪を犯し続けることはないことです。私たちは、信仰を持つ者として、自分の犯した罪を悲しみ、悔い改め、神の御心に適った歩みをしようと願うので、その罪に支配された生活を続けることはない、ということです。次に、「私たちは神に属する者である」ことです。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(19節) 最後に、「私たちは真実な方を知る力を与えられた」ことです。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(20節)神様は独り子イエス・キリストを遣わされることによって、ご自分を示されました。私たちはそのイエスキリストを通して、父なる神の愛がどんなに大きいものであるかを知っているのです。また、そのイエスキリストの内にいるので、この方こそ、真実の神、永遠の命であることを知っています。

2025年6月15日「神に願う」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一5章13ー17節

ヨハネはこの手紙を書いた目的として「永遠の命を得ていることを、あなたがたに悟らせたいからです」と語っています(13節)。これは、あなたがたは神の御子を信じて、永遠の命を得ていることをしっかりと確信しなさいということを語っているのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。ここで、ヨハネは祈りについて語っています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」これを聞いた時に、神様は本当に私たちの願いを何でも聞いてくださるのだろうか、という疑問が出て来ます。もし、そうだとしたら、嬉しいのかも知れません。でもそうだとしたら、自分の都合の良い様に、神様を動かしてしまうようになるのです。聖書の神様はそういうお方ではありません。聖書の神様は私たちの願いを聞き入れてくださるのですが、そこに条件が付いています。その条件として「神の御心に適うことをわたしたちが願うなら」とあります。私たちは罪人なので、自己中心的に祈ることが多いと思います。だから、私たちの祈りは、神の御心と食い違っていることもしばしばあるのかもしれません。でも、神様は私たちの祈りを聞いてくださるはずです。そして、私たちの願いとは違う形で聞いてくださる、それも答えだと思います。ですから、大事なことは、祈り続けることではないでしょうか。

2025年6月8日「聖霊降臨」

○金 南錫牧師 使徒言行録2章1ー13節

五旬祭の日、弟子たちは同じ場所に集まって祈っていました。その時、聖霊が天から降って来たのです。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2-4節) 不思議なことに、ガリラヤ出身の弟子たちが聖霊に満たされて、そこに集まった人たちが分かる言葉で語りだしたのです。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまったのです(6節)。弟子たちは聖霊に満たされて、上から与えられた舌、異なった言葉で語ったわけですが、私たちが二千年前、イエス様の十字架と復活による救いを今現在、体験できるのは聖霊の働きです。ですから、信仰者にとって、聖霊降臨は最も大切な神様の恵みの出来事です。

2025年6月1日『神の証し」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一5章6ー12節

「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。」(6節) 水とはイエスの洗礼のことであり、血とは十字架で流された血のことを示しています。このように、イエス・キリストは「水と血によって」来られた方です。そして“霊”即ち、聖霊なる神はそのことを証しています。また、「神の御子を信じる者」は、神が御子についてなさった証しを自分のうちにしっかりと持っている、確信しているというのです(10節)。信仰者はイエス・キリストについて聖書に記されていることを聖霊の御声に聞きながら、心に信じ、確信していることです。

2025年5月25日「世に打ち勝つ信仰」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一5章1ー5節

 

「神を愛するとは、神の掟を守ることです。」(3節) これは、神を愛しているのならば、 神の掟を守るようになる、この二つのことは切り離すことができない、というのです。続いて「神の掟は、難しいものではありません」とあります(3節b)。「難しいもの」と訳されている言葉は、「重荷」とも訳せます。つまり、神の掟は重荷ではないと言うのです。そして、神の掟が重荷ではない理由として、「神から生まれた者はみな、世に打ち勝つからです。・・・だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とあります(4-5節)。私たちは神の子である、イエス・キリストを信じる信仰によって、キリストがすでに世に打ち勝ったその勝利にあずかることができます。私たち自身が世に打ち勝つわけではありません。世に打ち勝ったのはキリストであり、神の子であるイエスです。そのイエス・キリストを信じる信仰の中で、私たちは世に打ち勝つ者とされたのです。

2025年5月18日「愛には恐れがない」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一4章17ー21節

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(18節)ここに出て来る「恐れ」とは、裁きの日における恐れです。イエス様は私たちが受けるべき裁きを、十字架の死によって代わりに受けてくださいました。また、神様はそのイエスを死人の中から復活させ、私たちの救い主としてくださいました。私たちはそのイエスキリストの十字架の死と復活を信じるので、裁きの日に確信を持つことができるのです。自分は神様の救いに与るにふさわしい者ではない。でも、御父であられる神様はご自分の独り子を遣わして、十字架の死と復活の出来事を通して、救いを与えてくださったのです。その神様の愛を受け入れる時、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と言うのです。

2025年5月11日「神は愛です」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一4章13ー16節

神は私たちに、ご自分の霊、聖霊を与えてくださいました。この聖霊によって、私たちが神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださることが分かります(13節)。続く14節に「わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています」とあります。私たちは聖霊をいただいて、御父であられる神様が世の救いのために、御子イエス様を遣わされたことを見るのです。15節に「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」と記されています。「イエスが神の子であることを公に言い表す」とは、「御父が御子を世の救い主として遣わされたこと」を告白することです。それは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(10節)と信じ、告白することです。その信仰告白が私たちを神の者としていくのです。

2025年5月4日「ここに愛がある」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一4章7ー12節

「神様から愛されている人たちよ、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」ここで、愛は神から出るもので、その神の愛によって、互いに愛し合いましょう。また、神は愛だから、神を知る者は愛する者となると告げています。では、私たちはどこにおいて、神が愛であることを知るのでしょうか。9節、10節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と書いてある通りです。