2022年5月15日「ご安心ください」

○金 南錫牧師   創世記43章16-34節

父ヤコブの指示に従い、十一人の息子たちは贈り物と二倍の銀を携えて、ベニヤミンを連れて、エジプトへ下って行きました。ヨセフの執事は一同をヨセフの屋敷へ連れて行きました。ところが、兄たちはヨセフの屋敷へ連れて来られたので、自分たちが捕らえられ、ひどい目に遭い、奴隷にされてしまうにちがいないと恐れたのです。それで、彼らはヨセフの執事の前に進み出て、屋敷の入り口のところで話しかけました。「わたしどもは前に一度、食糧を買うためにここへ来たことがございます。ところが、帰りに宿で袋を開けてみると、一人一人の袋の口のところにそれぞれ自分の銀が入っておりました。しかも、銀の重さは元のままでした。それで、それをお返ししなければ、と持って参りました。・・・一体誰がわたしどもの袋に銀を入れたのか分かりません。」(20-22節)

 このように、兄たちはヨセフの執事に自分たちは何も悪いことはしていないと一生懸命言うのです。これに対して、執事は「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう」と答えました(23節)。私たちはいつも多くの恐れと不安に取り囲まれています。その時、神様は「御安心なさい。恐れることはない」と私たちにも語りかけてくださるのです。

 

2022年5月8日「ヤコブの決意」

○金 南錫牧師   創世記42章29-43章15節

43章1節に「この地方の飢饉はひどくなる一方であった」とあります。カナン地方にひどい飢饉が続いて、やがてエジプトから買って来た穀物は食べ尽くされてしまいました。困り果てたヤコブは息子たちを呼んで「もう一度エジプトに行って、食糧を買って来なさい」と頼みます。しかし、ユダは「もし弟を一緒に行かせてくださるなら、我々は下って行って、あなたのために食糧を買って参ります。しかし、一緒に行かせてくださらないのなら、行くわけにはいきません」と答えました。なぜなら、あの人、ヨセフが、「弟が一緒でないかぎり、わたしの顔を見ることが許さぬ」と厳しく言い渡したからです。

それでもヤコブの心はなかなか動きません。しかし、ユダは「あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保障します」と言いました。もし、弟ベニヤミンを連れて帰らなかったら、自分がその責任をすべて負うとまで言うのです。このユダの説得によって、ついにヤコブはベニヤミンを行かせることを決心します。なお、祈りの中で全能の神に、シメオンとベニヤミンを返してくださると願って、すべてを委ねます(14節)。後に二人とも取り戻すことになります。

 

2022年5月1日「ヨセフの試し」

○金 南錫牧師   創世記42章1-28節

 飢饉がカナンの地にまで及びました。ヤコブはベニヤミンだけを残して、十人の息子たちを呼んで、エジプトに穀物を買いに行くように命じます。エジプトに着いた兄たちはヨセフと知らずに、彼の前にひれ伏し拝みます。ヨセフは一目で、自分の兄たちだと気づきましたが、そしらぬふりをして厳しい口調で、「お前たちは、どこか来たのか」と問いかけます(7節)。また、「お前たちは回し者だ」と言って、兄たちが試そうとしているのです。それは、22年前に、自分を穴に投げ入れて、通りかかった商人たちに売り飛ばしたことを、兄たちはどう思っているのか、そのことを知りたかったのです。兄たちは「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった」と互いに心の思いを打ち明けます(21節)。この言葉には、過去の罪を思い返して、ヨセフに悪いことをしたという後悔の思いが示されています。罪を悔いている兄たちの姿を見て、ヨセフは感動して、その場を離れて、一人で泣いたのです(22節)。

「わたしではありません。神が」

○金 南錫牧師   創世記41章14-57節

 ヨセフは、ファラオの夢を解き明かしました。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。七頭のよく育った雌牛、七つのよく実った穂は、七年間の大豊作を表しています。そして、その後にやってきたやせた七頭の雌牛、また痩せて干からびた穂は、七年間の飢饉を意味します。また、この飢饉は先の豊作など忘れさせてしまうほど、激しいものです。また、夢が二度繰り返されたのは、神がこれを速やかになさるからです」という解き明かしでした(25-32節)。

ただ、ヨセフは一貫して神中心の立場を貫きます。ファラオから「お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と問われた時に、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えるのです(16節)。また、雌牛の夢を解き明かした時には「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです」と言いました(25節)。さらに、穂の夢についても28節で、「神が…」と同じ言葉を繰り返すのです。ヨセフは、神に対する信仰を失いませんでした。困難の中にありながら、神をより信頼し、「わたしではありません。神が」という信仰を持ち続けていたのです。

2022年4月17日「御言葉から始まる復活信仰」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書24章1-12節

婦人たちは、日曜日の明け方早く、準備していた香料を持ってイエス様の墓に急ぎました。ところが、墓に着いて見ると、石が墓のわきに転がしてあって、中にイエスの遺体は見当たりませんでした。彼女たちは途方に暮れていました。するとそこに輝く衣を着た二人の人、おそらく天使たちが現われて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と告げられ、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とあります。彼女たちは天使たちの言葉によって、本当の意味でイエス様が御自分の死と復活を予告しておられたことを思い出したのです。また、その一部始終を11人の弟子たちや他の人皆に知らせたのです。今日の聖書箇所には、まだイエス様の復活の姿は現れません。代わりに、天使たちの「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」というイエス様の復活の言葉だけが語られています。私たちも、復活のイエス様の姿を見ていません。しかし私たちの前には、聖書の御言葉があります。私たちにとって、復活信仰はその御言葉から始まります。

 

2022年4月10日「監獄の中のヨセフ」

○金 南錫牧師   創世記40章1-41章13節

 今日の箇所には、牢獄の中で、ひたすら忍耐の日々を送るヨセフの姿が記されています。ヨセフは給仕役の長の夢を解き明かしたのち、彼に「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください」と切実に願いました(14節)。しかし、ヨセフの解き明かしの通り、給仕役の長はもとの職務に復帰しましたが、彼はヨセフのことをすっかり忘れてしまうのです。つまり、ヨセフはさらに二年間、牢獄の中に置かれたのです。それが41章1節の「二年の後」という言葉で分かります。

 この間、ヨセフはどういう日々を送ったのでしょうか。牢獄の中で2年という長い期間を過ごしながら、ヨセフであったとしても、厳しい状況であったと思います。しかし、この時、ヨセフは主が共にいてくださるという信仰を失いませんでした。創世記41章16節に、ヨセフがファラオの夢を解き明かした時、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」とあります。ヨセフはファラオの前で、直ちに神に対する信仰を告白したのです。ヨセフは牢獄の中にいても、決して自分を見捨てないで、共にいてくださる神に信頼して、忍耐をもって、生き続けようと努力したのです。

2022年4月3日「主がヨセフと共に」

○金 南錫牧師   創世記39章1-23節

 エジプトに奴隷として売られてしまったヨセフに「主がヨセフと共におられた」とは何という慰めでしょうか。主が彼と共におられたということは、ヨセフもまた神様に信頼し、祈り続けていたことを意味しています。主人ポティファルは、ヨセフがいることで、いろんなことがうまく回っていることに気がついたようです。そして、それはヨセフが信じる神様のおかげだ、ということが分かります。ヨセフは主人から信頼を得て、財産の管理から、すべてのことを任せられるようになりました。ただ、人はすべてがうまく行っている時に誘惑がやってきます。顔も美しく、体つきも優れていたヨセフに、主人の妻は「毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった」というのです(10節)。

 このことでヨセフは濡れ衣を着せられ、監獄に入れられました。しかし、ヨセフは牢の中でも、自分の置かれた立場を受け入れて、そこで自分にできることを精一杯やっていくのです。やがて監守長は、ヨセフに囚人たちの世話を任されるようになりました。このようにヨセフは、ポティファルの家でも、監獄に入れられた後も、置かれたところで最善を尽くしたのです。どうしてそれができたのでしょうか。ともにおられる神様を見つめていたからです。私たちも今置かれているところで、神様を見つめながら精一杯生きて行こうではありませんか。

2022年3月20日「ユダとタマル」

○金 南錫牧師   創世記38章1-30節

 ユダは兄弟たちと離れて、移り住んだところで、ある女性と結婚して、エル、オナン、シェラの3人の息子たちをもうけました。ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えましたが、エルは主の意に反したので、死んでしまいます。当時の社会では兄弟が亡くなった場合、その弟が兄嫁を自分の妻として迎えて、兄の子孫を残すことが、習慣としてなされていました(申25:5、6)。それでユダは、次男のオナンに、兄嫁のタマルを妻として与えますが、オナンもまた、死んでしまい、残された三男のシェラがタマルを妻にめとることになります。しかし、ユダはタマルをシェラの妻として迎えて、舅としての責任を果たすべきでしたが、その責任を果たさないで、タマルを実家に帰してしまいます。

 タマルはシェラが成人したのに、自分がその妻にしてもらえないと分かったから(14節)、亡き夫の子を残すことを舅ユダによって実現しようと考えるのです。そして、ユダの子を身ごもります。ユダはタマルによってベレツをもうけました。そのベレツによって、ダビデ王と、後に救い主イエス・キリストが生まれてくるのです。ですから、今日のユダとタマルの出来事は、私たちの救いと関わる出来事です。

2022年3月13日「エジプトに売られるヨセフ」

○金 南錫牧師   創世記37章12-36節

 兄たちが羊の群れを飼うために、出かけていたときに、父ヤコブはヨセフに兄たちの様子を見てくるようにと、命じます。ヤコブはシケムに着いて、兄たちと羊の群れを探しましたが、見当たらないのです。ヨセフが野原をさまよっていると、一人の人に出会って、その人の方から「何を探しているのかね」と話しかけてくれるのです(15節)。また、ヨセフが兄弟たちによって「さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう」と殺されかけたときに、長男のルベンは「命まで取るのはよそう。代わりに荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」と言って、兄弟たちを説得しました(21、22節)。また、四男のユダが「弟を殺して、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか」と提案され(26、27節)。兄弟たちはこれを聞き入れました。こうして、ヨセフの命は救われました。

 ヨセフは確かに兄たちから殺されかけましたが、ルベンとユダの提案によって兄たちに殺されませんでした。また、エジプトへ奴隷として売られてしまいましたが、そこで生き延びていきました。そこに神様のご計画、摂理があります。