2023年12月10日「金持ちとラザロ」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章19-31節

ある金持ちがいました。彼はいつも紫の衣や柔らかい麻布を着ていて、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの門前には、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていました。やがて、二人は死んでしまいます。しかし、金持ちは死んだ後、降府でさいなまれながらもだえ苦しんでいたのです。一方、ラザロは死んだ後に、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそば、つまり神の許へと連れて行かれたのです。

このように二人の死後の在り方を分けたものは一体何だったのでしょうか。金持ちは、ラザロを自分の家の門前に置いてあけたのですが、それは人に自分の正しさを見せびらかすためでした。本当の意味で悔い改めて、神に立ち返ることができなかったのです。ところが、ラザロは自分の力に頼ることができませんでした。自分は神の恵みによって生かされていることに気付かされていたのです。悔い改めて、心の向きを神に向けて行く人を、神は助けてくださるのです。

2023年12月3日「律法と神の国」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章14-18節

ファリサイ派の人たちは、自分たちは正しいと思っていました。だから、イエスが不正な管理人をほめるなんて、一体何を考えているのだ、そういうふうに思って、イエスをあざ笑ったのです。しかし、イエス様はこう言われました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」

ファリサイ派の人たちは、イエスのように不正なことをほめるなんてしない。自分たちは神の前に正しく生きている。とても自身満々でした。ところが、そうした自信が大きくなると、人は正しくないと思われる人のことを批判するようになるのです。しかし、人は誰も、神の前に自分は正しいと言えるほどの人間ではないのです。聖書には、正しい人は一人もいない、と教えています(ロマ3:10)。「神はあなたたちの心をご存じである。」この御言葉によって、私たちが自らの心を振り返っていく時に、自分はいかに自己中心になってしまっていたのか。神の前に、罪人であるということに、深く気づかされていくのです。

2023年11月26日「ごく小さな事に忠実な人」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章1-13節

ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人について、主人の財産を無駄使いしている、という告げ口がありました。そこで、主人は彼に「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言いました。そこで、彼は考えます。そして、思いついたことは「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」ということでした。

管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、油百バトスと言った人は五十バトス、小麦百コロスと言った人は八十コロスにしてあげたのです。こうして、彼は人たちに恩を売っておけば、将来自分の世話をしてくれるだろうと考えたのです。ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります(8節)。主人とはイエス様のことです。そのイエス様は続いて「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言うのです。ここでイエス様が言われたのは、不正にまみれた富、即ちこの世の富を使って、他の人が永遠の住まい、天国に入ることができるように、伝道のために用いなさいということです。

2023年11月19日「失われた息子」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書15章25-32節

弟息子は失われた息子でした。財産を相続して遠い国に行って、そこで放蕩の限りを尽くして、全財産を使い果たしてしまったのです。ところが、兄息子はどこにも出かけてないのです。ずっと父親の家で真面目に働いて来ました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」(27-28節)

この兄息子が言っていることは分からないわけではありません。正しいことを言っていると思います。私たちは放蕩を尽くした弟息子よりも、兄息子のほうに似ているかも知れません。正しい自分は真面目に父親に仕えて来たあの家出した弟息子とは違うということを言いたいのです。この兄息子に、父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言うのです。父親のすぐ近くにいるのに、その父の愛が分かりませんでした。この意味で、兄息子は父から遠く離れた失われた息子でした。

2023年11月12日「大きな喜びが天にある」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書15章1-10節

イエス様がたとえを話されました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(7節)

一人の人が悔い改めて、教会に行こうと思い始めた時に、大きな喜びが天にあると、イエス様は仰っています。

すぐにもとの生活に戻ってしまう罪深い私たちが、主イエスの招きに応えて、何度でも主イエスに方向転換して生きたいものです。 私たちは、主イエスが命をかけて、迷子だった私たちを見つけ出してくださったこと。そして、イエス様が大きな喜びをもって、肩に担いで、帰って来られたことを、礼拝の度に思い出し、共に喜びたいと思います。

2023年10月22日「礼拝の本質」

○金 南錫牧師 レビ記1章1-4節

1節から4節まで最も多く出てくる言葉があります。それは「ささげる、献げ物」という言葉です。「あなたたちのうちの誰かが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる」(2-3節)。ここで、4回も「献げ物、ささげる」という言葉が出て来ます。ここで気づくのは、礼拝は受けることではなく、献げるということなのです。

3節を見ると、「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる」とあります。「無傷」ということは、体に何の異常もない完全なものを指しています。ところが、無傷のものを探すのは、易しいことではありません。ですから、献げ物を献げる人は時に苦労しなければなりません。傷のないものを見つけるためには、努力しなければなりません。目に触れるどんな牛でも引いて行けばよい、ということではなく、献げ物を慎重に選んで、心をこめて献げなげればならないのです。つまり、礼拝者の精一杯の献身が求められていたのです。

2023年10月1日「自分の道を進む」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章31-35節

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」イエス様はヘロデのことを「あの狐」と呼びました。そのヘロデに、イエス様は「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と仰っています。聖書協会訳では「行って、あの狐に『私は今日も明日も三日目も、悪来を追い出し、癒やしを行うことをやめない』伝えよ」と訳されています。

「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」イエス様は預言者として死ぬために、エルサレムに向かっています。それは、すべての人を救うためです。そして、救いを完成しようとしています。その救いの業を、「わたしはやめない。進まねばならない」そう語っています。それは、十字架の道こそが、私たちにとって、救いの道であるからです。

2023年9月24日「狭い門から入れ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章22-30節

イエス様は町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられました。すると、群衆の中にいた一人の人が声をあげて質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」この問いに対して、イエス様は言われます。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24) 。

「狭い戸口から入るように努めなさい。」この「努める」という言葉は「戦う」とも訳される言葉です。使徒パウロがテモテに対して「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と命じていますが(Ⅰテモ6:12)、ここで「戦い抜き」と訳されている言葉は「努める」と訳されている言葉と同じです。ですから、イエス様は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」その問いに対して「狭い戸口から入るように、戦い抜きなさい」そう仰っているのです。入ろうと努めなければ、戦わなければ入ることができない。そこに神の国の戸口に入る狭さがあります。

2023年9月17日「成長する神の国」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章10-21節

安息日に、十八年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった女が、礼拝をささげるために、やって来ました。イエス様はこの女を見て呼び寄せて、手を置いて癒してくださったのです。「婦人よ、病気は治った。」彼女は自ら癒しを願ったり、求めたりしたのではないのです。彼女はいつものように、安息日に礼拝に来ただけです。そのいつもの礼拝で、癒しが与えられたわけです。

当時、ユダヤの社会において、十八年病気を患っていた一人の女性というのは、本当に小さな存在でした。ですからその彼女が癒され、その病から解放されたという出来事は小さい記事かも知れません。でもその福音を、今、私たちは聞いております。そのように、神の国は小さなからし種のようなものですが、そのからし種が大きな木になって、その枝には空の鳥が巣を作るほど成長していく、それに似ているのです。

2023年9月10日「悔い改めなければ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章1-9節

何人かの人が来て、イエス様に「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」を告げました。この出来事を伝えた人たちは、そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思っていたのです。ところが、イエス様は「けっしてそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と仰いました。

イエス様は、この言葉の意味をさらに明確にするために、実のならないいちじくの木のたとえを話されました。ぶどう園の主人が言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒せ。」ところが、そこに一人の園丁が現れ、「御主人様、今年もこのままにしておいてください」と執り成してくださるのです。園丁は主イエスのことです。私たちはこの主イエスの執り成しの中に安心して、悔い改めることができるのです。