随想 オールド・ブラックジョー

○ぶどうの枝第50号(2019年6月30日発行)に掲載(執筆者:YA)

 若き日 はや夢と過ぎ
 わが友 みな世を去りて
 あの世に 楽しく眠り
 かすかに 我を呼ぶ
 オールド・ブラックジョー
 我も行かん はや老いたれば
 かすかに 我を呼ぶ
 オールド・ブラックジョー

 中学時代に習ったフォスターの名曲「オールド・ブラックジョー」がお気に入りで、英語の歌詞も懸命に覚えたものです。でも当時は歌詞の意味は、英語はおろか日本語でも分かっていませんでした。歌の深い意味を理解できたのは、ずっと後のことです。
 この歌は英語ではGone are the daysと過去分詞で始まりますので、中学生には難しい構文です。それでも中学生の私は訳も分からずに英語で覚えて得意になっていました。
 「若き日はや夢と過ぎ、わが友この世を去りて」は、中学生でも何とか分かります。そして英語では、友は皆綿畑(cotton fields)から去り、もっと良いところに(better land)行ってしまったと続きますが、奴隷の境遇から解放されて天国に行ったという意味は分かっていませんでした。
 奴隷たちは綿畑でつらい労働に明け暮れていました。歌詞の終わりは「かすかに我を呼ぶオールド・ブラックジョー」で、先に天国に行った友が年老いたジョーに「おまえも早くお出で」と呼びかける声なのです。それにジョーは「我も行かん、はや老いたれば」と応じます。英語はI’m coming, I’m coming, for my head is bending low です。自分も年老いた、間もなくそちらに行くから待ってろよ、ということです。
 少年の私は何のことか分からないまま歌っていました。意味を理解したのは洗礼を受けて信仰を深めてからで、それも随分と時間がたってからでした。
 マウント・ヴァーノン(ヴァージニア州)のジョージ・ワシントン(初代大統領)の邸宅跡を訪れたことがあります。ワシントン家が所有していた三百十四人の奴隷たちの住んだ薄暗い小屋が今も残されています。邸内の外れの林の中に小さなお社のような、ワシントンと妻マーサの墓があります。奴隷たちのはなく、記念碑だけがあります。そこには「ワシントン家に仕えたカラード・ピープルはこの辺りに埋葬され、跡形がないのでその人々をしのんでこれを建てる」とありました。
 偉人ワシントンは南部の人で多くの奴隷を所有していました。カラードとは有色人種つまり黒人を指す「非差別用語」で、記念碑が建てられたのは後の時代、黒人が市民権を得た後のことだろう、とそのとき思いました。ブラックとは黒人のことと知らなかったのはうかつな話です。この歌は奴隷のつらい勤めを終えたら、やがて古い友の待つ神の国に自分も行くよという祈りの歌だったのです。
 年を重ねると友人、知人が一人二人と世を去っていきます。「若き日はや夢と過ぎ」るのは仕方ないとして「わが友この世を去りて」は、年を重ねて初めて分かる悲しみです。少年時代に訳も分からずに愛した歌は、今は御国を待ち望む祈りの歌になりました。

長崎のキリシタンの里と「マリア十五玄義図」

○ぶどうの枝第42号(2015年7月19日発行)に掲載(執筆者:MK)

 長崎の「マリア十五玄義図」

浦上天主堂旧蔵。西村貞『日本初期洋画の研究』1945年より

 「マリア十五玄義図」というキリシタン時代の絵画については、婦人会主催の会でもお話ししたことがあります。カトリックの「ロザリオの祈り」に対応した、聖母マリアとキリストの物語を十五の場面として描いた絵で、大阪府茨木市に伝来した二点が現存していますが、もう一つ、長崎の潜伏キリシタンの里に伝わったものがありました。残念ながら戦災で焼失してしまい、その直前に出た本に載っている写真でしか見ることができなかったのですが、ところが近年そのガラス乾板が存在していることがわかり、国立歴史民俗博物館のホームページで公開されています。その現地を訪ねて来ました。

 外海のキリシタンの里

 この絵が伝えられたのは、現在長崎市となっている外海(そとめ)地方の「出津(しつ)」という里です。住民のほとんどが潜伏キリシタンだった所で、幕末に長崎に大浦天主堂が建ち、秘かに信徒が訪れるようになると、神父のプチジャンは出津にも招かれて、夜中に村人の漕ぐ船で渡り、そこでこのマリア十五玄義図を見ています。その後、外海地方には、ド・ロ神父が着任して、多くの教会や授産施設が作られました。世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部となっています。

出津の教会堂

 出津の教会堂は、台風にも耐えるように背が低く作られた、白塗りで素朴な、しかしがっしりとした建物で、地元の信徒の方がガイドをしてくださいました。この地方には「バスチャン」という日本人伝道師の話が伝えられており、「ジワン」という神父の弟子だったという彼は、キリスト教の年中行事を記した「日繰り」を作って教えたが、山中で潜伏中に捕らえられ、その屋敷の跡が現在も残されています。「皆を七代までわが子とする、その後は神父が大きな黒船でやってきて毎日でもコンピサン(告白)ができるようになる、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる・・」という予言を残したとされ、二百五十年の禁教の後に、それが実現したとも言えます。
 ド・ロ神父はフランスの貴族の出身で、建築、印刷、医学、農業、織物、製粉・製麺など、当時最先端の技術を伝え、施設を作っています。まさに万能の人ですが、フランス革命の後で貴族がどうなるか分からなかったから色々な技術を身につけたのだそうで、何がどう関係するか分からないものです。国家による大規模な近代化とは別に、民間の無私の奉仕で、こんな所に西洋文明が直接伝えられていたことにも驚きました。
 なお、ここは遠藤周作の『沈黙』という小説の舞台で、付近には記念文学館もあります。

 浦上天主堂

 出津のマリア十五玄義図は、その後、浦上天主堂に移されて焼失しました。訪問して気がついたのですが、今年は、大浦天主堂で潜伏キリシタンの婦人がプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」の百五十周年で、カトリックではその日三月十七日を日本独自の記念日としており、多くの行事が行われたそうです。浦上の信徒は、禁教がまだ解かれなかった明治元年(一八六八)から六年間にわたって各地に配流され、戻ってから力を合わせて建てた天主堂も原爆で全壊、崖下に落ちた鐘楼の屋根は、今もそのまま残されています。苦難の歴史の前に、粛然とさせられます。

浦上天主堂と原爆で吹き飛んだ鐘楼の屋根