2025年9月21日「喜びの告白」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書3章22ー30節

洗礼者ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていました。そのヨハネの弟子たちが、ヨハネにこう告げました。26節「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を受けています。みんながあの人の方へ行っています。」つまり、イエス様が洗礼を授けていて、そのすく近くでヨハネも洗礼を授けていたのです。すると、多くの人たちは、イエス様の方に行っている。それを見たヨハネの弟子たちが「先生、見て下さい。ヨルダン川の向こう側で、あなたと一緒にいて、あなたが証されたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」と言ったわけです。ヨハネの弟子たちにしてみたら、洗礼はヨハネ先生の方が先駆者でした。ところが、27節以下からの洗礼者ヨハネは悔しがっている弟子たちに優しく告げています。自分はメシアではない、あの方の前に遣わされた者だと、そう言っただろう。その私の言葉を、今度はあなたがたが証ししてくれるだろうと、ヨハネの心からの願いを弟子たちに託したのです。そして、ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言っています。「衰える」というギリシア語は、「低くなる」という意味もあります。即ち、イエス様が栄え、高められ、わたしは低くなる。そこにわたしの喜びがある、と告白しています。私たちはどうでしょうか。自分が認められない場合、悔しがっているのではないでしょうか。