2024年10日27日「教会の心」

○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章1ー5節

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(1-2節) パウロはフィリピの信徒たちに、同じ思いとなりなさいと勧めています。また、同じ思いになるために、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と勧めています(3-4節)。最後の5節に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。「このこと」というのは、1節から4節まで記されて来たこと、つまり、教会の一致のことです。それを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものなのだと言うのです。文語訳聖書では「汝ら、キリスト・イエスの心を心にせよ」と訳しました。キリストの心を自分の心にしなさいということです。教会の一致を求めるキリストの心を、自分の心として、教会の心としてしっかりと受け止めて、主にある一致を求めてまいりたいと思います。

2024年10月20日「福音にふさわしい生活」

○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章27ー30節

パウロはフィリピの信徒たちに「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と勧めています。ここで「生活を送りなさい」という言葉は、「市民として生きる」とも訳されます。パウロはローマの市民ではなく、キリストの御国に属する民として生きなさいと勧めています。また、キリストの御国に属する民として生きるために、一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせること。また、福音の信仰のためにともに戦うこと。そして、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられていることを教えています。私たちが天の御国の一員として、この道を感謝し、喜んで歩んでいきたいと思います。

2024年10月6日「生きるにも死ぬにも」

○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章20ー26節

パウロは、自分の身によって、キリストがあがめられることを願っています。そんなパウロの熱い思いが「生きるにも死ぬにも」という言葉によく表されています。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」パウロの切なる願いと希望は「生きるに死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられる」ことでした。

また、パウロはこう言っています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」つまり、自分にとって、キリストがすべてであるということです。このパウロの切なる願いや希望、生きる姿を通して、私たちは今、ご自分の切なる願いと希望がどこにあるのか、点検する必要があるのではないでしょうか。

2024年9月29日「福音の前進」

○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章12ー19節

12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」とあります。フィリピの信徒たちは、パウロがローマの獄中にあって、心配していました。ところが、パウロは自分の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと、そのことを知ってほしいと言っているのです。自分が捕らえられたことで、かえって福音が、広く伝えられるようになったと言うのです。

13節に「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」とあります。「兵営全体」というのは、パウロを監視しているローマの兵士たちのことです。彼らは、監禁されたパウロを通して、キリストのことを知りました。また、教会の仲間たちは、パウロが捕らえられたことを見て、確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになりました(14節)。さらに、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、・・・自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている」人たちもいました(15-17節)。彼らに対してパウロは「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と言っています(18節)。パウロは、それがなんであろう、キリストが告げ知らされることを喜んでいます。まさに、自分の身に起こったことが、「かえって福音の前進に役立った」のです。

2024年9月15日「蓄える信仰」

○金 南錫牧師 出エジプト記16章31ー36節

エジプトから出たイスラエルの民が、荒れ野をさまよう時に、神様は天から日用の糧を雨のように与えて下さいました。朝、起きてみると、荒れ野の地面に薄くて壊れやすいものが、大地の霜のように覆っていました。イスラエルの民はそれを「マナ」と名付けました。そして、このマナはイスラエルの民がカナンの地に入るまで、なんと40年間与えられました。神様は「そのマナの中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ​。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである」と命じられました(32節) つまり、神様は、荒れ野の40年間、イスラエルの民が食べ物が無くて困った時、このマナを通してイスラエルの民たちを食べさせた、その出来事を覚えさせようとしました。イスラエルの民は、壺に入れたマナを見る度に、荒れ野の40年間、自分たちを支えてくださった、慈しみ深い神様を覚えていくのです。マナの記憶は、神様との関係を豊かにしてくれる根拠になるのです。

2024年9月8日「パウロの祈り」

○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章6ー11節

フィリピ教会の人たちは、パウロの福音宣教の働きを共に支えて来ました。そんなフィリピの人たちのことを、パウロは牢獄にいる時も、福音を弁明し立証する時も、「共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と言っています。

9節から11節までのところでは、パウロが、フィリピの人たちのために祈っていた内容が記されています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」このパウロの祈り、フィリピ教会の人たちへの祈りが、私たちに与えられている祈りとして、祈り、祈られる者として、日々を歩んでいきましょう。

2024年9月1日「キリスト・イエスの僕」

○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章1ー5節

この手紙は、パウロが人生の最後に、ローマの獄中にあったときに、フィリピの教会に当てて書いた手紙です。この手紙を読むと、喜びとか、喜ぶという言葉がたくさん出て来るので、「喜びの手紙」とも呼ばれています。 

この手紙の差し出し人として、「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」とあります。パウロは自分を「キリスト・イエスの僕」と呼んでいます。「僕、doulos」というのは、奴隷のことです。ですから、パウロは自分を「キリスト・イエスの奴隷である」と言っています。奴隷の反対の言葉と言えば、「自由人」ですが、パウロは本当の「自由」を求め、キリスト・イエスの奴隷であることを誇りとし、キリスト・イエスの奴隷になったことを神に感謝しているのです。そして、罪や欲望など、何ものかの奴隷になっている私たち人間に、キリスト・イエスの僕、奴隷になった時にのみ、この世の一切のものに対して自由になることができる、そのことを教えています。

2024年8月18日「昇天と祝福」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書24章44ー53節

「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(48,49節) ここで「父が約束されたもの、高い所からの力」とは「聖霊」のことです。復活なさったイエス様は、この聖霊を「あなたがたに送る」と約束してくださったのです。また、その聖霊に覆われるまでは、エルサレムにとどまっていなさいと言うのです。そして、復活なさったイエス様は、祝福しながら、天に上げられました(50節)。

「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(52,53節)復活のイエス様が見えなくなってしまったのに、弟子たちは大喜びをしたのです。なでしょうか。それは、復活のイエス様が見えなくなっても、いつも良い言葉、救いの言葉をもって、自分たちを祝福してくださることを、確信したからです。弟子たちは、その大きな喜びの中で、「神をほめたたえていた」のです。つまり、神様に感謝と賛美の言葉を捧げるのです。

2024年8月11日「平和があるように」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書24章33ー43節

復活なさったイエス様に出会った二人の弟子は、もう日は暮れていましたが、すぐにエルサレムに引き返していきます。エルサレムに戻ってみると、仲間たちが集まって、主は本当に復活して、シモンペトロに現れたという話をしているのです。そこで、二人も「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を皆に話すのです(35節)。

その時、イエス様ご自身がその真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。しかし、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と言うのです。彼らに向かって、復活のイエス様は「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と語ってくださいました。また、イエス様は、ご自分が幽霊ではなく、肉体をもって復活したことを、弟子たちにはっきりと示すために、ご自分の手と足を見せ、さらに弟子たちの目の前で、焼いた魚を食べてくださったのです。この姿を通して、イエス様が本当に復活なさったのだと気づくのです。

2024年8月4日「エマオの途上」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書24章13-32節

二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かって、とぼとぼ歩いていました。この時、復活なさったイエス様が彼らと一緒に歩いていたのですが、彼らには目が遮られていて、イエスだとは分からなかったのです。

イエス様が「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と声をかけられると、二人の弟子は「ナザレのイエスのことです」と言って、自分たちが望みをかけていたイエス様が死んでしまったと言うのです。目の前に復活なさったイエス様が共に歩んでいるのに、二人は自分たちの経験に捕らわれて、何も見えていないのです。そこで、復活なさったイエス様は、弟子たちの心の鈍さを取り除くために、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明してくださいました。こうして、イエス様の話を聞いている内に、二人の弟子の心は、静かに燃え始めました。復活なさったイエス様は御言葉をもって、私たちの心も燃やしてくださいます。この復活の主に信頼し、日々歩んでいきましょう。