2020年2月23日「あなたはキリストの味方か」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章38-50節

 イエス様の名前を使って、悪霊を追い出していた人がいました。その人はイエス様の12弟子ではありませんでした。弟子のヨハネは、私たちに従わないので、やめさせようとしました。
 問題は、自分に従わない人の業をやめさせようとしたヨハネの態度にあります。そこには自分たちこそ、イエス様の特別な弟子集団だという意識があったのです。それゆえに、自分たちが正しくて、ほかは間違っているという考え方を持っていたのです。
 イエス様は弟子たちの問題を見抜いておられ、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とおっしゃいました(40節)。
 さらに、イエス様は一杯の水を飲ませてくれる者は、その報いを受けると語っておられます。たとえ今その人があなたに一杯の水を飲ませてくれる者でなかったとしても、明日はあなたに一杯の水を飲ませてくれる者に変わり、その人が主の報いを受ける人に変わる可能性はあり得るのです。ですから、私たちは自分に従う者を味方とし、そうでない者を敵視する思いを悔い改めなければなりません。
 私たちの心が、イエス・キリストにある信仰の世界に変えられることを、祈り願います。

2020年2月16日「誰がいちばん偉いか」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章30-37節

 本日の聖書箇所は、イエス様と弟子たちがガリラヤ地方を通って、カファルナウムにやってくるまでの話です。その途上でイエス様は弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という二度目の受難予告をされました。
 しかし、イエス様が十字架の死と復活について予告されたとき、弟子たちは理解できず、また理解しようとして、尋ねることさえしませんでした(32節)。むしろ弟子たちの関心事は十字架の道とは正反対で、「誰が一番偉いか」ということでした。
 イエス様は、弟子たちを呼び寄せて言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」 (35節)。
 神の御前で、一番の人は、すべての人に仕える最後の人だと、イエス様は語られました。このイエス様の御言葉に対して、生きる準備があるかどうかが、問われていたのです。
 イエス様はすべての人に仕えるために来てくださいました。そして、この私のために十字架にかかり、死んでくださったのです。ここにまことの偉さが示されているのです。

2020年2月9日「祈りによらなければ」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章14-29節

 悪霊に取りつかれた少年の父親は、イエス様が不在中、山の下に残っていた弟子たちに、子供の癒しをお願いしましたが、できませんでした。少年は幼いころから、耳が聞こえず、ものが言えませんでした。
 イエス様は父親に病気の子どもを御許に連れてくるように、言われました。少年がイエス様の御許に連れて来られたとき、発作が起きました。
 イエス様はその様子を見て父親に、「このようになったのは、いつごろからか」を尋ねました。父親は「幼い時からです」と答え、「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言ったのです。
 イエス様が少年の手を取って起こされると、立ち上がりました。そして、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われたのです(29)。
 人生は、思うようにいかないことのほうが多いのですが、その中で、辛いことを心の中に押さえ込んで、押し隠すのではなく、私たちのすべてをご存じである神様に、重荷のすべてを隠さず述べて、心を注ぎ出して、祈る者でありたいです。

2020年2月2日「主イエスの輝き」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章2-13節

 イエス様は弟子のうち、ペトロとヤコブ、そしてヨハネだけを連れて、高い山に登られました。この山の上で、イエス様の姿が弟子たちの目の前で、栄光に輝く姿に変えられたのです。さらに、エリヤがモーセと共に現れて、イエス様と語り合っていたのです。
 この光景を見たペトロは、感激してこう言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
 しかし、このペトロの申し出は早すぎました。イエス様には地上でなすべきことがまだたくさんあったのです。何よりもエルサレムで十字架にかからなければならなかったのです。イエス様は十字架の道を歩まれるために、山の上から下りてくださいました。栄光に輝くお姿のまま、山の上にとどまるのではなく、十字架の死に至るまで、山の下へと下りてくださったのです。
 ペトロたちが変貌のイエス様を目の当たりにして、その喜びのうちに一刻も長くとどまりたいと願ったとき、雲が現れて彼らを覆ったのです。その雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という神の声がありました。
 神の声は、イエス様の御言葉に聞き従うことを命じております。礼拝が終わってから、私たちは主イエスにしっかりと目を向け、それぞれの生活の場へと、用いられていきますように、お祈りします。

2020年1月26日「十字架を負う」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章27節-9章1節

 イエス様は、弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に出かけられました。ここでイエス様は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞いています。弟子たちは、世間の人々の噂をそのままに伝えました。
 ある人は、イエス様の前に活躍した「洗礼者ヨハネ」だと言い、ある人は、メシアの先駆者として長い間待たれていた「預言者エリヤ」の再来だと言いました。そして、メシアが現れるときは、必ずメシアを指し示す預言者が現れるという考え方に基づいて、「預言者の一人だ」と言う人もいました。
 実は、そのような噂はどうでもよかったのです。問題は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、弟子たち自身の理解でありました。弟子たちを代表して、ペトロは「あなたは救い主です」と信仰告白したのです。
 イエス様は、ペトロの信仰告白を聞かれたときに、それを誰にも話すなと戒められ、ご自分がこれから、必ず多くの苦しみを受けるようになっていると語ります(31節)。神によって、イエスは必ず多くの苦しみを受けることになっていること。それを、聖書学者は「神の必然」と言います。
 しかし、この神の必然は、弟子たちには理解できませんでした。ペトロにとって、イエス様は栄光の主なので、十字架にはり付けにされるような、惨めで、敗北の主であるはずがないと考えていたのです。
 ペトロはイエス様から「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。「あなたは、メシアです」と信仰告白をしたにもかかわらずに、ペトロはその信仰告白の中身がまったく欠けていたのです。
 そのペトロに対して、イエス様が言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)。私たちもこの世で自分の十字架を背負い、主イエスに従っていくことができますように。

2020年1月19日「信仰の目を開かれる主」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章22-26節

 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった」(22節)。本日の盲人の癒しの出来事は、イエス様と盲人が、手をつないだところから、始まっているのです。
 続いてイエス様は盲人の手を取って、村の外へ連れ出されました。イエス様は彼と一対一で向き合うことを望まれたのです。そして、イエス様は両方の目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれ、直接彼に「何か見えるか」と、話かけられました。盲人は目をあげ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えました。それまで、諦めていた目が癒され、見え始めたのです。
 しかし、見え始めただけで、すべてが見えたのではありません。そこで、イエス様がもう一度、彼の目に両手を当てられました。すると、「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」と記されています。
 イエス様は何でもはっきり見えるようになるまで、盲人への関わりをやめませんでした。盲人は目の前にいるイエス様がまことの救い主、キリストであることに、目が開かれたのです。
 私たちは主イエスとの出会いによって初めて、信仰の目が開かれ、全てのものを真っ直ぐに見ることができるのです。この主イエスと手をつながれた人生を全うすることができますように、祈り願います。

2020年1月12日「まだ悟らないのか」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章11-21節

 イエス様たちが船に乗るときに、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、船の中には一つのパンしか持ち合わせていなかったのです(14節)。そのとき、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。
 しかし、弟子たちは、それを具体的なパンの話と思い込んでしまっていました。
 弟子たちが見るべきことは、一つしかないパンという現実ではなく、彼らの目の前におられるイエス様でした。イエス様は二度も、わずかなパンで大勢の人を満腹する奇跡を行われたのです。イエス様が共におられれば、何が足りなくても大丈夫であることを示してくださったのに、弟子たちはパンが足りないことで、議論し始めたのです。
 そんな弟子たちに何度も恵みのしるしを与え、「まだ、悟らないのか」と繰り返し、イエス様は問いかけられます。
 皆さんの視線は、今どこに向いているのでしょうか。霊的な目が開かれ、今も生きておられる主イエスを見上げるように願っております。
 今も生きておられる主イエスが共におられるならば、なんの心配もありません。私たちは、恨みはいつまでもよく覚えているものですが、恵みはすぐに忘れてしまいます。だからこそ、主イエスは何度も何度も恵みのしるしを与え、「まだ、わからないのか。悟らないのか」と言われているのです。

2020年1月5日「主のあわれみに生かされて」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章1-10節

 1節に「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」とあります。これは、7章31節の「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」、「そのころ」のことです。
 イエス様は、テカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖の東側にやって来られました。ユダヤからすると、異邦の地方に当たります。このことは、イエス様の救いがユダヤ人だけではなく、異邦人にまで広がっていくことを指し示しています。イエス様は、すべての人が救いに招かれていることを教えております。
 2節、3節に「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」とあります。
 「かわいそうだ」という言葉は、ギリシア語では「内臓が痛むほど憐れむ」ことです。イエス様は群衆を飢えたまま、帰らせることに対して、ご自分の内臓が痛くなるほど、憐れんでくださったのです。
 私たちはこの世に生きる限り、様々な苦しみを味わい、経験するのです。しかし、その苦しい経験の深まるところで、思いもかけなかった主の憐れみを味わうことができるのです。クリスチャンは主の憐みによって生かされていく者です。

2019年12月29日「イエスの小さな旅立ち

○金 南錫牧師 マタイによる福音書2章13-23節

 幼子イエスはヨセフとマリアに連れられてエジプトに旅立ちました。そして、ヘロデが死ぬまでそこにいました。15節に「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。
 この「エジプトから私の子を呼び出した」とあるのは、旧約聖書ホセア書11章1節の引用の言葉です。ホセア書11章1節はこうあります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。
 ここで、「わが子」とはイエス様のことではなく、イスラエルの民のことです。幼子イエスがエジプトに逃れた出来事は、「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と説明されています。
 幼子イエスがエジプトへ行き、そしてエジプトから戻る旅はホセア預言者によって預言された言葉の成就であった。つまり、幼子イエスがエジプトへ行き、エジプトから戻る旅は、旧約のイスラエルの民の旅の繰り返しです。幼子イエスがイスラエルの民の歩みをその幼子の身で体験されたのです。
 この一年の歩みを、私たちの過去をひっくるめて受け止めてくださる主イエスに委ねて、新しい年に向けて、小さな旅立ちをしようではありませんか。

2019年12月22日「クリスマスの困惑」

○金 南錫牧師 マタイによる福音書1章18節-2章3節

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う最も喜ばしい時です。しかし、どうでしょうか。私たちが生活している現代の社会は、愛と平和、希望に満ちているのでしょうか。
 今年も、悲しい出来事が日本中、世界中で数々ありました。実に、聖書におけるイエス様の誕生も、喜びの中で迎えられたのではなく、とんでもない不安と困惑の中で受け止められたことを語っています。
 ヘロデ王はユダヤに新しい王が誕生したしるしである星を見て、その王を拝むためにユダヤにやってきたという東方の学者たちのことを耳にして、大きな不安に襲われました。そして、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。
 しかし、ヨセフはどうだったのでしょうか。婚約者マリアの妊娠を知ったとき、ヨセフはがく然とし、不安と困惑に襲われたに違いありません。ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心したのです。
 ところが、ヨセフは夢を見ました。夢の中で、主の天使により、神の御言葉を聞いたのです。そして、ヨセフは神の御言葉を信じ、妻マリアを御言葉通り受け入れることによって、ヨセフもクリスマスを担う一人となったのです。