2019年6月23日「断食と新しい革袋」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章18-22節

 人は年をとるにつれて、古い考えに固定されてしまい、中々新しいことを試みようとはしません。ですから、固定観念を捨てなければ、新しく挑戦することはできないのです。
 私たちの信仰生活も同じです。固定観念のような古い考えを捨てるとき、新しく注がれる神の恵みを受けることができます。洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちはしばしば断食をしていました。ところが、イエスの弟子たちは断食をするどころか、しょっちゅう、徴税人や罪人と食べたり、飲んだりしているので、「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか」と問うています。
 その問いかけに、イエス様はご自分を花婿に例え、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と言われました。そして、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われています(22節)。
 主イエスがこの世に来られたことによって、古い旧約は終わって、まったく新しい時代が始まったのです。ですから、福音を聞き、受け入れる私たちもまた、新しい革袋にならなければならないのです。そのために、固定観念や自分だけの狭い考えではなく、主イエスのしなやかさを持つ必要があります。

2019年6月16日「医者と病人」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章13-17節

 私たちの信仰生活には、神様を見失い、繰り返し、間違った場所で探していることはないでしょうか。そのとき、自分の頑なさに蓋をして、どんなに周りを探してみても、あまり役に立ちません。神様を見失った場所で探さなくてはいけません。
 本日の聖書箇所は、神様を見失った人の話です。神様から離れ、心頑なになってしまった人のお話です。それは、徴税人や罪人のことではありません。ファリサイ派の律法学者たちのことです。
 イエス様は収税所に座っているレビを見かけて「わたしに従いなさい」と言われました。すると、レビは立ち上がって、すぐに主イエスに従ったのです。イエス様の招きに応えて弟子となったレビの家で、イエス様は弟子たちと多くの徴税人や罪人と共に食事の席に着かれました。彼らは当時、ユダヤ社会を根底から支えていた律法を守ることができず、不品行な生活を行っていると見なされました。
 この人たちがイエス様と一緒に食卓を囲んでいるということは、ファリサイ派の律法学者たちにとっては、理解しがたいことでした。そして、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と責めます。
 この批判に対して、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えます。
 ファリサイ派の律法学者たちは、自分たちにこそ主イエスが必要であるということに、気付かないのです。彼らは神を見失いました。神様にとって、正しい人は一人もいないのです。人間はその事に気づかないので、律法学者のように、文句を言いたくなってしまうのです。自分が罪人であることを分からないからです。
 私たちは、もう一度、罪人を招くために来られた主の慈しみと恵み、その愛を覚えたいものです。

2019年6月9日「後で、分かる」

○金 南錫牧師
 ヨハネによる福音書13章1-16節

 私たちには、あのときは分からなかったけど、後になって分かることがあります。弟子たちにとって、自分たちの師であるイエス様が足を洗ってくださることは、思ってもみなかったことでした。弟子たちは、このことの意味が分からなかったのです。そのとき、イエス様は「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と仰いました(7節)。
 生きている中、理解できない、受け入れがたい現実があります。しかしそれは、今は理解できない、受け入れがたいものなのであって、必ず理解できるときが来る。イエス様はそう教えているのです。
 なぜでしょうか。それは、すべてをご存じの神が共におられるからです。私たちが経験する出来事の一つ一つは、無意味なものでも、不条理なものでもありません。それも神が与えた出来事と考えられるときに、今はその意味が分からないけれども、それでも自分の人生を受け入れて生きて行くことができるようになるはずです。
 私たちは信仰をもって、人生のすべてをご存じの神を信頼して生きていきたいものです。

2019年6月2日「中風の人をいやす」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章1-12節
 
 数日後、再びイエス様はカファルナウムに来られました。前回、主イエスに癒してもらえなかった人々が、イエス様がおられる家へ押しかけて来ました。戸口の辺りまですきまもないほどになったのです。
 そこに、四人の男が中風の人を運んで来たのです(3節)。この中風の人を何とかして癒してもらいたいとの願いから、この男を担いで来たのです。
 しかし、いっぱいになった群衆に阻まれて、イエス様の下に連れて行けませんでした。そこで彼らは、イエス様がおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。イエス様は、「その人たちの、信仰を見て」中風の人に罪の赦しの宣言をされました(5節)。
 私たちも、この中風の人を運んで来た人たちになることができます。それは、執り成しの祈りをすることによって、隣人や親しい友達を主イエスのところに連れて来ることができます。
 どれぐらい時間が必要なのか、分かりませんが、神様はその祈りを決して忘れることなく、答えてくださるのです。

2019年5月26日「御心と癒し」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章29-39節

 本文に出てくる「重い皮膚病」を患っている人は、自分に人が近づいてくるたびに、「わたしは汚れた者です」と言って、自分の病を知らせなければなりませんでした。つまり、当時のユダヤ人社会において、重い皮膚病の人は単なる病人ではなく、「汚れた者」と見なされ、扱われていたのです。
 40節にこの人は、「イエスのところに来て」とあります。これは、イエスのへの信頼を表しています。そして、ひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、自分のすべてをイエスに委ねたのです。その姿を見て、イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったのです。
 まさに日々の私たちの生活の中心に、主の御手があることを覚えたいものです。日々の生活の中心にある私を主イエスの御手に委ねる決断が必要です。すると、主イエスは愛をもって手を差し伸べ、接してくださるのです。

2019年5月19日「イエスの祈り」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章29-39節

 シモンとアンドレは主イエスから「わたしについて来なさい」と声を掛けられ、二人は網を捨てて従い、主イエスの弟子になりました。しかし、シモンは生活の手段である漁師の網を捨てて従いましたが、家族を捨てたわけではありませんでした。
 ある日、シモンの姑が熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話したのです。そして、主イエスがシモンの姑のそばに行って、手を取って起こされると、熱が去りました(31節)。シモンの姑はいやされると、起き上がって、主イエスをもてなして、感謝を表しました。まさにイエス様は、世の主であると同時に、わが家の主でもあります。
 35節に「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈られた」とあります。忙しい生活をしている現代人にとっては、夜明けに起きて、祈ることは本当に難しいものです。ところが、イエス様は人に教え、悪霊を追い払い、病を癒すということで、忙しくて疲れていたにもかかわらず、夜明けに祈られたのです。なぜでしょうか。
 イエス様には、この世に来られた明確な目的がありました。39節に「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある通りです。
 イエス様がこの地に来られた目的どおりに生きることができたのは、日々の初めに、朝早くまだ暗いうちに、ひざまずいて祈り続けたからです。本当に祈りをもって、一日を始めたいものです。

 

2019年5月12日「権威ある新しい教え」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章21-28節

 主イエスと4人の弟子たちはカファルナウムという町で、安息日に会堂に入りました。そこで、主イエスは教え始められました。そのとき、人々はその教えに権威を感じられ、非常に驚いたのです。
 当時、律法学者たちは律法の中心にある神の御心よりも、律法そのものを厳しく守ろうとしたのです。しかし、主イエスは律法そのものよりも、律法の根底にあるものを教えたので、人々に驚きを与えたのです。
 主イエスが権威ある者として教えているとき、会堂に汚れた霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫び出したのです。
 主イエスはこの汚れた霊に対して、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりますと、汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行ったのです。人々は皆驚いて、主イエスのなさったことを「権威ある新しい教えだ」と言っています。
 私たちが主イエスの権威ある新しい教えの光に照らし出されるとき、主の御心がどこにあるのか、分かります。また、その御心に従うことによって、私たちは信仰が強められ、成長していくのです。

2019年5月5日「わたしについて来なさい」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章16-20節

 あるとき、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いていました。そこには、シモンとシモンの兄弟アンデレがいつものように、網を湖に向かって打っていたのです。
 イエス様はその姿をじっとご覧になって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけます。最初に声をかけたのは、イエス様でした。ペトロとアンデレは魚をとることに、力と時間を費やしています。イエス様のことに興味を持っていなかったのです。
 しかし、イエス様はそのような人々を呼び求められたのです。人間に対する主イエスの呼びかけがすべてに先行しているのです。主イエスの眼差しが先立っています。
 イエス様の呼びかけに、二人はすぐに網を捨てて従いました(18節)。イエス様に従うことは、イエス様と同じ生き方をすることです。従って、そこには、人生を自分で決めた目的のためにではなく、神の業のために働く生き方がもたらされるのです。本日の言葉で言えば、「人間をとる漁師になる」ことです。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。この四人は魚をとるのではなく、今までしたことのない新しい働きを始めたのです。それは、神の国のことを伝えることでした。
 イエス様に従うことは、自分のできる得意なことをイエス様と一緒に続けていくことでもありますが、それよりも、できるかどうか心配だけれども、とても大事なこと、神様が喜ばれることをしてみよう、ということではないかと思います。

 

2019年4月28日「時が満ち」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章12-15節

 イエス様は「時が満ち、神の国は近づいた」と語っています(15節)。
 これは「もう神の国が来た」と解釈しても構いません。神の国がもう私たちのうちに来たのです。だから「もう大丈夫だよ。安心しなさい」。これが、イエス様が最初に語ったメッセージです。イエス様はこの福音を御自分の生活と活動の場であったガリラヤで宣べ続けたのです。
 では、この福音を聞いて、イエス様に従った人はどんな人であったのでしょうか。ガリラヤは肥沃ですから、どの時代のどの支配者にとっても重要な収入源でした。なので、ガリラヤのユダヤ人たちは二重、三重の支配構造による生産物の収奪、即ち、重税の対象になりました。
 このような負債に喘ぐ貧しい人が、ガリラヤの人口の9割を占めていたのです。こういう状況の中、時が満ち、イエス様が登場しました。そして、「貧しい人は幸いである。悲しむ人は幸いである」という神の国、神の御支配のメッセージを宣べ伝えた時、当然ながら、ガリラヤの貧しい群衆たちは喜んでいたのではないでしょうか。

2019年4月21日「終わりからはじまりへ」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書16章1-8節

 金曜日の午後3時に、イエス様が十字架上で、息を引き取られました。そして、午後6時までのわずかの時間に、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、墓に納めました。1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りにいくために香料を買った」とあります。
 イエス様のご遺体を十分に処置する時間がなかったため、この女性たちはもう一度イエス様の墓の中に入って、香料を塗って差し上げようとしました。ですから、この三人の女性は土曜日の安息日が終わるとすぐに、香料を買い求め、「主の初めの日」即ち、日曜日の早朝、すぐにイエスの墓に出かけました。
 天使である若者が彼女たちに「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。…あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」と告げます(6節)。
 弟子たちにとって、ガリラヤはイエスに出会い、共に宣教活動がなされたところでした。墓という人生の終わりからもう一回あなたの人生のスタートの場所、つまり原点に立ち返るように、神様は復活されたイエスを通して招いてくださるのです。