2026年3月15日「命の光」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書8章12ー20節

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(13節)ここで「命の光に照らされていく」ではなく、「命の光を持つ」とあります。イエスに従う者は命の光を持つ。どういう意味なのでしょうか。命の光は命を持っている光ですから、命を与えるのです。悲しい時、泣きたい時、イエス様の十字架の命をいただいて、もう一度新しく生き始めるのです。イエス様が私たちに仰います。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」なんと慰めに満ちた言葉でしょうか。この言葉に耳を傾けて、命の光を持つ者として、生きていきましょう。

2026年3月8日「もう罪を犯してはならない」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書8章1ー11節

今日の箇所では、ある一人の女性を巡って、ユダヤ人指導者たちとイエスのやり取りが描かれています。律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、イエスの前に立たせてこう尋ねます。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(4-5節)

この女は姦通の現場で捕らえられた人でした。ユダヤの律法によると、それは重大な罪であって、石打ちにされて処刑されなければならないと、定められていました。続いて6節に「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」とあります。ユダヤの宗教指導者たちは、イエスがどう答えても、イエスを訴えることができると思ったのです。もしイエスがこの女を石打ちにしてはならないと言えば、それはモーセの律法に背いていると、訴えることができます。逆に律法に従って、石打ちにすべきだと言えば、イエスの罪人を赦す教えと矛盾していると、訴えることができます。彼らの問いに対してイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えたのです(7節)。このイエスの言葉を聞いて、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスとその女だけが残ったのです。イエス様はその女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)この言葉で、この女はどれほど安心したでしょうか。イエス様は、この罪の問題を解決するために、この世に人となって私たちのところへと来てくださいました。

2026年3月1日「生きた水」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書7章37ー53節

ヨハネ福音書7章では、仮庵祭というお祭りでの出来事が記されています。仮庵祭の時、エルサレムの神殿では、シロアムの池から金の水差しで水を汲んできて、祭壇にその水を注ぐのです。その時、祭りの興奮は最高に達します。

今日は、その時の出来事です。祭壇に水が注がれて皆盛り上がっているその時、イエス様は立ち上がって、大声で叫んだのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」ここで「渇いている人」は、イエス様を離れてしまった人たちのことです。その人たちにイエス様が「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と叫んだわけです。

続いてイエス様は、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と約束してくださるのです。つまり、イエス様からの命の水を飲む者は(イエスを信じる者は)、その人の渇きが癒されるだけではなく、その人の内から生きた水が川となって流れ出ていく。そして今度は、渇きに苦しんでいる人たちを癒すことになるということです。そして「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」とあるように(39)、この生きた水とは霊、「聖霊」のことです。聖霊なる神様が生きた水として、渇きに苦しむ私たちのところに来てくださる。そして、その生きた水、聖霊を惜しみなく与えようとしている、そう約束して招いているのです。

2026年2月22日「神のもとから来たイエス」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書7章25ー36節

「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」(25ー26) このように言う人たちは、ユダヤの指導者たち、特にファリサイ派の人々がイエスを殺そうとねらっていることを知っていました。ところが、そのイエスがエルサレム神殿の境内で公然と語っているのに、だれも手をかけようとはしません。そこで彼らは、ひょっとしたら指導者である議員たちが、イエスがメシア(救い主)だと認めたのではなかろうか、と一瞬思ったのです。ところが、彼らはすぐにそんな思いを打ち消しました。

 彼らは続けてこう言っています。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。」(27) つまり、彼らは、あのナザレで、あのマリアとヨセフから生まれた一人の息子ではないか、そのイエスがメシアであるはずがない、と読んでしまったわけです。しかし、イエス様は大声で「わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」と告げたのです。この大きな声は、今も私たちに響いています。特にイエス様が神のもとから来て、私たちの救いのために受けた苦しみを思いつつ過ごしているこの受難節(レント)の時に、さらに響いております。

2026年2月15日「神から出た教え」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書7章14ー24節

イエスが神殿の境内に上って行って、教え始められた時、ユダヤ人たちは驚いて「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言います。イエス様は答えてこう言われました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」イエス様は自分の教え、聖書に対する教えはご自分をお遣わしになった方、神の教えだというのです。イエス様はその聖書の中心にある律法をお与えになった神の御心を知っておられたのです。だから、次の17節に「この方の御心を行おうとする者は」という言葉が出てくるわけです。神の御心を行おうする者は、神の御心に従って生きるのです。ただ単に神の教えを知っているだけではなく、神の御心に従って生きるのです。そうすると、神の御心がその人の中にいきいきと現れているのです。

イエス様が続いてこう仰います。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」(18)イエス様はここで、自分の栄光を求めるのか、神の栄光を求めるのかについて語っておられます。言い換えれば、自分を中心に置くか、神を中心に置くかです。そして自分を中心に置くのではなく、神を中心として生きることが不義のない生き方だというのです。

2026年2月8日「私の時はまだ来ていない」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書7章1ー13節

イエスの兄弟たちは、イエス様が不思議な業を為し、神の言葉を語っているならば、皆にそれを知ってもらわなければ意味がないのではないか。そのためには、田舎のガリラヤではなく、都のエルサレムに行って、同じ業を見せて、世に認めてもらいなさい。しかも、祭りの時なら人々もイスラエル全土から来ているから、ちょうどいい時ではないかと言うのです。

 イエスの兄弟たちが言っていることは、確かに賢いやり方かも知れません。しかし、イエス様はご自分の兄弟たちに「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」と言われました(6節)。ここで「わたしの時」とは、イエス様が神の救いを現わす十字架と復活の時を指しています。そして、「あなたがたの時はいつも備えられている」というのです。つまり、イエスの兄弟たちは自分の見通し、自分の判断で、人がたくさん集まっている今がエルサレムに上っていく時だと、イエスに勧めたわけですが、それはわたしのやり方ではない、わたしの時はまだ来ていないのだと、イエス様は語っています。信仰生活の歩みの中で、私たちは「今が神様の時なのかどうか」判断できなくて、迷っている時があります。そういう時こそ、「今が神の時なのかどうか」と祈りながら、見つめ直す時ではないでしょうか。

 

2026年2月1日「永遠の命の言葉」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章51ー71節

イエス様の周りには、多くの弟子たちがいました。彼らはイエス様の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という言葉を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました。イエス様はご自分の言葉を受け入れることができない弟子たちに向けて、こう仰います。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(63)

イエス様の言葉が霊であり、命であるというのは、天から与えられた言葉、救いの言葉だということです。他方、「肉は何の役にも立たない」とは、自分の知恵や常識で、イエス様の言葉を聞くならば、到底受け入れることができないということです。このことは、66節に「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあるように、当時、ヨハネ共同体、即ち教会の中に大きな問題でした。たくさんの弟子たちが離れ去っていく中、イエス様は残った十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」とおっしゃいました。すると、ペトロは十二人を代表して答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(68)ここには、イエス様が語る永遠の命の言葉をもっと聞きたいというペトロの願いが込められています。また、神様は永遠の命の言葉を持っておられるイエス様を求めるようにと願って、私たち一人ひとりをこの礼拝へと招いてくださっています。感謝です。

2026年1月25日「わたしのもとに来る人」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章41ー50節

イエス様は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と仰いました。そして、ご自分こそが天から降って来て、私たちの命を養ってくださる命のパンであると宣言なさったのです。これを聞いたユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と言って、つぶやき始めたのです(41-42節)。イエス様はその彼らのつぶやきをよくご覧になった上で、こう言われました。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(43-44節)イエス様は、今、あなたがたが私のもとにいるのは、私をお遣わしになった父が、あなたがたを引き寄せてくださったのだと言うのです。

続いて、「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」とあります(45-46節)。ここでイエス様は、預言書の言葉を引用しながら、あなたがたが今、わたしのもとに来ているのは、神によって、教えられているからではないか。父から聞いて学んだからではないか、というのです。

私たちが確かに、イエス様を神の子として信じることができるのは、神様が聖書を通して、私たちに語りかけ、教えてくださっているからです。その聖書の言葉によって、神は私たちをイエスのもとに引き寄せてくださるのです。また、イエス様はユダヤ人たちに、今あなたがたが見ているこの私は、神のもとから来た者で、父なる神を見たのだというのです。また、イエス様はこう仰います。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(57節)私たちは知識だけでイエス様を知っているのではありません。聖餐を通して、イエス様と私たちが結び合っていくのです。

2026年1月18日「命のパン」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章22ー40節

イエス様は「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とおっしゃいました。五千人の人を五つのパンと二匹の魚で満腹させたことは、大変な奇跡でした。これは、イエス様がまことの神の子である「しるし」でした。しかし、人々はその奇跡によってイエス様が神の子であるしるしを見ておらず、ただパンを食べて満腹したことだけを見つめていたのです。ですから、イエス様は「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と告げられたのです(27節)。

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(32、33節)ここで、 天の父なる神が与えるまことのパンは、世に命を与えるものだ。食べればなくなってしまうマナのようなものではない。それ以上に素晴らしいものだと言われたのです。これを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました(34節)。彼らには、食べるパンのことしか頭にありません。そこでイエス様は重ねておっしゃいました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」イエス様は「わたしが命のパンである」と仰いました。自分こそが、私たちの命を養ってくださる命のパンなのだとおっしゃいました。ですから、私たちに必要なのは、このイエス様のもとに行くことです。そしてイエス様を信じることです。