2025年11月30日「安息日も働くイエス」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章9bー18節

38年もの間、病に苦しんでいた男が癒されたのは安息日でした。ユダヤ人たちは、床を担いでいるその人を見て、とがめました。彼は「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と告げました。その後、イエス様は神殿の境内でこの人をもう一度出会い、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と仰いました。ところが、この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだとユダヤ人たちに知らせたのです。その結果、ユダヤ人たちはイエス様を迫害し始めたのです。このように、人の罪が明らかになるところで、イエス様もまたご自身を明らかにしておられます。イエス様は「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と仰いました(17)。この言葉は、イエス様が安息日も休むことなく、苦しんでいる私たちのために、働いておられることの宣言です。その働きに感謝したいと思います。

2025年11月23日「起き上がりなさい」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章1ー9a節

ベトザタと呼ばれる池のほとりに38年という長い間、病に伏せっていた一人の人がいました。イエス様は、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われました。彼はイエス様の問いかけに対して、「はい、よくなりたいです」と答えていないのです。その代わりに「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と言うのです。ようやくベトザタの池にたどり着いたのですが、癒しを求める病人の中にも生存競争があり、彼はそこでも敗北し、絶望していました。そんな時に、イエス様は彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と仰いました(8節)。今まで自分を縛り付けていた、そのものを担いで歩けと、仰ったのです。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」とあります(9節)。彼はイエス様の言葉を信じて従いました。イエス様は私たちにも繰り返し「起き上がりなさい」と声をかけてくださり、励ましてくださいます。

2025年11月16日「信じて帰って行った」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書4章43ー54節

イエスのもとにカファルナウムから王の役人が来て、「息子を癒してください。息子が死にかかっているのです」と訴えました(47)。しかし、イエス様は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と冷たい反応をされました。これは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じないという人間の不信仰を仰いました。また、求めてくる者を突き放すような言葉です。しかし、王の役人はあきらめません。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と、しつこく食い下がります(49節)。すると、イエス様はこう言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」(50節)もし彼がただ見えるしるしだけを求めていたならば、このイエス様が言われた言葉に落胆してしまったことでしょう。しかし、王の役人はイエス様の言葉を信じました。彼はイエス様の「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という言葉を信じて、帰って行ったのです。

2025年11月9日「蒔く人も刈る人も共に喜ぶ」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書4章27ー42節

サマリアの女はイエスとの対話を通して、神との関係へと目が開かれていきました。そして彼女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と言いました。すると、イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われました(25、26)。

イエスは自ら、ご自分がキリストと呼ばれるメシアであることを明らかになさいました。すると、そこに弟子たちが戻って来て、イエスに「ラビ、食事をどうぞ」と勧めます(31)。しかしイエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と仰いました(34)。そして、ご自分が経験なさったサマリアでの伝道を、二つのことわざを使って教えています。その内の一つに、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざがあります。人は自分が種を蒔いたら、その収穫は自分で得たいと思います。サマリア人は、ヤコブを大事な先祖として、重んじていました。そして、そのヤコブが掘った井戸があったからこそ、そこにサマリアの女が水を汲みに来て、イエスとの対話が始まり、イエスをキリストと呼ばれるメシアだとして、信じるようになったのです。それは、井戸を残したヤコブの存在があったからです。つまり、サマリアの女がイエスを救い主として信じるようになったのは、遠い昔に蒔かれた種からの実りであったのです。「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざはそういう意味です。

2025年11月2日「モーセの最後」

○金 南錫牧師 申命記34章1ー9節

モーセはヨルダン川の向こうが一望できるピスガの山頂に登りました。彼はいよいよ約束の地が間近であることを自分の目で見たのです。「これがあなたの子孫に与えるとわたしが誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。」その後、神様の言葉はこう続いています。「あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ」(4、5節)。モーセは約束の地を目前に、モアブの地で死んだのです。モーセの生涯は道半ばで終わってしまったのです。

しかし、モーセの死によって、モーセの願い、モーセの祈りは消えてしまったわけではないのです。モーセにはヌンの子ヨシュアという跡継ぎが与えられていました。神様がヨシュアという新しい指導者を用意してくださっていました。このヨシュアを先頭に、イスラエルの民はヨルダン川を渡って、約束の地に入っていくのです。つまり、モーセの願い、モーセの祈りはこのヨシュアによって、実現していくのです。私たちもいつか人生の途上で天に召されていくはずです。その時に、私たちの姿、生き様を通して、私たちの祈り、願いを、次の世代へと残していくことができるでしょう。

2025年10月26日「まこころの礼拝」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書4章16ー26節

当時、サマリアの人たちは、ゲリジム山という山で礼拝をしていました。これに対して、ユダヤの人たちはエルサレム神殿で礼拝をしてきました。サマリアの女はどこで礼拝すれば神に出会い、まことの礼拝をすることができるのか、とイエス様に尋ねました。

このサマリアの女の質問に対して、イエス様は「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」と仰いました。つまり、まことの礼拝というのは、場所の問題ではなくて、霊と真理をもって行われる礼拝だと教えています。「霊」というのは、神の霊、聖霊の働きの中で礼拝をするということです。そして「真理」というのは、「私は真理であり、道であり、命である」と言われた主イエス・キリストの真理、その中で礼拝を捧げるということです。父なる神様はイエス様を通して、聖霊の働きの中で、礼拝する者を求めておられるのです。

2025年10月19日「渇くことのない水」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書4章1ー15節

イエス様は、サマリアのシカルという町に来られました。そこにはヤコブの井戸があったのです。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられたのです(6節)。そこにサマリアの女が水を汲みに来たのです。イエス様はサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。すると、彼女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言ったのです(9節)。というのは、サマリア人とユダヤ人は敵対関係にあったので、こう言ったわけです。

イエス様は彼女にこう答えます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」彼女は今、自分の目の前にいる人が「水を飲ませてください」と言ったのに、どうして、その人が私に生きた水を与えることができるのだろうと不思議に思ったのです。そこで、イエス様はこう仰いました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」泉というのは湧き出てきます。ですから、イエス様が与える水は、よどんでいない、いつも流れている水です。サマリアの女は、その人の内で泉となり、決して渇かない、湧き出るそんな水があるなら、「その水をください」と願いました(15節)。

2025年10月12日「友なるイエス、父なる神」

○朝来野泰宏 ヨハネ15章14-15、マタイ18章2-3

中東やアメリカで出会った友人たちがイエスを友達のように呼ぶことに驚いたことがあります。「わたしはあなた方を友と呼ぶ(ヨハネ15:15)」、このイエスの言葉を受け止めてもっとイエスと親しく友達として接したいと思わされました。イエスはまた「子供のようにならなければ、決して天国に入ることはできない(マタイ18:2-3)」と言われました。子供は親を無条件に信頼することで生きています。人は大人になっても子供の心をどこかに持ち続けています。その心にたち返り、父なる神の子として生きなさい、というのがイエスの教えだと思います。

2025年10月5日「天から来られる方」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書3章31ー36節

31節に「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。洗礼者ヨハネは、自分は地から出た者、地に属する者なので、地上のことしか語れないのですが、主イエスは天から来られた方なので、天において、見聞きしたことを証しすることができると言うのです(32節)。だから、ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言ったわけです。

ところが、32節後半には「だれもその証しを受け入れない」とあります。主イエスがこの世に来られ、神の言葉を語り、神の愛を告げ知らせても、人間はそれを受け入れないのです。しかし、主イエスの救いの証しを聞いても受け入れない人々が多い中で、それを受け入れる人がいるのです。そのことについて、33節に「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」と述べられています。当時、教会は主イエスが語る救いの証しを受け入れ、神が真実であることを確認したのです、なぜなら、主イエスを遣わされたのは、父なる神であられるからです。また、私たちも、聖霊の助けをいただいて、神の真実を受け入れることができたのです(34節)。

2025年9月28日「主を誇る幸い」

○藤盛  純子牧師 ローマの信徒への手紙2章17ー29節

29節「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」普通、「自分を誇れる」ことは人間の成長にとって大事なことです。けれども使徒パウロは、NOと言います。「自分を誇る」生き方は、いつか破綻してしまうからです。ユダヤ人は、律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮りました。神の民であるしるしの「割礼」も、律法を破れば意味がありません。神から律法を与えられたユダヤ人たちは、自らを「神から選ばれた民」だと愛しましたが、「隣人を愛せ」という律法を守れず、他の民族を見下しました。私たちは、主の霊によって心に割礼を施された時、真の意味で神の民となります。「主を誇る」とは、自分が罪深く無力であることを認め、主に信頼し、困難の中で祈ることです。自分を無にして、隣人に仕え、神に感謝することです。私たちは罪人ですが、同時に神の霊の割礼を心に施されているので、自分を誇る誘惑に勝ち、神を誇る者とされるのです。