2026年2月1日「永遠の命の言葉」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章51ー71節

イエス様の周りには、多くの弟子たちがいました。彼らはイエス様の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という言葉を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました。イエス様はご自分の言葉を受け入れることができない弟子たちに向けて、こう仰います。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(63)

イエス様の言葉が霊であり、命であるというのは、天から与えられた言葉、救いの言葉だということです。他方、「肉は何の役にも立たない」とは、自分の知恵や常識で、イエス様の言葉を聞くならば、到底受け入れることができないということです。このことは、66節に「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあるように、当時、ヨハネ共同体、即ち教会の中に大きな問題でした。たくさんの弟子たちが離れ去っていく中、イエス様は残った十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」とおっしゃいました。すると、ペトロは十二人を代表して答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(68)ここには、イエス様が語る永遠の命の言葉をもっと聞きたいというペトロの願いが込められています。また、神様は永遠の命の言葉を持っておられるイエス様を求めるようにと願って、私たち一人ひとりをこの礼拝へと招いてくださっています。感謝です。

2026年1月25日「わたしのもとに来る人」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章41ー50節

イエス様は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と仰いました。そして、ご自分こそが天から降って来て、私たちの命を養ってくださる命のパンであると宣言なさったのです。これを聞いたユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と言って、つぶやき始めたのです(41-42節)。イエス様はその彼らのつぶやきをよくご覧になった上で、こう言われました。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(43-44節)イエス様は、今、あなたがたが私のもとにいるのは、私をお遣わしになった父が、あなたがたを引き寄せてくださったのだと言うのです。

続いて、「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」とあります(45-46節)。ここでイエス様は、預言書の言葉を引用しながら、あなたがたが今、わたしのもとに来ているのは、神によって、教えられているからではないか。父から聞いて学んだからではないか、というのです。

私たちが確かに、イエス様を神の子として信じることができるのは、神様が聖書を通して、私たちに語りかけ、教えてくださっているからです。その聖書の言葉によって、神は私たちをイエスのもとに引き寄せてくださるのです。また、イエス様はユダヤ人たちに、今あなたがたが見ているこの私は、神のもとから来た者で、父なる神を見たのだというのです。また、イエス様はこう仰います。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(57節)私たちは知識だけでイエス様を知っているのではありません。聖餐を通して、イエス様と私たちが結び合っていくのです。

2026年1月18日「命のパン」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章22ー40節

イエス様は「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とおっしゃいました。五千人の人を五つのパンと二匹の魚で満腹させたことは、大変な奇跡でした。これは、イエス様がまことの神の子である「しるし」でした。しかし、人々はその奇跡によってイエス様が神の子であるしるしを見ておらず、ただパンを食べて満腹したことだけを見つめていたのです。ですから、イエス様は「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と告げられたのです(27節)。

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(32、33節)ここで、 天の父なる神が与えるまことのパンは、世に命を与えるものだ。食べればなくなってしまうマナのようなものではない。それ以上に素晴らしいものだと言われたのです。これを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました(34節)。彼らには、食べるパンのことしか頭にありません。そこでイエス様は重ねておっしゃいました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」イエス様は「わたしが命のパンである」と仰いました。自分こそが、私たちの命を養ってくださる命のパンなのだとおっしゃいました。ですから、私たちに必要なのは、このイエス様のもとに行くことです。そしてイエス様を信じることです。

2026年1月11日「湖の上を歩くイエス」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章16ー21節

弟子たちは、船に乗って湖の向こう岸にあるカファルナウムの町に行こうとしました。周りはすでに暗くなっていました。この時、イエス様は祈るために、山に退いていたのです。弟子たちは船を出して、しばらく漕いでいくと、突然、強い風が吹いて、湖は荒れ始めました。このように、突然天気が変わったりするのは、ガリラヤ湖では珍しいことではなかったようです。弟子たちはとても不安になっていたと思います。暗い湖の中、また強い風が吹いて、湖が荒れ始めていたからです。

19節に「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」とあります。25ないし30スタディオンは、5キロ前後となります。ガリラヤ湖は、東西10キロ、南北20キロと言われますので、だいたいガリラヤ湖の真ん中のところにあるのです。もう戻ることができない。また湖が荒れているので前にも進むことができない、そういう状況でした。その時、イエス様が湖を歩いて来られて、語りかけてくださいました。「わたしだ。恐れることはない。」(20)。とても慰めに満ちた言葉です。このイエス様の言葉を聞いた弟子たちはどうだったのでしょうか。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(21)弟子たちはイエス様を船に迎え入れようとしたのです。つまり、イエス様の「わたしだ。恐れることはない。」という呼びかけに応えられたのです。そして、その呼びかけに応えたが故に、「船は目指す地に着いた」ということになります。私たちも恐れる時、イエス様の呼びかけに応えていくのではないでしょうか。

2026年1月4日「新しい年を迎えて」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章1ー15節

「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」(1節)この6章ではガリラヤに舞台が移っています。そして、イエス様はガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしています。また、時は「過越祭が近づいていた」頃でした。イエス様は山に登り、弟子たちと一緒に座っておりました。すると、そこに人たちが続々と集まって来て、五千人に及んだのです。

イエス様は大勢の人たちがご自分の方に向かって来るのを見て、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。すると、フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。また、別の弟子アンデレはこう言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(9節)この時、弟子たちは、イエス様が自分たちと一緒におられたのですが、そのことが見えなかったのです。だから、否定的になってしまったのです。11節でイエス様は「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、・・・」とあります。これは、私たち人間の浅い知恵が尽きたところから、イエス様の働きが始まることを示しています。私たちは、何か問題が起こった時に、まず祈るよりも、つい自分の浅い知恵に頼ってしまいがちです。でも、イエス様はそのような私たちと共におられ、私たちを養ってくださるのです。

2025年12月28日「神からの誉れを求める」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章41ー47節

 「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」(43節)ユダヤ人たちは聖書を通して、神からの証しを受け入れないのに、人間の言葉や証しは受け入れ、信じているというのです。45節に「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」とあります。あなたたちを、神に背いている者として父なる神に訴えるのはわたしではなく、むしろあなたたちが頼りにしているモーセなのだと、イエス様は仰いました。しかし、彼らはモーセの律法に照らせば、律法に訴えられても仕方がないのです。神への愛がないからです。42節に「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」とイエス様は仰いました。当時の教会は、この言葉を大事にしました。なぜなら、教会は罪赦された群れだからです。イエス様はすべての人に代わって、十字架で死んでくださったからです。「あなたがたの内には愛がない」と言われたイエス様は、御自分の御言葉をその身に引き受けてくださったのです。イエス様は人々の思いや期待に応えようとするのではなくて、父なる神の御心に従ったのです。その結果、イエス様は人々から罵られ、十字架につけられて殺されました。それは、イエス様が唯一の神からの誉れを求めて地上を歩まれたからです。

2025年12月21日「御子を礼拝する喜び」

○金 南錫牧師 マタイによる福音書2章1ー11節

占星術の学者たちは特別な星の動きによって、ユダヤの国で新しい王がお生まれになったことを確信しました。そして、彼らは遠い東の方からエルサレムまでやって来ました。ところが、ヘロデ王は学者たちから「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と聞いて不安を抱きます。

ヘロデ王によって呼び集められた祭司長たちや律法学者たちは、新しい王が生まれた場所は「ユダヤのベツレヘムです」と言い当てました。これを聞いて占星術の学者たちは、エルサレムからベツレヘムに向かっていきます。その時に、自分たちが東の方で見た星が再び現れたので、喜びにあふれました。やがて星は一軒の家の上に止まり、学者たちは家の中に入ると、そこには母マリアとともに、幼子イエスがおられました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11b)。この聖書が告げる出来事は、後の教会に大きな意味を与えることになりました。救い主はユダヤ人だけではなく、すべての人の救い主であるという信仰がそこから生まれるのです。

2025年12月14日『イエスについての証し」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章31ー40節

イエス様は「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と仰います。それは、誰のことでしょうか。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」(33)確かに洗礼者ヨハネはイエス様を証ししました。彼はこれから、私の後にどんなに素晴らしい救い主が来るか、皆に伝えました。

「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」(36)洗礼者ヨハネは素晴らしい証し人でした。でもそれに勝る証しがあると言うのです。それは何か。わたしが行っている業、つまり、イエス様が行っている業そのものが、イエスについて証ししています。そのイエス様が行っている業とはイエス様の十字架と復活の御業です。また、イエス様はこう仰います。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」(37)父なる神様がイエス様のことを証ししてくださっています。私たちはその神様の証しを聖書を通して聞くことができます。イエス様はそのことについてはっきりと仰います。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(39)聖書は救い主であるイエス様について証しをしています。聖書がそう告げているから、私たちはそう信じることができるのです。

2025年12月7日「御子の権威」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章19ー30節

イエス様は安息日を破っただけではなく、神をご自分の父と呼び、自分と神を等しい者とされたから、神を冒瀆したと思ったユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとしました。そこでイエス様は「はっきり言っておく」という言葉を繰り返しながら、ご自分の権威について語られました。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」(19節)イエス様は神の子として父なる神のなさることをご覧になって、それを行われます。つまり、イエス様は父なる神の御心に従って、ご自分の行いをなさるということです。またイエス様は、父なる神のなさることだけを行われる理由として、「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」と説明しておられます(20節)。25節に「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」とあります。ここで「死んだ者」とは、霊的に死んだ者、神様から離れて死んだようになっていた者のことです。その死んだ者が聖書の言葉を通して、神の子の声を聞き、聞いた者は生きる。今がその時であると言うのです。聖書を通して、私に語られた聖書の言葉は、大きな力になります。なんと素晴らしいことでしょうか。