○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:YH)
ヨルダン川を渡る……全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は壁のように立つであろう。(ヨシュア記三章一三節)
ヨシュアと祭司たちにとって、ヨルダン川を渡ることは、信仰によって望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することでした。神の導きを疑う気持ちはありませんでした。魂の中に何か引っかかるものを感じるのならば、そのまま前進せずに明らかな道が与えられるまで待ちました。その御声を聞く、自分の意思などはない、小指より小さな信仰によって、自分の計画も目的も全て愛の神の御旨の中に注ぎ入れ、何も持たないが、神にあって全てを得ていました。ヨルダン川の水は壁のように立つでありましょう。不思議な解放感に満たされ、罪の綱からの解放、疑いと恐れからの解放、心配、重荷、悲しみ、不安、一切からの解放でした。神の力の奥底へと漕ぎ出し、しっかりと守り救われる。その力の奥底へと聖霊に全てを委ね、沈んでいきます。
自我を捨てるまでアブラハムは、イサクを献げました。「イサクから生まれる者があなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
聖霊が私たちを満たし、私たちは満たされ、完全にされます。私たちの魂の中にある光が陰ることなどあり得ません。すべてを委ねるという契約を守っている限り。
