不正な管理人の例えから 世の富を生かして神の愛を伝える ルカによる福音書一六章一~一三節

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:牧師 金 南錫)

 イエス様は弟子たちに、不正な管理人の例えを語られました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その男は主人の財産を管理していました。ところが、その管理人について、主人の財産を無駄遣いしているという告げ口がありました。そこで、主人は彼を呼びつけて「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言ったのです。管理人にとって、会計報告を出すというのは、罪を問われる大変なことでした。管理人は考えます。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう」ということで、思いついたことは「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」ということでした。
 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼び出します。そして、最初の人に問います。「わたしの主人にいくら借りがあるのか。」すると「油百バトス」と言います。一バトスは約二十三リットルですから、油百バトスというのは、油二千三百リットル、結構な量です。管理人は「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい」と言って、半分にしてやったのです。また別の人は「小麦百コロス」と言います。一コロスは、十バトスなので、二万三千リットルです。この人には、小麦百コロスを「八十コロスと書き直しなさい」と言ったのです。「主人に借りのある者を一人一人呼んで」とあるから、この二人だけではなくて、もっと何人もの人にそうやってあげたのだと思います。こうして、管理人は、この人たちに恩を売っておけば、自分が首になっても、将来自分の世話をしてくれるだろうと考えたのです。

 この時代においてどう振る舞えばよいか

 ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります(八節)。ここで主人は、イエス様のことを指しています。つまり、イエス様はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたことになります。なぜでしょうか。その理由について「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあります。「この世の子ら」は、神を信じていない人たち、ここで言えば「不正な管理人」のことです。一方、「光の子ら」は信仰を持っている弟子たちのことです。そして、その弟子たちよりも、神を信じていない人たちの方が、自分の仲間に対して、賢く振る舞っていると言うのです。「自分の仲間に対して」というのは「自分たちの世代に対して」という言葉でもあります。つまり、彼らは自分たちが生きる時代の中で、自分がどう振る舞えばよいか、その賢いやり方を分かっているということです。不正な管理人は、その代表として語られているのです。
 イエス様は続けてこうおっしゃいました。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(九節)。ここで「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というのは、神を信じない人と同じように、不正をしなさいということでしょうか。そうではないのです。ここで「不正にまみれた富」という言葉は、「この世の富」のことです。その富を使って、他の人が永遠の住まい、天の御国に入ることができるように、用いなさいという意味です。そうしておけば、私たちが人生でお金を使うことがなくなったとき、つまり私たちが死んだとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえるというのです。神の国、天の御国に入るときに、既に天に入った友が出迎えてくれるのだと、イエス様は言われたのです。このことを別の言葉で言うならば、この世の富を福音伝道のために用いなさい、神の愛を伝えるために用いなさいということなのです。

 佐倉教会を生み出したヘブジバ・ミッション

 今年、佐倉教会は創立百十九周年を迎えています。佐倉教会が今、この地に立っているのは、今から百十九年前にアメリカのヘブジバ・ミッションを支える信徒たちが献金をしてくれたからです。彼らは何とかして、日本の地に、特に日本の伝道未開拓地に生きる人たちにも、神様の愛を伝えたいと考えたのです。そして、ヘブジバ・ミッションという伝道団体からアグネス・グレンという婦人宣教師が派遣されました。でも、宣教師は無一文で行けるわけではありません。だから、宣教師を送り出すために、皆で献金をしようと思ったのでしょう。具体的には、アメリカから日本までの旅費が必要です。日本での滞在費も必要です。また、日本で日本語を勉強するための費用も必要です。さらには、住む家を購入する費用、生活費も必要です。このように、ヘブシバ・ミッションを支えるアメリカ教会の信徒たちが、日本でのアグネス・グレン宣教師の福音伝道の働きを覚えて献金をしてくれたから、佐倉教会が生み出されました。そして、今私たちはここに集って、礼拝を献げているのです。宣教師が来てくれたから、また、その宣教師を派遣するためにアメリカ教会の信徒たちが献金を献げてくれたから、佐倉教会があります。
 また、その後、佐倉教会の信仰の先達が献金を献げてくれたから、今私たちはここにいるのです。そしてそれと同じように、私たちも後に続く誰かのために、「この世の富」を使うことができるのです。それが、教会の様々な働きのために、献げる献金ではないでしょうか。すると、その一つ一つの働きによって、救われた人たちがやがて天において私たちを迎えてくれると言うのです。

 神のものを神のご栄光のために用いる

 イエス様は言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」(一〇~一二節)。ここで、ごく小さな事、不正にまみれた富というのは、「他人のもの」と言われています。私たちが持っている富は、神のものだということです。本来、富は神様のものです。それを神様のご栄光のために用いることができるならば、それは本当に価値あるものをあなたがたのものとして与えてくださるというのです。そして、本当に価値あるもの、それは正に天の御国、永遠の命です。友を神の国、天の御国に導くために、与えられた富を用いていく。それこそ富に仕えるのではなく、富を生かして、神に仕える生き方なのです。その生き方に忠実であることが私たちに求められているのです。