2022年4月3日「主がヨセフと共に」

○金 南錫牧師   創世記39章1-23節

 エジプトに奴隷として売られてしまったヨセフに「主がヨセフと共におられた」とは何という慰めでしょうか。主が彼と共におられたということは、ヨセフもまた神様に信頼し、祈り続けていたことを意味しています。主人ポティファルは、ヨセフがいることで、いろんなことがうまく回っていることに気がついたようです。そして、それはヨセフが信じる神様のおかげだ、ということが分かります。ヨセフは主人から信頼を得て、財産の管理から、すべてのことを任せられるようになりました。ただ、人はすべてがうまく行っている時に誘惑がやってきます。顔も美しく、体つきも優れていたヨセフに、主人の妻は「毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった」というのです(10節)。

 このことでヨセフは濡れ衣を着せられ、監獄に入れられました。しかし、ヨセフは牢の中でも、自分の置かれた立場を受け入れて、そこで自分にできることを精一杯やっていくのです。やがて監守長は、ヨセフに囚人たちの世話を任されるようになりました。このようにヨセフは、ポティファルの家でも、監獄に入れられた後も、置かれたところで最善を尽くしたのです。どうしてそれができたのでしょうか。ともにおられる神様を見つめていたからです。私たちも今置かれているところで、神様を見つめながら精一杯生きて行こうではありませんか。