2021年9月26日「イサクとイシュマエル」

○金 南錫牧師  創世記21章1-21節

 今日の聖書箇所は、アブラハムとサラの間に約束の子が生まれたところから始まっています。いわゆるイサクの誕生です。1節、2節にあるように、主なる神は「約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ」のです。アブラハムが100歳、サラが90歳の時でした。聖書は、「それは、神が約束されていた時期であった」と記しています。

 アブラハムは、生まれた子の名前を「イサク」と名付けました。イサクというのは「笑う」という意味で、イサクが与えられたことは、喜びの笑いをもたらす出来事でした。6節に、サラがこう言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」ここには、サラの喜びの声が充満して、サラが心から笑い、聞く者は皆、わたしと笑いと共にしてくれるでしょう、という喜びの笑いと、イサクという名は結びつくのだ、と言っています。また、サラは言いました。「誰がアブラハムに言いえたでしょう。サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために」(7節)。ここには、私のような老人が子どもに乳を呑ませようとは、誰も思っていなかったでしょうが、子どもを産んで、乳を呑ませることができて、喜んでいる姿が目に浮かびます。

 しかし、これでめでたしとはいきません。8節から10節までを見ますと、イサクが乳離れしたころ、サラは、自分の女奴隷ハガルがアブラハムとの間に産んだイシュマエルが、イサクをからかっているのを見て、夫アブラハムに「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」と訴えました。アブラハムは非常に苦しみました。イシュマエルも自分の子だからです。ここで、神様はアブラハムにサラに従うように命じます。12節、13節に「神はアブラハムに言われた。『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ』」とある通りです。

 結局、アブラハムは苦しみつつも、ハガルとイシュマエル親子を自分のもとから追い出します。ハガルがパンと水の革袋を背負い、わが子を連れて出ていく姿は、想像するだけで切なくなります。途中、荒れ野でさまようハガルは、革袋の水が無くなると、瀕死の状態に陥ったイシュマエルを一本の灌木の下に寝かせ、 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、少し離れたところに座り込みます。そして声をあげて泣いたのです(16節)。「荒れ野をさまよう」とは、行く先がないということです。イサクが生まれた瞬間から、ハガルもイシュマエルもこの地上に存在する意味、生きる理由を失いました。でも、神様はイシュマエルの泣き声を聞いてくださいました(17節)。イシュマエルという名前は、「神は(エル)、聞かれる(イシュマ)」という意味です。神様はイシュマエルの泣き声を聞かれました。彼の苦しみ、悲しみに目を向けてくださったのです。なぜなら彼もアブラハムの子として、アブラハムの祝福のうちにあるからです。