2021年3月21日「カインとアベル」

○金 南錫牧師 創世記4章1-16節

 エデンの園から追放されたアダムとエバに、二人の男の子が生まれました。最初の子はカイン、次の子はアベルと名付けられました。兄弟は成長して、兄カインは「土を耕す者」、弟アベルは「羊を飼う者」になりました。しかし、あるとき、彼らの間に悲劇が起こりました。

 二人はそれぞれの働きの成果を神に献げ物としました。ところが、この時、主なる神は弟アベルの献げ物に目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。なぜ神様はカインの献げ物を無視するような態度をお示しになったのでしょうか。創世記にはその理由が一切語られていません。ただ、カインについては「土の実り」を持ってきたとしか記されていないのに、アベルのほうは「羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた」と丁寧に記されています。つまり、アベルは神への献げ物に対して、自分の持っている羊から選んだのです。肥えた初子を選んで神に献げました。それは、アベルが神に一番自分にとって大事なものを献げたという意味です。ですから、ある人は、献げ物をする二人の心のあり方に違いがあったのであろうと言います。つまり、献げ物の良し悪しよりも、そこに込められた心、その精神が問題になっていると思わざるを得ません。

 しかしカインは、なぜ神様がアベルだけを顧みられるのか理解できません。カインは「激しく怒って顔を伏せ」ました(5節)。そして、8節に「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」というところまで行なってしまいます。

 神様は弟アベルを殺したカインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねます(9節)。しかし、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答え、弟アベルとの関係を断ち切ります。私たち人間は他者との出会いの中で、自分になっていくことのできる存在です。ところが、カインのように「知りません」と言って、兄弟を否定する生き方は、人生が祝福されたものとなっていくことではなく、「呪われる者」となっていくことを示しています(11節)。また、12節に「土はもはやお前のために作物を産み出すことはない」とは、働いても、真の実りのない人生になってしますことを暗示します。さらに、兄弟を否定することで、相手を失い、自己破壊に向かっていくのです。「地上をさまよい、さすらう者」となっていくのです(12節)。

 14節で、カインは「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と嘆きますが、神様はカインに「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と、カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられます(15節)。このしるしは、カインが兄弟を否定し、殺してしまったというしるしであると同時に、それでも、そのような人間を、神様は守っているしるしです。