2021年11月14日「なぜ、ヤコブなのか」

○金 南錫牧師  創世記25章19-34節

 イサクの妻リベカは身ごもりました。先に出てきた子は「赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので」、エサウと名付けられました。一方その後に出てきた子は、先に出て来たエサウのかかとをつかんでいました。その様子から、「ヤコブ」と名付けられました。

 ある時、エサウが疲れきって野原から帰って来た時、弟ヤコブは天幕の中でレンズ豆の煮物をしていました。エサウはヤコブの煮ているうまそうな煮物を見るや否や、「そこの赤いものを食べさせてほしい」と要求します。それを聞いてヤコブは、すかさずこう言いました。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」(31節)。兄が持っている長子の権利と引き換えるなら、この煮物を与えると条件を出しました。エサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答え、長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。こうして、アブラハム、イサクと引き継がれていった神の祝福は、兄エサウではなく、弟ヤコブの方に流れていきます。

 しかし、ここで人によっては「なぜ、ヤコブなのか」と疑問を持つ人もいます。23節に「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」とあります。この時、エサウもヤコブもまだ生まれていないのですから、エサウの何かが悪く、ヤコブの何かが良いという以前のことです。この時既に、神様は弟ヤコブが祝福を受けるようになることを語られました。ここに「神様の一方的な選び」というものがあります。