2019年4月21日「終わりからはじまりへ」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書16章1-8節

 金曜日の午後3時に、イエス様が十字架上で、息を引き取られました。そして、午後6時までのわずかの時間に、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、墓に納めました。1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りにいくために香料を買った」とあります。
 イエス様のご遺体を十分に処置する時間がなかったため、この女性たちはもう一度イエス様の墓の中に入って、香料を塗って差し上げようとしました。ですから、この三人の女性は土曜日の安息日が終わるとすぐに、香料を買い求め、「主の初めの日」即ち、日曜日の早朝、すぐにイエスの墓に出かけました。
 天使である若者が彼女たちに「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。…あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」と告げます(6節)。
 弟子たちにとって、ガリラヤはイエスに出会い、共に宣教活動がなされたところでした。墓という人生の終わりからもう一回あなたの人生のスタートの場所、つまり原点に立ち返るように、神様は復活されたイエスを通して招いてくださるのです。

2019年4月14日「天が裂けて」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章1-11節

 マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始めています。また、その後すぐに主の道を備えるものとして、ユダヤの荒野で罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えるバプテスマのヨハネを紹介します。
 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて『霊』が鳩のようにご自分に下って来るのを、ご覧になった」とあります(9、8節)。
 マルコによる福音書は今「福音の初め」、つまり神の子イエス・キリストを通して行われた救いの福音がどのように始まったのか、それを記録しています。
 その福音の開始点に「天が裂けて」とあります。これは、主イエスが受けた洗礼とは神の御心のために、そして人類の救いのために、ご自分が「引き裂かれる」という決断のしるしであることを表します。福音はこのように、主イエスの「引き裂かれる」ということへの決断と共に始まったのです。

2019年4月7日「神が望んでおられること」

○金 南錫牧師
 テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節

 本日の聖書個所において、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と命じています。そして、これこそ「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。
 「望んでおられること」とは、原語では「テレイマ」と言って、神の「ご意志」と訳すことができます。つまり、私たちに対する神のご意志は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」ということです。
 では、私たちはどのようにして、いつも喜ぶことができるでしょうか。それは、聖霊に満たされると、失敗のときも、誘惑のときもいつも喜ぶことができます。時間を超えて、いつも喜ぶことができるようになるのです。
 また、私たちは祈る生活をしながらも、祈りを休むことがあります。私たちは望んでいることが叶わなかったとき、落胆するようになるのです。しかし、祈りは感情的な問題ではなく、従順の問題であり、意志の問題です。神のご意志が「絶えず祈りなさい」ということなので、それに従って祈るわけです。祈りの人は一日の中で何回も変わってしまう感情を超えなければならないと思います。
 また、感謝の人となるためには、キリスト・イエスにおいて、状況を超えなければなりません。感謝の人はどんな状況に置かれても感謝することができるのです。

2019年3月31日「モーセの祈り」

○金 南錫牧師
 出エジプト記32章1-35節
 奴隷生活のエジプトから脱出して三か月、イスラエルの民は神の導きとモーセの指導によって、シナイ山までたどり着きました。しかし、モーセがシナイ山に登ったきり帰って来ないので、イスラエルの民全体が不安でした。彼らはアロンに「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と願います(1節)。アロンはその願いに応えて、金の若い雄牛を造ったのです(4節)。
 山を下りてくると、モーセは若い雄牛の像と踊っている人々を見ました(19節)。モーセは、神にこう言います。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(31節、32節)。モーセは、偶像礼拝という大きな罪を犯したイスラエルの民のために、自分の命と引き替えに、イスラエルの赦しを願ったのです。このモーセの執り成しの祈りは受けられて、イスラエルの民は罪を赦され、神の民として歩み続けることができたのです。モーセは祈りの人でした。モーセの死を賭けた祈りがイスラエルの民を救うことになったのです。

2019年3月17日「ローマに着いたパウロ」

○金 南錫牧師
(使徒言行録28章1-16節)

 パウロが一緒に船に乗り合わせた人々に「元気を出しなさい。わたしは神を信じます。私たちは必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」と励ました通りに(27:26)、船はマルタという小さな島に漂着しました。島の住民はすぐに火をたいて、濡れた体を乾かし、暖めることができるようにしてくれました。そのとき、パウロが集めた一束の枯れ枝をたき火にくべました。すると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、パウロの手に絡みついたのです。

 島の人々は「この人はきっと人殺しに違いない」(4節)と言い合い、「正義の女神」が蝮によって罰を与えたのだと判断したのです。彼らはパウロの身体が膨れ上がるか、急に倒れて死ぬか、としばらく様子を伺っても、パウロの身体には何の変化も起こりませんでした。

 それで島の人々は考えを変え、今度「この人は神だ」と言い出したのです。島の人々は良いことが起きればそれは神のお陰であり、悪いことが起きればそれは神様の罰であると信じました。

 それに対して、パウロたちは思いがけない暴風に遭って、マルタ島に流れ着いたのですが、島の人たちとよい関係を築き上げました。ですから、「彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた」のです(10節)。

 ローマ書8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。人生の回り道のときに、私たちはそれを無駄だと思いがちですが、そういうときこそ、万事が益となるように、働いてくださる神に委ねていく信仰が必要です。