2019年8月18日「成長する神の国」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書4章26-34節

 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」(26、27節)。
 種は土にまかれたときから、どのように成長するのか、すべてが隠されています。イエス様は種が土にまかれたときから、勝手に芽を出し、一人でに実を結ぶと言われます。
 同じように、神の国も神ご自身の業によって、成長していくのです。ですから、私たちは思い煩うことなく、神ご自身が前進させてくださることを信じて待ち望み、すべてをゆだねていく。それが大事なのです。
 しかし、私たちの現実の歩みは、神に支えられ、前に進められているのに、すぐにそれを忘れてしまいます。そして、自分の力に頼ったり、すぐに不安になったりします。種まきから収穫までの期間が隠されているので、その間、不安や戸惑い、また疑いや思い煩いでたまらないのです。
 しかし、私たちには理解できない神様の時があります。今私たちが自分の思いや時の流れを、神の思い、神の時の流れに合流させて見てはいかがでしょうか。
 成長の歩みが遅いとくよくよ悩むことはやめて、実ることができるようにしてくださる神の時の流れに自分のすべてをゆだねていきたいものです。

2019年8月11日「ともし火と秤」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書4章21-25節

 ともし火のたとえは、「神の国」に対するたとえです。21節に「ともし火を持ってくるのは」とありますが、直訳すれば「ともし火がやって来るのは」となります。つまり、神の国は向こうからやって来たのです。
 歴史の中で、御子なる主イエスを通して、目の前に現れたのです。ですから、ともし火は主イエスご自身を指しています。主イエスは、すでに神の国、神のご支配を実現するために、この世に来て下さいました。
 そして、主イエスによって示された「神の国」は、燭台の上に置かれて周囲を照らすともし火と同じように、必ず、あらわになり、公になるのです(22節)。
 教会は、この光を「キリスト」と捉えます。キリストである主イエスはまことの光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。ところが、御言葉や、主イエスが与えてくださった救いの恵みを伝えていくというのは、いつでも相手に喜ばれ感謝されるとは限らないのです。むしろ、無駄なことをしているのではないか、そう思うこともあるのです。
 しかし、主イエスは「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と告げられます(25節)。これは主イエスの約束です。救いの恵み、信仰が与えられ、それを喜び、伝える者は、更に与えられるのです。

2019年8月4日「種を蒔く人」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書4章1-20節

 ある人が、種まきに出て行きました。当時の種まきは、まずたくさんの種をつかんで、大胆にばらまき、その後で、耕したそうです。従って、種は道端、石だらけで土の少ない所、茨の中、良い土地など、様々なところに落ちます。
 このたとえは、神の言葉である種をまかれた土地、つまり、神の言葉を聴いた人の状態によって、種がどのようになるか、ということが語られているのです。私たちは、どんな土地に当てはまるのでしょうか。
 20節に「良い土地にまかれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」とあります。「聞いて受け入れる」というのはただ聞くだけではなく、神の言葉を自分の中に受け入れ続けることです。
 種をまく人である神様は、実を結ばない種が多くあることを知りながらも、忍耐強く種をまき続けてくださるのです。
 分け隔てなくすべての人たち一人一人の中に主イエスの御言葉はまかれています。それが実を結ばないからと言って、神様は何も私たちを責めることもなく、私がどれだけ御言葉に従ったか、努力したかによるのではなく、太陽を昇らせ、雨を降らせ、私たちが気付かないところで根を生えさせ、葉をつけさせ、実を結ばせてくださるのです。

2019年7月28日「神の家族」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書3章31-35節

 イエス様が御言葉を伝えるとき、イエスの母や兄弟たちは外に立って、人をやってイエス様を呼ばせたのです。それに比べて、32節の前半に「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」とあります。立っている人はイエス様の母や兄弟たちのような血縁の人たちです。彼らは中に入らなければならないのに、外に立っているのです。
 次に、32節の後半に「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」とあります。イエス様の家族は、中に入らず外で探しているということです。自分たちはその中に入りたくないと、拒否しているのです。
 ここで、イエス様が神の福音を宣べ伝える時、血縁の人たちは戸惑ったということが分かります。
 それで、イエス様は血縁の家族があるにもかかわらず、新しい家族を創られたのです。イエス様は、周りに座っている人たちに向けて、あなたたちが私の母であり、兄弟であると言われました(34、35節)。イエス様の周りに座っている人たちの中には、男性も女性も、ユダヤ人も異邦人も、集まっていました。イエス様は人間が作っていた壁を打ち壊したのです。
 中に入って、神様の言葉を聞いているか、イエス様の言葉を傾聴し、近づいてくるか、それをご覧になられたのです。

2019年7月21日「イエスとベルゼブル」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書3章20-30節

 12人の弟子を任命されてから、イエス様が家に戻られました。これまで、イエス様は、もう神の国が始まったので、今までの生き方を変えて、福音を信じなさいと宣べ伝えました。そして、この神の御支配のしるしとして、力ある癒しの業を行なっておられました。そのようなイエス様の働きを聞いた群衆が、次から次へとイエス様の下に集まって来たのです。
 聖書には、イエス様と弟子たちが「食事をする暇もないほどであった」と記しています。イエス様にとっては、弱さの中にある人々に仕え、救いの業をなさることが、食事をする暇もないほどになっても、喜びと満足を得ることでした。
 しかし、身内の人たちと律法学者たちは、イエス様が語る福音を理解することができませんでした。律法学者たちは、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言って、イエス様を強く批判しました。彼らは、群衆が律法の専門家である自分たちのところではなく、皆イエス様のところに行ってしまうので、病を癒したりするイエス様の力を悪霊に由来する力だと、批判したのです。
 彼らはイエス様のことをねたんだのです。ここに、私たち誰もが持つねたみ、素直になれない姿があるのではないでしょうか。

2019年7月14日「神様の鉛筆」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書3章7-19節

 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」(13節)。
 イエス様にとって、山は祈りの場所です。このとき、イエス様は祈りの中で、「これと思う人々」を呼び寄せられました。口語訳では「御心にかなった者たちを呼び寄せられた」とあります。つまり、12人の弟子たちは、はっきりとしたイエスの思い、神の御心に従って選ばれた者たちです。
 ところが、選ばれた12人の弟子たちは、当時のユダヤ人社会において、有能な人材だったかと言えば、そうではありませんでした。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネのような漁師たちがいれば、ユダヤ人社会の中で忌み嫌われていたマタイのような徴税人もいました。また、「雷の子ら」というあだ名が名付けられるほど、すぐ怒りっぽくなる人たちもいました。そして、イエスを裏切ったユダも含まれているのです。
 私たちはそれぞれに足りない部分、弱さを持っています。しかし、イエス様はそのような私たちを「これと思う者」、「御心にかなう者」として受け入れてくださっているのです。決して弟子としてふさわしいから選ばれたのではなく、あれも足りない、これもできない私たちと知りつつ、なお受け入れてくださっているのです。
 この神様に私たちの人生を書いてもらう、選ばれた人生となりますように。

2019年7月7日「真ん中に立ちなさい」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書3章1-6節

 ファリサイ派の人々は、イエス様が安息日に片手の萎えた人の病気をいやされるかどうか、注目していました。それは重大な律法違反だとされていたからです。
 しかし、イエス様はあえて癒されるのです。イエス様は手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われました(3節)。そして、ファリサイ派の人々に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言われました。
 彼らは安息日に善を行うこと、命を救うことが律法で許されていることとわかり切っています。しかし、彼らは黙っていたのです。
 イエス様は、彼らのかたくなな心を悲しみながら、手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。伸ばすと、手は元どおりになったのです。
 クリスチャンは一面、頑固であることが必要です。信仰のためには決して譲れないものを持っていなければならないからです。しかし、かたくなな心はどこかで打ち砕かれなければならないのです。

2019年6月30日「安息日の主」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章23-28節

 本文に出て来るファリサイ派の人たちは、律法をしっかり守ろうとしました。そのために選んだ道は、細則を作り、それを一つ一つ守り抜くということでした。確かに分かりやすい方法です。しかし、律法を厳守しようとするあまり、細則がさらに細分化され、律法が定めていた精神がどこにあったのか、忘れてしまったのです。
 ある安息日に、イエス様が麦畑を通って行かれると、一緒にいた弟子たちはお腹が空いていたのか、麦の穂を摘み始めました。それを見たファリサイ派の人々が、イエスに「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と非難したのです。
 ここで、ファリサイ派の人々が咎めているのは、麦の穂を摘む行為を、「安息日」に行なった、ということです。イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われました(27節)。
 安息日は、神が人のために何をしたのか、神の創造の御業、救いの御業を思い起こして、感謝し、喜び祝う日です。私たちはどのような思いで、毎週、主の日を迎え、過ごしているのでしょうか。
 主日の礼拝は、行かなくてはならないものではありません。それでは、人のための安息日ではなく、律法のための安息日になってしまいます。
 主日の礼拝は、安息の主である主イエスとの交わりです。行かないと、もったいなくて惜しいものなのです。

2019年6月23日「断食と新しい革袋」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章18-22節

 人は年をとるにつれて、古い考えに固定されてしまい、中々新しいことを試みようとはしません。ですから、固定観念を捨てなければ、新しく挑戦することはできないのです。
 私たちの信仰生活も同じです。固定観念のような古い考えを捨てるとき、新しく注がれる神の恵みを受けることができます。洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちはしばしば断食をしていました。ところが、イエスの弟子たちは断食をするどころか、しょっちゅう、徴税人や罪人と食べたり、飲んだりしているので、「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか」と問うています。
 その問いかけに、イエス様はご自分を花婿に例え、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と言われました。そして、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われています(22節)。
 主イエスがこの世に来られたことによって、古い旧約は終わって、まったく新しい時代が始まったのです。ですから、福音を聞き、受け入れる私たちもまた、新しい革袋にならなければならないのです。そのために、固定観念や自分だけの狭い考えではなく、主イエスのしなやかさを持つ必要があります。

2019年6月16日「医者と病人」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章13-17節

 私たちの信仰生活には、神様を見失い、繰り返し、間違った場所で探していることはないでしょうか。そのとき、自分の頑なさに蓋をして、どんなに周りを探してみても、あまり役に立ちません。神様を見失った場所で探さなくてはいけません。
 本日の聖書箇所は、神様を見失った人の話です。神様から離れ、心頑なになってしまった人のお話です。それは、徴税人や罪人のことではありません。ファリサイ派の律法学者たちのことです。
 イエス様は収税所に座っているレビを見かけて「わたしに従いなさい」と言われました。すると、レビは立ち上がって、すぐに主イエスに従ったのです。イエス様の招きに応えて弟子となったレビの家で、イエス様は弟子たちと多くの徴税人や罪人と共に食事の席に着かれました。彼らは当時、ユダヤ社会を根底から支えていた律法を守ることができず、不品行な生活を行っていると見なされました。
 この人たちがイエス様と一緒に食卓を囲んでいるということは、ファリサイ派の律法学者たちにとっては、理解しがたいことでした。そして、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と責めます。
 この批判に対して、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えます。
 ファリサイ派の律法学者たちは、自分たちにこそ主イエスが必要であるということに、気付かないのです。彼らは神を見失いました。神様にとって、正しい人は一人もいないのです。人間はその事に気づかないので、律法学者のように、文句を言いたくなってしまうのです。自分が罪人であることを分からないからです。
 私たちは、もう一度、罪人を招くために来られた主の慈しみと恵み、その愛を覚えたいものです。