2020年12月13日「シメオンの賛歌」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書2章22-35節

 今日の聖書箇所には、自分の人生の残り時間がどのようなものになるか決める模範となるような、シメオンという年老いた男が登場しています。
 彼は、神様の前に正しい人で信仰が厚く、神様を中心に生きてきた人でした。そして、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたのです。
 「慰められる」ことは「救われる」ことを意味しています。シメオンは、自分だけが救われることを願うのではなく、神の民イスラエル全体が救われ、慰められることを願い、救い主が到来するのを待ち望んでいました。
 シメオンは、「霊」に導かれて神殿の境内に入っていきました。すると、ちょうどその時に、幼子イエスを抱いたヨセフとマリアが来たのです。シメオンは、その幼子を腕に抱き、神をたたえたのです。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。
 シメオンはその生涯の終わりにおいて、主の平安のうちに死を迎えることのできる恵みを知らされ、万民のために神の救いが到来したことを証しする務めを、神様から与えられました。

2020年12月7日「この身に神の言葉が」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書1章26-38節

 マリアは、ナザレというガリラヤの町に住んでいました。彼女は同じ町に住む大工のヨセフと結婚の約束をしていました。
 結婚の日を楽しみにしていたマリアの前に天使が現れ、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と告げました。
 突然のことに、マリアはびっくりして、何のことを言われているのか分かりませんでした。すると、天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神様から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言われました。
 マリアはますます驚いて、天使に尋ねました。「わたしはまだ男の人を知りませんのに、どうして、そんなことがありえましょうか。」
 マリアには次々と疑問が浮かび上がりました。そのマリアに天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・神にできないことは何一つない」(35-37節)。
 マリアの疑問と不安は解消されたわけではありませんが、それでもマリアは、はしためのような自分を選んでくださった神に感謝し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と神に従う決心をしたのです(38節)。

2020年11月29日「主イエスの顕現」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書16章9-20節

 「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」(9節)。
 復活されたイエス様は、信じられないでいる人のところに近づき、現れてくださいました。
 マグダラのマリアはイエス様の十字架を遠くから見守り、イエス様に油を塗りに行くために、墓へ向かいました。しかし、イエス様のなきがらがそこになかったのです。その代わりに、天使のような若者の声が響きました。
 「驚くことはない。あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
 マグダラのマリアはその墓を出て逃げてしまったのです。あまりにも恐ろしかったので、「だれにも何も言わなかった」とあります(8節)。
 皆逃げてしまった弟子たちよりもイエス様を愛していたように見えたマグダラのマリアも、イエス様のことを信じていなかったのです。
 そのマリアのところへ、復活したイエス様がやって来られました。すると、「だれにも何も言わなかった」マリアが立ち上がって口を開き、語る者となったのです。マリアは泣き悲しんでいる人たちのところへ行って、復活したイエスのことを知らせたのです。

2020年11月22日「イエスの復活」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書15章42-16章8節

 イエス様の埋葬の役割を担ったのは、アリマタヤ出身のヨセフです。彼はイエス様の十字架の出来事に触れて、勇気を出し、総督ピラトのところに行って、イエスの遺体の引き取りを願い出たのです。
 ピラトは百人隊長を呼び寄せて、本当に死んでしまったかどうかを確かめた上で、遺体の引き渡しを許しました。それでアリマタヤのヨセフは、イエスの遺体を十字架から下ろして亜麻布で巻き、岩を掘って造った墓の中に納めました。墓の入り口には石を転がして蓋をしました。
 安息日が終わると、マグダラのマリアをはじめ女性の弟子たちがイエス様の遺体に油を塗るために、墓へ向かいました。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたのです。不思議にも、入り口の石が既にわきへ転がしてあったのです。しかも、天使のような若者が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と語ります。
 様々の時代において、教会員一人一人は、この主イエスの復活を信じて、歩んでこられました。信仰を命にして生きたのです。今、その信仰が私たちにも、受け継がれてきたのです。

2020年11月15日「わが神、わが神」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書15章33-41節

 いよいよイエス様の死の時が来ました。
 イエス様が十字架につけられたのは、朝の九時頃でした。周りを取り囲んだユダヤ人たちが大声でイエス様をののしる中、昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いたのです。
 その暗闇の中で、三時頃にイエス様は大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
 このイエス様の叫びを聞いて、十字架の周りにいた人たちはエリヤを呼んでいると勘違いをしました。そして、酸い葡萄酒をむりやり飲ませて、もう少し生かしておけばそのうちにエリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていようというのです。
 イエスが受けた肉体の苦しみや様々な侮辱以上に、最も大きな苦しみは神様から見捨てられる苦しみでした。
 イエス様が神に見捨てられたのは、私たちと同じ人間となって、神に捨てられることがどんなに恐ろしいことかを十字架上でお示しになったのです。
 多くの人にとって、十字架はつまずきでしかありません。しかしそれこそが、福音であります。

2020年11月8日「神の摂理」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書15章21-32節

 人生には思わぬ出会いがあって、そのために生き方が全く変わってしまうことがあります。キレネ人シモンもそういう経験をした人です。
 イエス様が総督ピラトの官邸からゴルゴタの丘まで、十字架を負われて歩まれました。 このとき、北アフリカのキレネに住んでいたユダヤ人、シモンという人が、たまたま通りかかったのです。
 彼はユダヤの過越の祭りに参加するために、エルサレムを訪れていたのです。そこで彼はイエス様の噂を聞いたのです。自分を神の子だと称する男が死刑になるというので、彼は見に行ったのでしょう。
 彼の前をイエス様が通られたとき、イエス様が突然倒れられました。そばにいた兵士が、何とか起きて歩かせようとしましたが、もう一歩も動けない様子でした。困り果てた兵士は、そこにいたシモンに、代わりに十字架を負うことを命じたのです。このことが、キレネ人シモンの人生を変えてしまいました。
 重い十字架を背負いながら、どうしてこのようなことがこの人に起こったのか、考えたと思います。そしてゴルゴタに着いて、イエス様が十字架につけられた一部始終をその目で見たのでしょう。その後、キレネ人シモンは、どうなったのでしょうか。
 彼がイエス様の十字架を負わされたことにより、その妻も、息子たちも、イエス様を信じる不思議な幸いへと導かれたのです。神の摂理でありました。

2020年11月1日「主と共にある人生」

○金 南錫牧師 詩編23編1-6節

 詩編23編はユダヤ教の人々も、クリスチャンたちにも何千年にもわたって愛唱されてきた聖書の御言葉です。この詩の冒頭に「賛歌、ダビデの詩」と書いてあります。
 この詩編の作者は、イスラエルの二代目の王様であるダビデという人です。ダビデは少年の頃、お父さんの手伝いをして羊の世話をしていた経験がありました。その経験を通して、羊飼いと羊の関係はまさに、神様と自分との関係に通じるところがあると見たのです。
 羊は、とても迷いやすい動物だそうです。ですから、羊飼いは羊の群れの先頭に立って羊を導く必要があります。この詩編が書かれたパレスチナでは、水や草が非常に少ない地域です。ですから、羊飼いが草のあるところや、水のあるところに羊を連れて行かないと、羊は生きることができませんでした。
 そうした羊の姿を、弱さを抱えた人々が自分自身と重ね合わせて読まれたので、この詩編が長い間にわたって愛唱されて来たのでしょう。
 この詩編はおそらくダビデが晩年になって書いただろうと言われます。それは、主なる神が羊飼い、牧者になってくださったときに、「何も欠けることがない」(1節)、「わたしの杯を溢れさせてくださる」(5節)と告白しているからです。

2020年10月25日「兵士たちのあざけり」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章2-3節、マルコによる福音書15章16-20節

 イエス様はピラトによって十字架刑の判決を受け、むちで打たれてからローマ兵士たちに引き渡されました(15節)。
 当時のむちは、長い革ひもで、所々に鉛の破片が縫い付けられたので、むちで打たれるたびに、血が飛び散ったことは想像することができます。ローマの兵士たちは、どうせ死刑にされる人だからと、慰みものにしたのです。兵士たちは、イエス様を王様の格好をさせるために、紫の服を着せます。
 さらに、とげのある冠を編んでかぶらせます。彼らはイエス様の前にひざまずいたり、拝んだりし、「ユダヤ人の王、万歳」とからかいました。
 また、イエス様の頭を葦の棒で上から強くたたきます。そのとき、とげがイエス様の頭や額に突き刺さり、血が流れたことでしょう。
 では、イエス様は一体どうして、これほどまでに残酷で忌まわしいあり様を見させられるのでしょうか。このイエス様の受難の光景を見させられることによって、私たち人間は、どんな者であるか、それと同時に、神様はどのようなお方であり、主イエス・キリストはどのようなお方であられるかを、思い巡らすことになります。そのとき、信仰の思いを新たにしていくのです。

2020年10月18日「ピラトの死刑判決」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章11-12節、マルコによる福音書15章6-15節

 祭りの度ごとに、総督はユダヤの人々が願い出る囚人に恩赦を与えていました。そのとき、暴動を起こして人殺しをして投獄されていたバラバという囚人がいました。
 ピラトは、いつものように恩赦をしてほしいと願う群衆に「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました。それはイエスに罪がないことを分かっていたからです。
 しかし、祭司長たちはバラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました。そこで、ピラトは改めて「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と尋ねたのです。
 群衆は、それに対して「十字架につけろ」と叫びます。ピラトはさらに「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言いましたが、群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫びたてたのです。
 実はすべての人間が、その「十字架につけろ」と叫んだ群衆につながっているのです。私たちは聖書を通して、自分がどんなに罪ある者であるかを知らなければなりません。
 そして、十字架を見上げるとき、私たちは自分の深い罪を赦されてくださった主イエスを思い起こします。
 日々、私たちを生かす十字架を見上げ、十字架の言葉を聞いて歩んでまいりたいと願います。

2020年10月11日「イエスの沈黙」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章4-7節、マルコによる福音書15章1-5節

 ユダヤ人の最高法院ではイエス様に死刑の判決を下しましたが、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、死刑の判決はローマの総督の権限に委ねられていました。
 ですから、彼らは翌朝、イエス様を総督官邸に連れて行き、総督ピラトに死刑判決を下すように訴えました。
 しかし、彼らはイエス様を宗教的な冒とく罪で訴えると、ローマ帝国は、関与しないことを分かっていましたので、イエス様をローマ帝国への政治的な反乱罪として、嘘を言って訴えたのです。
 そういうわけで、ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と確認します。イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と一回だけ答えて、その後は何も言わないで、沈黙を守っていました。そのイエス様の対応に対して、「ピラトは不思議に思った」と記されています(5節)。
 イエス様は当然、御自分の正しさを主張できたところを、一切そうなさらず沈黙されました。それは、私たちを救うためでした。
 イエス様が私たちの罪をその身に負って、私たちの身代わりに十字架に死んでくださるということは、その不条理の中で神に信頼し続けることでした。
 神様は、そのイエス様を死人の中から、やがてよみがえらせるのです。イエス様の沈黙は信仰の沈黙でした。