2021年8月8日「サライとハガル」

○金 南錫牧師  創世記16章1-16節

 アブラムがカナンの地に移り住んでから、早くも十年の歳月が経過しました(3節)。その間、アブラムは跡継ぎとなる子どもを与えられるという神の約束を何度もいただいていました。しかし、いつまで待っても跡継ぎとなる子どもが生まれる気配はありません。サライは、当時の習慣に従って、女奴隷のハガルを夫のアブラムに差し出すことを提案したのです(2節)。この時、アブラムはどんな態度を取ったでしょうか。彼は神の約束を待ち続けることができませんでした。妻の言葉を受け入れ、女奴隷によって子どもを得ようとしたのです。

 間もなく、若いハガルは身ごもりました。ところが、それに伴って、別の悩みごとが生じました。ハガルは自分が跡継ぎの母親になることを予想して、次第に女主人であるサライを軽んじるようになりました(4節)。サライは、ハガルの態度を不愉快に思い、夫のアブラムに抗議の言葉を投げかけました(5節)。サライの心の中には嫉妬と不満が渦巻いていました。それはハガルへのいじめとなって溢れ出ることになります。両者の板挟みとなったアブラムの苦悩は深まるばかりでした。

 遂にアブラムは妻の言い分を受け入れ、サライに「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と答え、ハガルについての権利を委ねたのです(6節)。サライはアブラムの許可を盾にして、何かにつけてハガルにつらく当たるようになりました。ハガルはサライの仕打ちに耐えられなくなり、身重の体にもかかわらず、自分の故郷であるエジプトへ帰ろうと決心し、サライのもとから逃げ出しました(6節)。

 傷心のハガルは、カナンからエジプトに通じるシナイ半島のシュル街道をとぼとぼ歩き続けました。その時、主の御使いの声が聞こえてきたのです。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」(8節)。この言葉は「ここはあなたのいるべきところではない」というニュアンスが含まれています。つまり、これは本来あるべき所へ引き戻すための呼びかけです。そして「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と諭しました。

 さらに主の御使いは、ハガルにも「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と、アブラムに与えられたのと同じ祝福の約束を与えられたのです(10節)。そして、ハガルがやがて男の子を産むことを予告し、その子を「イシュマエル」と名付けるように命じます。この名前の意味は、11節後半に「主があなたの悩みをお聞きになられたから」とあるように、「主がお聞きになる」ということです。

 ハガルは13節で、自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイです」と言いました。「わたしを顧みられる神」という意味です。アブラムにもサライにも捨てられて一人ぼっちだと考えていた身重のハガルは、自分に目を留めていてくださる神と出会ったのです。見捨てられ、荒れ野の中で一人さまようハガルを探し出し、見守っておられる神は、今も生きておられ、悩みの中にいる私たちにも、目を留め、見守っておられるのです。日々の生活のさ中で「わたしを顧みられる神」とともに、信仰の旅路を続けるものでありたいと願います。

2021年7月25日「信仰による義」

○金 南錫牧師 創世記15章1-6節

 アブラムは今まで神様から「あなたを大いなる国民にし、あなたの子孫にこの土地を与える」と繰り返し言われて来ました。しかし、その土地を受け継ぐ子どもが与えられるという神の約束は、なかなか実現しないので、年老いたアブラムは不安でした。神様はそのアブラムを外に連れ出し、空の星を見させるのです。そこには満天の星が輝いていました。そして神様はこう告げます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる」(5節) 。この神の言葉に、アブラムはもう一度、神様を信じて生きていこうと思いました。

 6節に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。アブラムは、まだ一人の子どもも与えられていないのに、星のように、数えきれない子孫の繁栄を約束する主なる神を信じました。そのことが神によって義と認められたのです。ここで義と認められるというのは、「正しいと認められる」「良しとされる」ということです。今まで跡継ぎが生まれないということで、神に失望し、疑いの中に置かれていたのですが、アブラムは神を信じ、すべてを神に委ねます。これがアブラムの信仰であります。神様が良しとされた、義と認められた信仰なのです。

2021年7月18日「栄光はただ神に」

○金 南錫牧師 創世記14章17-24節

 アブラムがロトとその財産を取り返して、帰って来たとき、二人の王が出迎えました。その中、サレムの王であり、いと高き神の祭司であったメルキゼデクは、アブラムを祝福して「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」と言いました(19、20節)。メルキゼデクは、天地を創造された神の名においてアブラムに祝福を与えました。ところが、その祝福はアブラムがたたえられるのではなく、「敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」と語られているのです。つまり、「栄光はただ神に」ということです。

 一方で、アブラムを出迎えたもう一人、ソドムの王はアブラムに「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言いました。このソドムの王の提案に対して、アブラムは「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。それは、『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」と言って、戦争に勝って戦利品を受け取る権利を放棄しました。それは、ただ神様の栄光を損ねることがないためでした。アブラムは「わたしは何も要りません・・・」と、神様の栄光だけを願ったのです(24節)。

2021年7月11日「信仰による勝利」

○金 南錫牧師 創世記14章1-16節

 1節に出てくる四人の王たちと、2節に出てくる五人の王たちとの戦いがありました。五人の王たちはそれまでメソポタミアにある四人の王の一人、ケドルラオメルに服従していたのですが、十三年目に反乱を起こしました。そこで、十四年目に、ケドルラオメルとその味方の王たちが、反乱軍の鎮圧のために遠征して来たのです。

 この戦いは五人の王たちの敗北に終わり、戦争に負けたソドムとゴモラの町は略奪を受けたのです(11節)。この時ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも略奪を受け、財産もろとも連れ去られてしまったのです。14節に「アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した」とあります。一度は別れたもののロトと親類関係にあったアブラムは、ロトを心から愛しており、彼のことを忘れてはいませんでした。その甥ロトに対する愛のゆえに、ロトを助けようとして、追いかけて行ったのです。そして、「アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した」のです(16節)。私たちも主を仰ぎ見て、アブラムのように勇敢に信仰の戦いをするのではないでしょうか。

2021年7月4日「さあ、目を上げて」

○金 南錫牧師 創世記13章1-18節

 アブラムとロトはお互い大変豊かになって、多くの家畜を持つようになりました。ところが、家畜のために与える水や草が不足していくわけです。ついにアブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きました。アブラムは、争いを避けて、ロトに選択権を与えます。「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」と。

 ロトはカナンを捨てて、ヨルダンの低地の町々を選び、ソドムに移っていったのです。聖書はその理由として、そこが「主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っている」と記しています。他方、アブラムは、ロトが見捨てたカナンの地に留まりました。そのアブラムに対して、神様は「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と呼びかけます。その時、アブラムが何を見たのかについて、聖書には何も書かれていません。しかし、その神の呼びかけは、主を信頼する目で、もう一度今ある場所を見渡しなさいということです。アブラムはそこで「主の祭壇を築いた」のです(18節)。ご一緒に主の祭壇を築き、私たちのために主が何をなさったのか、それを思い起こしながら、感謝して生きたいものです。

2021年6月27日「エジプトに下るアブラム」

○金 南錫牧師 創世記12章10-20節

 アブラムは飢饉から逃れるために、一族とともに約束の地カナンを離れ、エジプトの地に下って行きました。しかし、主なる神はカナンの地に行くようにアブラムに命じましたが、その地からこの時エジプトに下るようには言われませんでした。なのに、アブラムは、目の前の状況を好転させることだけに心が奪われてしまい、神様に祈ることなく、自分の力と方法で生きようとして、エジプトに下って行きました。

 ところがその地ですぐにアブラムは、大きな試練に見舞われます。滞在先でアブラムの妻サライが美しい女性だと評判になって、それがエジプトの王、ファラオにも届きました。当時の権力者は、美しい女性がいますと他の人の妻であっても、その夫を殺して、その妻を奪い取ることが起きていました。アブラムは、この時にも、神様に祈りませんでした。「どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(13節)。アブラムは自分の身を守ろうとして、妻に「妹だ」と言わせるような、情けない姿をさらけ出してしまったのです。このアブラムの姿は、欠けの多い私たちの姿でもあります。

2021年6月20日「アブラムの旅立ち」

○金 南錫牧師 創世記12章1-9節

  アブラムの故郷はウルという町で、月の女神などを拝む偶像の町でした。ある時、父テラが家族と共にウルを離れ、カナンの地に向かって出発しました。しかし、高齢の父に代わって一族を統率したのは息子のアブラムでした。使徒言行録7章2節、3節に、アブラムについて、こう書いてあります。「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました」。このように神様は、偶像に満ちた町ウルで人生を送っていたアブラムに呼びかけ、「わたしが示す土地に行け」とお命じになりました。アブラムは神からの召しを受けたのです。ところが、父テラが途中のハランまで来て、その地で亡くなります。その時、神様がもう一度、アブラムに現れて言われました。それが、創世記12章1節から3節です。

  1節に「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」とあります。アブラムはもう一度、神からの召しを受けたのです。故郷のウルで「わたしが示す土地に行け」と語られた同じ言葉がまた、このハランで語られています。

 では、なぜ神様は繰り返してアブラムを呼び続けるのでしょうか。それは、神様がアブラムを祝福するためです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(2-3節)。この言葉には、アブラムを祝福しようとする神様の強い意志が感じられるのです。アブラムは神様の言葉に従って旅立ちました(4節)。私たちも神様からの呼びかけを感じる時に、その呼びかけに従っていきたいと思います

2021年6月13日「テラはハランで」

○金 南錫牧師 創世記11章10-32節

 本日の聖書箇所の創世記11章10節以下は、「セムの系図」が記されています。この系図には、セムからテラまで十代の名前が載せられています。最初のセムという人は、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトの長男に当たる人物です。このセムの子孫の中でも、「テラ」の家族のことが、27節以下に詳しく記されています。「テラ」はアブラムの父で、このアブラムから出る子孫がイスラエル民族となり、イスラエル民族から、救い主イエス・キリストが誕生するのです。

 テラの息子ハランはロトをもうけますが、父のテラより先に死にました。テラはそのことがショックだったからでしょうか、孫であるロトと、もう一人の息子アブラム、そして、アブラムの妻サライを連れて、故郷カルデアのウルを離れます。

 聖書にこう書いてあります。31節です。「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。」もともとテラがその家族とともに住んでいたのは「カルデアのウル」という現在のイラクにある場所でした。そこからカナンの地に向かって出て来たのに、途中のハランというところでとどまってしまいました。

 昔から、テラは「中途半端な信仰の人」と理解されて来ました。彼は偶像を仕える町カルデアのウルから離れて、ハランまでは頑張って来ました。しかし、カナンという目的地まで行かず、途中で諦めてしまったのです。「テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ」という言葉の中にはそういう意味が込められています(32節)。私たちの信仰生活も、中途半端で終わってしまうのではなく、天に召されるまで、信仰の歩みを全うしていけますように祈り願います。

2021年6月6日「天まで届く塔」

○金 南錫牧師 創世記11章1-9節

 本日の聖書箇所には、この世界に多くの言語があるのは何故か、という人間の素朴な疑問に答えようとするところでありますが、そこには、深い意味が隠されています。1節に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあるように、人々は同じ言葉を使い、広い一つの場所に住むようになりました。そして「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた」とあります(2節)。

 バラバラであった人々が一つの場所に集まって、共に力を合わせて生きるようになりました。さらに、彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と言いました(4節)。天とは神がおられる場所のことを象徴します。ですから、神がおられる高さにまで到達しようとすることは、人間が自分自身を神の座に据えようとすることで、人間の高慢さを表しています。

 神様は、自分たちの能力や知恵で、自分たちの高い塔を建てようとした人々を散らされました。そのために、彼らの言葉を混乱させたのです。「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(8節、9節)。

 バベルの地には、完成しない中途半端な塔がきっとしばらくの間は、残っていたことに違いありません。また、バベルの人々は中途半端なバベルの塔を見る度に、神なしの世界を作ろうとした時に起こった自分たちの惨めな姿に気付かされたのでしょう。人間が世界の主人公であることを明らかにしようと思って作ったバベルの塔でしたが、完成しなかったバベルの塔は、世界の主人公は神であることを明らかにするシンボルになりました。