2021年11月28日「祝福を奪い取ったヤコブ」

○金 南錫牧師  創世記26章34-27章29節

 イサクは年をとり、目がかすんできました。そこで長男のエサウを呼んで、最後の祝福を与えようとしました。ところがリベカは、次男のヤコブに祝福を受けさせようと策略を巡らします(5-17節)。ヤコブは母リベカに言われた通りに、エサウの晴れ着を着て、毛皮をまとって、美味しい料理をもって、お父さんのところに行きます。

 ヤコブが「長男のエサウです。どうぞ、わたしの獲物を召し上がり、祝福を与えてください」と言います。イサクはその息子を近寄らせて、「触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい」と言いました。イサクは触りながら、「声をヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ」と言い、もう一度、「お前は本当にわたしの子エサウなのだな」と問うと、「もちろんです」とヤコブは答えます。ここに、うそや偽りなど、ヤコブが犯した間違いがありました。こうして、父親を欺いたヤコブが、神様の祝福を受けることになりました。

2021年11月21日「イサクの生き方」

○金 南錫牧師  創世記26章1-33節

  イサクは飢饉に遭い、約束の地カナンを出て、豊かなエジプトに逃れようとしました。その時に、神様はイサクに現れて、ゲラルの地に寄留することを命じました。また、「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」と約束されます(4節)。この約束に励まされて、イサクはエジプトには行かないで、ゲラルの町に滞在することになります。

  イサクはゲラルの町で非常に「豊かになり、ますます富み栄える」ようになります(13節)。ところが、ゲラルの王アビメレクは、イサクがどんなに嫌がらせを受けて、井戸を奪われても、別の場所に移って、黙々と井戸を掘り続けた姿を見ていました。そして、ますます栄えていく様子を見ていたのです。アビメレクは、神がイサクと共におられることをよく分かったのです。それで、平和条約を結ぶことを申し出ます。イサクはその申し出を受け入れて、契約を結びました。ここに争わずに、忍耐をもって、平和を実現するイサクの生き方が示されています。

2021年11月14日「なぜ、ヤコブなのか」

○金 南錫牧師  創世記25章19-34節

 イサクの妻リベカは身ごもりました。先に出てきた子は「赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので」、エサウと名付けられました。一方その後に出てきた子は、先に出て来たエサウのかかとをつかんでいました。その様子から、「ヤコブ」と名付けられました。

 ある時、エサウが疲れきって野原から帰って来た時、弟ヤコブは天幕の中でレンズ豆の煮物をしていました。エサウはヤコブの煮ているうまそうな煮物を見るや否や、「そこの赤いものを食べさせてほしい」と要求します。それを聞いてヤコブは、すかさずこう言いました。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」(31節)。兄が持っている長子の権利と引き換えるなら、この煮物を与えると条件を出しました。エサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答え、長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。こうして、アブラハム、イサクと引き継がれていった神の祝福は、兄エサウではなく、弟ヤコブの方に流れていきます。

 しかし、ここで人によっては「なぜ、ヤコブなのか」と疑問を持つ人もいます。23節に「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」とあります。この時、エサウもヤコブもまだ生まれていないのですから、エサウの何かが悪く、ヤコブの何かが良いという以前のことです。この時既に、神様は弟ヤコブが祝福を受けるようになることを語られました。ここに「神様の一方的な選び」というものがあります。

2021年11月7日「満ち足りた人生」

○金 南錫牧師  創世記25章1-18節

 アブラハムは、妻サラが亡くなった後、ケトラと再婚しました。このケトラとの間に6人の子どもたちが生まれます(2-4節)。また、彼には最愛の妻であったサラとの間に100歳の時に与えられたイサクがいて、その前にサラの女奴隷ハガルとの間にイシュマエルという息子がいました。それに、ケトラとの間に生まれた6人の子どもたちを合わせると、全部で8人の子どもたちがいたわけです。

 アブラハムはイサクに全財産を譲った時、他の7人の子どもたちにも贈り物を与え、彼らに十分な配慮をしました。そして、彼らを東の方に移住させ、イサクから遠ざけました。相続を巡って、兄弟の間で争いにならないように、元気なうちにこの問題に取り組んだのです。そうして、アブラハムは神様の祝福のバトンをイサクにしっかりと渡しました。

 神様は、そのようなアブラハムの人生を大いに祝福されます。「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(7、8節)。アブラハムは満ち足りた晩年を迎えました。アブラハムは75歳の時に、あなたに召し出されて以来、100年間に亘り、神に導かれ、神に信頼し、神と共に歩んだ人生でした。その間、失敗や試練もありましたが、神様の声に聞き従ってきました。この神と共に生きたところに「満ち足りた人生」があると思います。

2021年10月31日「主のご意志ですか」

○金 南錫牧師  創世記24章28-67節

 アブラハムの僕は、リベカの家に招かれて、これまでの経緯について、リベカの家族に丁寧に説明しました。主人アブラハムから使命を受けて、生まれ故郷の親族のところに遣わされて来たこと。また、井戸のところで、こういう女性に出会わせてくださいと祈って、祈りを終わらないうちに、そこにリベカが現れたこと。そして、リベカが祈った通りのことをしてくれたことは、主である神様がイサクの嫁となるリベカを出会わせてくださったことだと伝えました。

 僕の話を聞いてリベカの兄ラバンと父親のベトエルは、これはすべて主なる神が導かれたことだと受け止めたのです。そして、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」と言いました(51、52節)。当の本人のリベカも自分の結婚を、主なる神がお決めになったこと、主の御心として受け止め、「はい、まいります」と言って、それに従う信仰の決断をしました(58節)。

2021年10月24日「主の慈しみとまこと」

○金 南錫牧師  創世記24章1-27節

 アブラハムは年寄りの僕に息子イサクの嫁にふさわしい女性を見つけてくるように命じました。ところが、二つの条件がありました。一つは、「今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を連れて来る」ということでした(3-4節)。もう一つは、イサクを決して嫁のところへ行かせてはならないことでした(6節)。あくまでも、このカナンの土地へ来てもらうということです。

 僕は無事に目的地に辿り着きました。その日の夕方、僕はらくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈りました(11-4節)。イサクの結婚相手は、最終的には神が選び与えてくださると信じて、その御心を求めて祈ったのです。僕がまだ祈り終わらないうちに、一人の若い女性が水がめを肩に載せて井戸にやってきました。彼女は労をいとわず、老僕とらくだ十頭に水を飲ませてくれる心の優しい女性でした。僕は、神の導きと備えを信じ、絶えず祈りながら、ゆだねられた任務を果たしています。また、願いがかなうと「主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と神に感謝し、神をほめたたえています(27節)。これはイサクの結婚に限らず、すべての事をなす上で、私たちのとるべき生き方です。

2021年10月17日「サラの死と埋葬」

○金 南錫牧師  創世記23章1-20節

  75歳の時、アブラハムはカナン地方に向けて旅立つことを神様から命じられました。その時、妻サラは親族知人と別れて、夫アブラハムと共に行く先も知らずに、旅立ちました。そこにはいろいろな失敗もありました。ところが、アブラハムの信仰の歩みのすべてをサラは共にして来たのです。そのサラが死にました。アブラハムは妻サラの死に対して「胸を打ち、嘆き悲しんだ」と記されています。アブラハムは、これまでのサラとの歩みを思い起こして、胸を打ち、大きな悲しみで嘆き悲しんだのです。

 しかし、続いている3節の言葉に「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり」とあります。アブラハムは遺体の傍らにいつまでもいることはしなかったのです。むしろ、死んだサラを葬るために、立ち上がったのです。葬ることはただ土に返すことではなくて、復活の備えをすることです。人が死ぬと、お墓に葬りますが、そのお墓は復活までの仮の宿と言えます。ですから、アブラハムはやがて復活の確かな望みをもって丁寧に妻サラを葬ったのではないでしょうか。私たち信仰者は、復活の確かな望みをもって、天にある故郷を望み見て、この世を生きる旅人であります。

2021年10月10日「最大の試練」

○金 南錫牧師  創世記22章1-24節

 神様がアブラハムに与えた試練は、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という神の命令でした。長い間神から約束されて与えられた子どもなのになぜと、アブラハムの中に葛藤や疑問があったはずです。しかし、アブラハムは「次の朝早く」イサクと共に神の命じられた所、モリヤの地に向かって行きました。その時、イサクは「わたしのお父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねます(7節)。イサクの質問は、アブラハムの胸をえぐるような問いでした。しかし、アブラハムの行動は最後まで揺らぎませんでした。

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはイサクを縛って祭壇の薪の上に載せ、刃物を取って息子イサクを殺そうとしました。その時、主の御使いが「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言って、そこに雄羊を備えてくださったのです。アブラハムにとって、「ヤーウェ・イルエ、神は備えられる」この恵みを生涯忘れなかったのでしょう。

2021年10月3日「アビメレクとの契約」

○金 南錫牧師  創世記21章22-34節

 アブラハムはアビメレクから、「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます」と言われたように、日常生活において尊敬される証を立てていました。ですから、アビメレクはアブラハムとの間に友好的な関係を築いておきたいと願うようになったのです。これに対して、アブラハムは応じます。27節にあるように、アブラハムは、羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、二人は契約を結びます。なお、この契約が結ばれたところを、「ベエル(井戸)・シェバ(七)」と呼ばれるようになりました(31節)。つまり、七頭の小羊がアブラハムの掘った井戸の証拠としてアビメレクに手渡されました。

 最後の33、34節に「アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した」とあります。アブラハムは井戸の所有権が認められたので、安心してベエル・シェバで住めるようになりました。その以後、このベエル・シェバは、アブラハムとイサクが活躍する舞台となりました。またアブラハムはそこで、「永遠の神、主の名を呼び」つつ、礼拝生活を始めました。その時、アブラハムは、神が共にいてくださる喜びを味わっていたでしょう。

2021年9月26日「イサクとイシュマエル」

○金 南錫牧師  創世記21章1-21節

 今日の聖書箇所は、アブラハムとサラの間に約束の子が生まれたところから始まっています。いわゆるイサクの誕生です。1節、2節にあるように、主なる神は「約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ」のです。アブラハムが100歳、サラが90歳の時でした。聖書は、「それは、神が約束されていた時期であった」と記しています。

 アブラハムは、生まれた子の名前を「イサク」と名付けました。イサクというのは「笑う」という意味で、イサクが与えられたことは、喜びの笑いをもたらす出来事でした。6節に、サラがこう言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」ここには、サラの喜びの声が充満して、サラが心から笑い、聞く者は皆、わたしと笑いと共にしてくれるでしょう、という喜びの笑いと、イサクという名は結びつくのだ、と言っています。また、サラは言いました。「誰がアブラハムに言いえたでしょう。サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために」(7節)。ここには、私のような老人が子どもに乳を呑ませようとは、誰も思っていなかったでしょうが、子どもを産んで、乳を呑ませることができて、喜んでいる姿が目に浮かびます。

 しかし、これでめでたしとはいきません。8節から10節までを見ますと、イサクが乳離れしたころ、サラは、自分の女奴隷ハガルがアブラハムとの間に産んだイシュマエルが、イサクをからかっているのを見て、夫アブラハムに「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」と訴えました。アブラハムは非常に苦しみました。イシュマエルも自分の子だからです。ここで、神様はアブラハムにサラに従うように命じます。12節、13節に「神はアブラハムに言われた。『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ』」とある通りです。

 結局、アブラハムは苦しみつつも、ハガルとイシュマエル親子を自分のもとから追い出します。ハガルがパンと水の革袋を背負い、わが子を連れて出ていく姿は、想像するだけで切なくなります。途中、荒れ野でさまようハガルは、革袋の水が無くなると、瀕死の状態に陥ったイシュマエルを一本の灌木の下に寝かせ、 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、少し離れたところに座り込みます。そして声をあげて泣いたのです(16節)。「荒れ野をさまよう」とは、行く先がないということです。イサクが生まれた瞬間から、ハガルもイシュマエルもこの地上に存在する意味、生きる理由を失いました。でも、神様はイシュマエルの泣き声を聞いてくださいました(17節)。イシュマエルという名前は、「神は(エル)、聞かれる(イシュマ)」という意味です。神様はイシュマエルの泣き声を聞かれました。彼の苦しみ、悲しみに目を向けてくださったのです。なぜなら彼もアブラハムの子として、アブラハムの祝福のうちにあるからです。