随想 母の写真を見詰めて

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:CK)

 「私には親がいないのよ」。元日の朝、受話器を置いた母は両手で顔を覆って泣き出した。親類の一人だろう。子供の私には事情は分からなかったけれど、なんとかしなければという思いで「私がいるよ、お母さん。私がいるからいいじゃない!」。そう声をかけたが泣きやまない。私の中に生まれた、なぜか母に置き去りにされたような寂しさ、もどかしさ、そして小さな怒り。そのとき心に誓った。私は決して母から離れない、と。そしてその誓いを最後まで守り通した(と思う)。
 同じジムに通い、二人でエステ。ショッピングにも連れ立って。「私たちは一卵性双生児ならぬ一卵性親子」と母がよく笑いながら言っていたけれど、まさにそういう表現がぴったりだったと思う。母は本当に心から私を愛し、私の幸せをいつも願ってくれていたけれど、私もまた、母の幸せをいつでも願っていたのだ。二人で過ごした半世紀。思いがけず母が病により召され、五十を過ぎてようやく私はソロソロと一人で人生を歩み出した。
 母亡き後私の生活に起きた変化は二つ。一つは一人暮らしが難しい父の日常を支えるため本格的に一緒に暮らし始めたこと。もう一つは礼拝の奏楽のためオルガン練習を始めたことだ。子供の頃近所のピアノ教室に通った程度で、きちんと音楽の勉強をしたわけでもない自分には大それた挑戦だけれど「やると決めたらやり通せ!」と姿の見えない母に叱咤激励され、母の寝室だった部屋にオルガンを据えた。お気に入りだったおしゃれな籐のベッドも今やリビングへ追放処分だ。父をデイサービスへ、息子を学校へ送り出すとオルガンに向かう。
 五時間も六時間も練習してしまうことがある。肘がしびれている、右手の甲に変なこぶができてしまった。明らかに手の使い過ぎ。けれど……。どうしたらよいか分からないのだ。一人ぼっちのこの部屋で。母と過ごしたこの部屋で。母のため精一杯頑張ったつもりでも、やはりこうすればよかった、ああしてあげればよかったと後悔がある。そんなとき、オルガンの上に飾られた写真を見詰める。奏楽者を目指すきっかけとなった古い白黒写真。小さなリードオルガンに手を添える着物姿の曾祖母とそばでほほえむ若き日の母。譜面台には讃美歌集。「オルガンはギュウギュウ押さずに、力を抜いて軽いタッチで弾くほうが良い音が出るわよ」。まだまだ拙くて、半人前とも呼べないけれど、先生の言葉を思い出し、そーっと鍵盤を押さえてみる。すると指先からあふれる柔らかな響きに包まれて、私の悲しみも溶けてゆく。
 今の私を支えてくれる息子の言葉。「僕は教会に通っていて本当に良かった。天国でまたあーちゃんに会えるから」。そうね。また会えるよね。

父の思い出 受け継いだ 意志と信仰

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:HT)

 私の父は一九四四(昭和十九)年六月、あと二時間で上陸と伝えられたその直後、帰らぬ人となりました。三十一歳、終戦の一年二か月前の出来事です。
 いつも黒い作業服の上下にゲートルを巻き、黒い自転車で出かける父でした。手が大きく厚くガッチリ、しっかりと手をつないで歩いた感触は、うれしかった記憶の一つです
 その父は、一九三八(昭和十三)年春、母を伴い、東京から四国土佐の「農事試験場」の職員として赴任しました。高知県は、何しろ四国の約半分を占める東西に延びる膨大な地域です。その山間の田・畑の改革、開発をするという、国が定めた計画の一端を担う現場を維持する仕事だったと聞いていました。
 ところが、赴任後の五年間は、一か所に留まるわけではなく、勤務場所の移動、転勤の連続。私たち四人の兄弟は、生まれた所が違います。仕事もはかどらない困難な状態が続いていたそうです。
 このような状況のとき、思いがけず県立学校の教師はどうかとの依頼があり、お受けし、土佐での六年目、一九四二(昭和十七)年の春、再出発となったそうです。
 私もこのときをよく覚えています。家は二階があって、門を出ると教会が見え、目の前が小学校の塀。この町にある、父の「県立幡多農林学校」(現在の四万十市の町外れにある高等学校)は、官舎から真っすぐの道の先。幼い私もうれしかったようです。学校にお弁当を届けたり、教会ではいつも横ちょで立ったり座ったり、うるさかったかもしれません。
 家には、父専用の本箱、厚いきれいな表紙の本や、「小川未明」の童話集。表紙にろうそくの絵、中は挿絵がたっぷり、その中をめくってみるのが一番の楽しみでした。そのほか厚いノートが一冊、小さい字で一杯、その間に何やら分からないけれども、花や葉っぱそして実のような物のスケッチ。隙間には四人の子どもの顔と名前がちょんとあったり、そのページを探すのが大好きだった気がします。
 当時の土佐は、山に囲まれた田畑が広がる地方であったと思います(戦後知った)。上陸する敵との戦いに対応できるよう、準備や訓練も行われていたようです。私も見たことがありました。
 私たち一家が順調な日々を送って二年が過ぎた一九四四(昭和十九)年三月、突然、予期せぬ出来事が起きました。父に召集令状が届いたのです。間もなく出征となり、母と共にバスの停留所で大勢の人たちと見送りました。この記憶は鮮明です。
 どのくらい日数がたってからか分かりませんが、多分、前線への出発直前だったようです。父がほんの一、二日帰ってきてくれました。わけもなく喜んだ私がそこにいたと思います。その父は、縁側に座っていました。私と弟は、片時もそばから離れようとしません。そのときの父の面影は、今でも消えることなく脳裏に浮かびます。
 この日を最後に、父は帰らぬ人となりました。訃報の知らせを受けた日を境に、私たちの全てが変わりました。住む家を求めて、数か所を点々と移動、近くの教会の片隅をお借りしたこともありました。このような生活は終戦の翌年の春まで続き、やっと落ち着くことができました。東京出身の私たちはよそ者。当時はまだ封建制の残る時代です。落ち着くまでには紆余曲折があり、難題が山積で、その中を生きるのは至難の業でした。でもそれからの十五年余りの生活において、徐々に受け入れられ、母も仕事をいただく機会を得ることができました。
 多々あった出来事も何とかクリアし、母と私たち四人の兄弟はそれぞれの道を選択し、今を生きています。私たちには、父から受け継いだ意志、信仰、教会がありました。共に祈り支えてくださった方々の存在には、力をいただき、励まされました。感謝です。
 土が大好き、酪農や養豚を未来の仕事にと、若い人たちと共に過ごした県立農林学校の「学び舎」での二年の日々は、幸せだったと思います。当時の生徒さんにお目にかかると、父のエピソードや物置の片隅で眠っていたノートがきっかけで、長年の研究・栽培改良の成果が実り、地元の名品メロンとして生産されているそうです。
 私は、終戦を記念するこの時期が来ると毎年思います。広島、長崎、沖縄そのほか多くの人々の生活を犠牲に奪い取っていった戦いを許せません。終戦を迎えることなく、七十五年の生涯を終えた祖父、同様に父の三十一年。今年の七十五年を受け止め、この歴史は神様の備えられた計画として受け継ぎ、主の日へと歩んでまいりたいと思います。

美子の取材日記(五) 狐狸庵先生の劇団

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:YK)

 「きみはやせっぽちで色気がないなぁ」。
 そう言いながらクリクリッとおへそを触ったのは、キリスト教をテーマにした小説『海と毒薬』や『沈黙』『深い河』などを著した遠藤周作先生。黙っているといかついお顔だけれど、実はユーモラスでめちゃくちゃいたずら好きな人だった。
 先生は、「人は人生というそれぞれの舞台の主役なのだから」と、自ら樹座(きざ)という素人劇団を立ち上げて、一般から有志を集めては大劇場のステージでスポットライトを当て、全国から募ったあか抜けない素人たちをまとめてぽんこつな演劇を何年にもわたり開催し続けた。国立劇場やら今となっては懐かしすぎる青山劇場なんていう、ベテラン俳優しか立てないステージで、だ。
 一九九〇年ごろ。当時まだ新人だった織田裕二さん、別所哲也さんらの取材を、樹座のお稽古の日程と場所に合わせて設定してもらい、今、思えば私はわがまま放題の仕事ぶり。
 樹座の世話をするスタッフは、先生ゆかりの出版社である新潮社や文芸春秋の編集者ら。それらの雑誌で座員募集広告を打ち、全国から「台本のせりふは棒読みで演技が学芸会みたいに下手くそ、音痴で歌はなってない、ラインダンスの足が上がらないけれども、一生に一度でいいから舞台に立って観客の前で輝いてみたい」と夢みる人たちが全国津々浦々から東京へオーディションを受けにやってくる。
 で、わたしは「樹座新聞」を立ち上げるよう指示されたけれども、なんだかんだ言って逃げ切った。その代わりに座員を取りまとめる係を押し付けられた。

教会修養会報告 祈りの世界 旧約聖書詩人に学ぶ

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(講師:美竹教会牧師・青山学院大学教授 左近 豊)

 十月二十七日(日)午後、美竹教会牧師・青山学院大学教授の左近豊(さこんとむ)先生をお迎えして、礼拝説教に続き、修養会の講師をしていただきました。御講演の要旨と、グループ討議から出された質疑の主な内容を、編集委員会でまとめました。

【講演要旨】
 二〇一一年の大震災で、私たちはこれまでの生き方が通用しない崩壊を経験した。崩壊を生き延びた人たちの嘆きと罪責意識の痛みを想像して、金曜日に肉を裂かれて嘆き、陰府に下った「土曜日のキリスト」、もだえ苦しむ嘆きの神学、嘆きを受け止める共同体の意義を再確認した。
 神は混沌と闘って、空と水に分け、世界を創造された。出エジプトの水を分け、乾いたところを造る。洗礼を受けた主が水から上がられたとき、霊が下る。一つのモチーフが受け継がれている。大いなる救いの物語を聖書は語っているが、その中に幾多の混沌、崩壊、破綻した物語がある。
 人間の生も、言葉を失うような出来事に遭遇すると、語りの時間の秩序が破綻し、過去が断片となって現在にまとわりつく。「混沌の語り」を内に抱える現代に、「大いなる救いの物語」をいかに語るか。そこに「嘆き」の居場所、すなわち祈りの場が確保される必要がある。
 聖書は、度重なる危機を語りつつ生き抜いてきた信仰共同体の証言の書。言葉にならないうめきを、「詩編」や「哀歌」の詩人の言葉が代わりに声となって吐露している。感情は文化の中で習い身につけるものであり、たとえば日本人は雨の中にいろいろな情感を見いだす。聖書における感情、祈りの中に込める感情は、聖書の中に習い身につけていく必要がある。
 哀歌は、国破れてしかも取り残された悲惨な状況を、神に対して「何とも思わないのか」と挑みかかる。信じてきたのにあまりに不当だ、というヨブの祈りと共に祈られてきた。カインとアベルの物語は、カインが祈らなかったことが問題だった。ヨブは神に挑みかかり、問い詰めた。それが求められている。哀歌は、手軽に癒やせないような傷を詩にする。執り成しの祈りをすることで共に泣き、代わりに祈る者がいることを教えてくれる。
 詩編は、その先にイエスの存在を意図している。旧約聖書は、嘆きを嘆き切ることで、イエスによるあがなわれた復活の命を見ることになる。
 「陰府」は、旧約では神様に何を言っても届かない所。イエス・キリストがそこに身を横たえられ、死を滅ぼし、神いまさぬ所を神います所に変えた。「土曜日」の祈りを身につけることが重要。
 人は傷を負った共同体によって癒やされる。教会が世の中の傷を傷として身につけるなら、祈れない人の代わりに教会が嘆き祈る執り成しの共同体になることができる。

【主な質疑応答】
(問)聖書の感情を身につけるには?(答)自然に身につく。大事なのは、読み続ける、触れ続ける、聞き続けること。自分になじみのない箇所に取り組んでみるのもよい。
(問)個人の思いと、人の祈りをまねることの関係は? (答)祈りは、教会の中で培われた祈りの生活に触れる中でまねていく。神に真正面から問うのが聖書的な祈り。教会の中に嘆きの場所、悲しんでいる人の居場所が必要。一緒に祈るとき、教会の祈りであることが慰めになる。
(問)敵への報復を願う詩編について(答)祈りのモデルである詩編の中に捨てられずに残っていることは、人権感覚としてはおかしいが、圧倒的な暴力で「やられた側」が正義の回復を求めて祈ることは抑圧できないのではないか。
(参考文献)E・ツェンガー『復讐の詩編をどう読むか』、W・ブルッゲマン『詩編を祈る』。日本基督教団出版局。
(問)「沈黙の土曜日」とは?(答)人間が安息している間に、イエス様は死と闘っておられた。旧約の詩編の嘆きの祈りが証してくれる。逆境の詩編を読むことで、「土曜日のキリスト」と出会う。逆境の現実を見詰めなければ次のステップに進めない。嘆きの詩編、哀歌、ヨブ記は、地獄のような中でイエスと出会う。その道がつながれている。

「安心しなさい、わたしだ 恐れることはない」

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:金南錫牧師)

 マルコによる福音書六章四五~五六節
 
 弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まないのです。イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られました。しかし、弟子たちは湖の上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思って、大声で叫びました。そのおびえる弟子たちに向かって、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そして、イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まったのです。弟子たちは非常に驚きました。聖書は「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです(五二節)。
 パンの出来事。それは、イエス様がまことの神であられることを示しているのです。弟子たちは、五千人という群衆がどこかよそで飢えを満たしてほしい、この飢えた群衆から自分たちを解放してほしい、と願いました。しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。そして、弟子たちは確かめた上で、五つのパンと二匹の魚、これだけしかない、そう思って差し出しました。しかし、イエス様はそれを弟子たちから受け取り、これがあるということで神に感謝したのです。
 弟子たちが持っているものは、ゼロではないのです。決して多くはありませんが、イエス様はそれを用いてくださるのです。そして、まことの神であられる主イエスは弟子たちの賜物を用いてご自身の福音伝道の御業を進めることを望んでおられるのです。しかし、弟子たちはその理解までには至りませんでした。
 実は、湖の上を歩いてこられるイエス様の出来事も、イエス様がまことの神であられるということを示しているのです。四八節に「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。旧約聖書において、人が神を面と向かって見ることは死を意味していました。ですから、神様は、通り過ぎることをもって、ご自身が共にいることを示されたのです。私たちの信仰の歩みはまことの神であられる主イエスが共にいてくださるので、安心できるのです。

 佐倉教会の誕生

 百十五年間、佐倉教会を守っていたのは、神様の働きでした。佐倉教会の『百周年記念誌』によれば、佐倉教会の最初の頃は、「教会」とは言わず「福音伝道館」と呼ばれ、ヘフジバ・ミッションという伝道団体から派遣された宣教師によって、生み出されたのです。この伝道団体は、主として千葉県の北総地方に伝道を展開していました。佐倉教会はこのミッションによって生み出された教会です。
 早くも伝道最初の年の一九〇四年十一月十二日(土)には、九名の受洗者が与えられました。そして、十一月二十七日、佐倉教会が創立されました。
 『創立八十周年記念誌』によれば、その当日、クリスマスの委員として十八名の名前が挙げられています。きっと、この人たちが当時の熱心な信徒であったと思われます。最初にこれだけの人が与えられたことは、驚くべきことです。そして十二月二十四日(土)には、クリスマス祝会が盛大に行われました。そのとき、感話を述べた田辺元治郎という人は、陸軍少佐で佐倉軍隊の高官でクリスチャンであったようです。度々礼拝で所感を述べたり、家庭を開放して祈祷会を開いたりしていました。祈祷会は水曜日午後七時から行われ、十名前後の出席であったということが記録に残っています。
 五三~五五節に「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」とあります。人々は、救いを求め、イエス様の所に病人を連れて来たのです。教会は、救いを求める人々が、礼拝に来て、神の救いに与ることが
できるところです。
 創立百十五年を迎えたこの時、私たちが心に刻むべきことは、ここに教会が建てられ、主の日のたびに礼拝がささげられ、それを続けてきたということです。佐倉教会が創立された最初の年の日曜日礼拝は午後二時から行われ、午後六時から伝道会が行われたそうです。
 また、当時の説教題は「洗礼について」「受洗者の注意」「基督者と家庭」といった実際的なクリスチャンの心得を説くことが多かった様です。出席者は十四名から二十五名、平均二十名ほどでした。現在、平均出席は、約五十五名ですので、成長させてくださった神に感謝すべきことであります。

 神様の働きと導き

 神様は佐倉教会に牧師を立て続けてくださいました。最初に開拓伝道をされたヘブジバ・ミッションの宣教師たちはアメリカ中西部の独立教会などが連合して組織したミッションに属していました。大教派のような豊富な資金を持たず、ただひたすら日本人に福音を伝えたいという、燃えるような情熱を持って海を渡って来られたのです。そして現在教会堂の建っている所にあった酒屋を買い取り、教会堂に改造してくれたのです。そのためにアメリカの教会の人たちが懸命に献金を捧げてくださったのです。
 特に、ヘフジバ・ミッションの代表者アグネス・グレン夫人宣教師は、一九〇四年から一九二五年まで、北総地域において開拓伝道をなさいました。しかし、一九二五年一月になると、ヘフジバ・ミッションが日本での伝道を中止して、宣教師を米国に引き揚げることになりました。アグネス・グレン宣教師は日本伝道が成功しなかったことに落胆し、失意のうちに日本を去られたと記されています。
 しかし、佐倉教会に対する神様の御心は変わることはありませんでした。一人の在任期間は長くはありませんが、一九一六年から一九四三年まで、八人の牧師が遣わされ、佐倉の地において、福音伝道の業は続けられました。そして、一九四三年から一九四八年まで、五年ほどの無牧のときがありましたが、一九四八年から一九七一年まで、「生活そのものが祈りである」と言われて、信徒たちに厚く信頼された石川キク牧師の三十年に及ぶ伝道牧会の下で、佐倉教会の基礎が築かれました。その後、島津虔一先生も教会の皆から厚く信頼され、二十九年間牧会をされました。その後、有馬先生は三年、黒田先生は十年、そして、二〇一六年から十四代目の牧師として私が遣わされております。
 佐倉教会の百十五年間のすべての働きや歩みの背後には、人の思いを超えた「誰か」の、そして「何か」の働きと導きがあったと思わざるを得ません。聖書は、そのことを神の働き、聖霊の働きと言い表しています。ここまで導いてくださった神様が佐倉教会の基となるように、そして、佐倉教会が迎えている創立百十五年の中に生かされている恵みに感謝しつつ、これから、共に神への信頼と希望を持って、生きていくように、祈り願います。

随想 神様に導かれて

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:SK)

 私は今回初めて全国教会青年同盟の修養会に参加しました。知っている人がいない中での参加で、当日までものすごく緊張していました。しかし、修養会が始まると私の想像をはるかに超える楽しさがそこにはありました。
 開会礼拝の最初の讃美から私の心は、修養会の雰囲気にのまれました。また、初対面の私を歓迎してくださり、とても充実した三日間を過ごすことができました。
 私は今回の修養会を通して神の導きを強く感じました。講演を聞いたり、分団での年の近い友の話を聞いて、私の教会での歩みを振り返り、神様はいつも共にいてくださるのだと感じました。また、これからも神様に導かれるまま教会へ通い続けたいと強く感じました。
 この修養会に参加してから同じ信仰を持つ様々な仲間たちとの交わりの時を持つことができ感謝です。これからも神様のお招きに答え、小さな歩みを続けることができたらと思います。

随想 老年の生活に光あり

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:NI)

 「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言一九章二一節)
 今年一年を振り返りますと、元号が平成から令和に変わり、消費税が上がり、台風による大きな被害も出ました。長いようで短い激動の年でしたが、実際に恵みの主に守られました。
 幸いにも十月十三日には、特別に許されて歴史がある佐倉教会で奨励をさせていただきました。
 個人的には、家内の妹が三月二十六日に六十八歳で召され、キリスト教で葬儀がなされました。この妹の御主人も既に亡くなっており、家内の姉の御主人も既に召されています。これらの亡くなった方々のことを思いますと、私だけが残されたような寂しい気持ちにもなります。
 思い返せば、同じ教会の青年会で家内と知り合い、主に導かれて結婚しました。新婚のアパートはお風呂もない粗末な住まいでした。その後六回も引っ越して、佐倉に来ることができました。本当に長い旅でしたが、御心ならばこの地が終(つい)の住みかとなることを願っています。
 この結婚で何よりも良かったのは、主にあって価値観が共通していたことです。お互いに年をとり、二人で一人前との思いで日々を過ごしています。私は家にいることが多いので、今まで余り読なかった手持ちの本を読み、できるだけ家事をするように心掛けています。家事は不慣れですので、いつも祈ってからするようしています。
 教会生活以外に主だったライフワークとしては、家庭礼拝と老人ホームの傾聴ボランティアがあります。家庭礼拝ではNHKの朝ドラの前に、聖書を読み、榎本保郎師の解説書を読んで、最後に祈り合っています。信仰は何よりも継続することが極めて大切と思いますので、毎日欠かさずに続けています。
 また、車の免許証を返納しましたので、ボランティアは歩いて行ける老人ホーム二か所に行っています。ホームではどんな方とお会いしても良いように、祈って心して出かけています。素晴らしいことに、そのボランティアの会員証には「ありのままの姿を温かく受け止め、見守る。心の動きに応答する。相手の立場になって共に考える。心のつながりを大切にする。」と書かれています。この言葉は、人と人とが離れていく今の時代にとても必要と思います。
 亡くなった方々を思うとき、人生の最大の不条理は命に限りがあることと思われます。何であれ、晩年の生活を「名もなく貧しく美しく」をモットーに静かに過ごしています。今の心境は「主にあって恵まれた幸せな人生でした」です。つまり、神学的に言いますといわゆる「未来完了」で、正に「終わり良ければ全て良し」です。
 「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。」(ゼカリヤ書一四章七節)

美子の取材日記(四) ちょっとミゼラブルで 素敵なクリスマス

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:YK)

 十一月に御殿山のキリスト品川教会に行った。パイプオルガンに段々の席の、コンサートホールみたいなその教会で、歌手の知念里奈さんのライブがあったのだ。オープニングは『アメイジング・グレイス』。そしてミュージカル『レ・ミゼラブル』や『ミス・サイゴン』からの名曲をゲストの山崎育三郎さんらと一緒に歌いあげた。もちろんクリスマスに向けて穏やかで美しい『ノエル(まきびとひつじを)』も。
 神戸の六甲に住んでいた小学校低学年の頃、小さな冒険をしたのを思い出す。弟と二人で近くの川を東へ渡って、隣町・御影(みかげ)の教会にドキドキワクワク初めて行ってみたのだ。クリスマスが近い頃のことで、しばらく通った気がする。
 クリスマス会では子どもたちが家から持っていった衣裳で扮装して、お芝居をした。弟はイエスの誕生を祝う三人の博士の一人の役をもらい、母が用意した新しいシーツをマントのように工夫して巻きつけていた。帰りにおやつをもらって、手作りのお芝居は学校の学芸会よりうんと楽しかった。
 ところが、弟はそれっきり教会には行かなくなった。その理由が何十年もたった最近になって判明したのだ。シーツのマントをひるがえして出番を待っていた弟に、誰かが言ったそうだ。
 「あら、あなたは貧乏な博士ね」
 自分で工夫するように母が持たせたシーツが、その人にはふびんに映ったのかもしれないけれど、弟は母の思いを踏みにじるようなその一言で思いのほか深く傷ついたようだ。だって、「へぇ、そんなことがあったんだ?」とわたしは笑ったけれど、彼は真顔になって黙ってしまったから。
 他の博士役の子は立派な衣装を母親が縫ったんだろうか。毎週、帰りにおやつをもらえるので、わたしはしばらく通い続けてとうとう詩編二三編を覚えたんだけど。
 さて、『レ・ミゼラブル』で意地悪でこざかしい育ての親テナルディエ夫妻にいじめられていた小間使いの少女・コゼット。意地悪夫妻のもとにジャン・バルジャンが彼女を取り返しに行ったのもクリスマスのことのようだ。二百年くらい前のお話。
 ミュージカル『レ・ミゼラブル』でバルジャンを演じてきた俳優の別所哲也さんが言った。
 「知ってる? 『レ・ミゼ』ってさ、キリスト教的な物語で……」
 旧約聖書と新約聖書、ジャべールとバルジャン……。
 「バルジャンがコゼットを父親のような心で救って、彼自身の暗くて長い人生の最期に報われたように、人のために正しく生きればきっと天に昇れるんだよ」
 おやつ目当てに教会に通っていた子どもの頃が懐かしい。

転入会者より 主の導きに感謝して

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:SO)

 大河の流れに身を任せるが如くに、主のお導きにお委ねしてきた五十年であったように思います。
 私の最後となるであろう教会が佐倉教会であるとは、夢夢思いもしませんでした。
 転会が許されて、佐倉教会での信仰生活を始めることができましたことを本当にうれしく感謝です。
 私が小学校の低学年のとき、兄妹のように育った一歳年上の隣家に住む母のいとこが日射病にかかり、発病して二、三日で亡くなってしまいました。片腕をもがれたような痛みと悲しみと共に、ついこの間まで元気であった人が全く無になってしまつたことに衝撃を受け、毎日毎日夢を見、死の恐怖にさいなまれました。
 死の恐怖を持ちながら成長し、京都での学生生活もあと一年で終わりというとき、これから何を目標に生きるのか、自分は生きる価値があるのか、この世に真理なるものがあるのだろうか等悩んだ末、生きる以上喜々として生きたいと思い、いろいろ求めていました。
 ある日、東大のドイツ語の教授である小池辰夫先生のキリスト教についての講演があるとのチラシが入ってきました。大学の先生が話されることなら分かるかも知れないと思い参加しましたが、全く分かりませんでした。講演後、質問した私に先生は「毎日祈りなさい」と言われました。
 小池先生の流れを汲むキリスト教の集会が京都にもあり、出席しますとこの方々は私の知らない何かを知っておられる。私もそれを知りたいという思いに駆られ、毎週日曜日に集会に出席し、小池先生の会と合同の修養会などにも出席いたしました。
 このようにして段々とイエス様のことが分かるようになってまいりました。私たちの罪を御子の血であがなってくださり、又、私たちには永遠の命が約束されておりますこと、本当に感謝です。
 『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。恐れるな。 わたしがあなたとともにいるからだ』(イザヤ書四三章四~五節新改訳)
 『強くあれ雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである』(ヨシュア記一章九節新改訳)
 この何のいさおしもない者を深い愛で包んでくださり、強く導いてくださる主に感謝です。

神様が望んでいること 喜び、祈り、感謝の人に

○ぶどうの枝第50号(2019年6月30日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 テサロニケの信徒への手紙五章一六~一八節

 本日の聖書個所において、神様が私たちに望んでおられることとして、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とあります。そして、これこそ「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。
 ここで、「望んでおられること」とは、神の「ご意志」と訳すことができます。つまり、私たちに対する神のご意志は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」ということです。

 聖霊により時間を超える

 では、私たちがどのようにして、神様が望んでおられる喜びの人、祈る人、感謝の人となることができるでしょうか。
 第一に、私たちが喜びの人になるためには、聖霊によって時間を超えなければなりません。
 一六節に「いつも喜んでいなさい」とあります。「いつも」という言葉は、「どんなときにも、変わることなく」という意味です。人が何かを変わることなく、常に喜ぶことを意識することは容易なことではありません。例えばいつも仕事することは易しいことでしょうか。そうではないです。人は体調不良や、疲れるときがあります。しかし、この喜びにおいてだけは、いつも喜ぶことを、神様は望んでおられるのです。
 それでは、神様はなぜ、「いつも喜びなさい」と命じられるのでしょうか。それは、私たちが主イエスの中にいるとき、主イエスの中で得られる喜びは、時間を超える性格があるからです。ヨハネによる福音書七章三七節以下を見ますと、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている『霊』について言われたのである」とあります。
 クリスチャンは、その内から生きた水が川となって流れ出るようになると語っています。小さな川が流れるところに行ってみると、石に苔があります。ところが、大雨が降って川の水が流れ出ると、完全に奇麗になります。同じように、私たちの心の中にどれほどの欲望や心配、世の苔があったとしても、聖霊による生きた水が川となって流れ出ると、時間を超えて、いつも喜ぶができる、その喜びが私たちの中にあふれ出るということです。聖霊に満たされると、失敗のときも、誘惑のときもいつも喜ぶことができます。時間を超えて、いつも喜ぶことができるようになるのです。

 御言葉に従う

 祈りの人となるためには、御言葉に従うことによって、感情を超えなければなりません。一八節に「絶えず祈りなさい」とあります。休まずに祈りなさいという意味です。ところが、私たちは祈る生活をしながらも、祈りを休むことがあります。それは、落胆という感情が私たちの心の中を支配してしまうからです。望んでいることが叶わなかったとき、落胆するようになるのです。
 ですから、イエス様は、ルカによる福音書一八章一節において「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えられたのです。感情に基づいた祈りは長続きしません。時計の振り子のように、感情というのは、一日に何回も変わるからです。
 それでは、私たちはどのようにして、感情を超えた祈りの人となることができるのでしょうか。それは、私たちの感情を御言葉に従わせることです。お祈りをしたいとき、祈りをささげることもよいのですが、感情を御言葉に従わせて、意志的に祈ることが大切です。
 「絶えず祈りなさい」という言葉は、神のご意志です。これは、私たちの意志を求める言葉です。落胆するとき、疲れたとき、休みたいときに、お祈りをすることは容易なことではありません。しかし、祈りは感情的な問題ではなく、従順の問題であり、意志の問題です。神のご意志が「絶えず祈りなさい」ということなので、それに従って祈るわけです。
 祈りとは、自然に祈ることができると期待してはいけないと思います。祈ることが自然になって祈ることができるには、相当な努力が必要です。それは、絶え間ない意志的な従順と信仰の決断が必要です。私たちは、御言葉に従うことによって、私たちの意志と私たちの従順を神様にささげ、感情を超える祈りの人となるように祈り願います。

 どんな状況でも感謝する

 第三に、私たちは感謝の人となる必要があります。
 私たちが感謝の人となるためには、キリスト・イエスにおいて、状況を超えなければなりません。一八節に「どんなことにも感謝しなさい」とあります。ここで、「どんなことにも」というのは、すべてのことを指しています。「すべてのことにおいて、感謝しなさい」というのは、どのような状況に置かれたとしても、すべてのことにおいて、感謝することです。これは、状況を超える感謝を意味します。
 ほとんどの人の感謝は、置かれた状況に基づいた感謝だと思います。また、条件に基づいた感謝です。よい状況には感謝することができます。しかし、状況が悪くなると不平不満が生じます。しかし、神様は、私たちが状況を超えた感謝の人となるように、望んでおらえるのです。
 イギリスのマシュー・ヘンリーという有名な牧師がいました。あるとき、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。「今日は感謝な日だった。まずは強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことに感謝する。さらに全財産を取られたが、盗まれることができない天国が私の中にあったことに感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する」。
 感謝は、感謝できるときに感謝することより、感謝することができないときに感謝することが本当の感謝です。感謝の人は「どんなことにも」、どんな状況に置かれても感謝することができるのです。
 神様が私たちに望んでおられること、それは、私たち一人一人が「喜びの人、祈りの人、感謝の人」となることです。そして、私たちの存在そのものが「喜びの人、祈りの人、感謝の人」と変えられること、それが神のご意志です。
 聖霊に満たされて、時間を超えて、喜ぶことができる喜びの人。御言葉に従うことによって、どのような状況に置かれても、感情を超えて祈ることができる祈りの人。そして、置かれた状況を超えて、感謝することができる感謝の人。
 このような人となることが、「キリスト・イエスにおいて、神様が私たちに望んでおられること」です。何よりも私たちの存在そのものが喜びの人、祈りの人、感謝の人となって、それぞれ置かれた場所で、神様の御意志が実現されますようにお祈りします。