随想 悪筆は「宮本武蔵」のせい

○ぶどうの枝第53号(2020年12月20日発行)に掲載(執筆者:YH)

 父の蔵書の中に、吉川英治氏による『宮本武蔵』の初版本(全六巻)があり、平仮名を覚えた小学校低学年の頃から読み始め(全ての漢字にフリガナが付いていたので、子供でも読めた)、お通とのすれ違いが繰り返される物語が、まさに「君の名は(一九五四年から始まったNHKのラジオ連続放送劇で、これが始まる頃には、銭湯から客が居なくなった)」の様に堂々巡り(子供の感覚では三歩進んで四歩下がる)であったのにいささか立腹したものの、全体的なストーリーが面白かったもので、何度も何度も繰り返して読みました。結果、漢字を「(出来上がった)形」で覚えてしまうことに至り、当然のことながら肝心な筆順を学ぶことはできませんでした。
 小学校の国語の授業で先生が漢字を教えるときに、正しい筆順も黒板に書いてくれましたが、既に多くの漢字は覚えていたため(但し、旧漢字ではあったが)、「そんな漢字はもう知ってるので、別のことしよう」って考え、机の下で版画を彫っていたら、ノミが滑って左手人差し指の根本を切って大出血となり、すぐに近くの医院で三針ほど縫ってもらったりしたこともありました。でも、お陰で国語の成績はいつも良好でした(漢字の試験では形ができていればOKで、筆順はチェックされない)。
 しかしながら、中学生になった頃から「他の同級生たちと比べ、俺の字は汚いなぁ、何故なんだろう」って思い始めた頃、同級生から筆順の違いを指摘され、教えられたとおりに書くと奇麗な字になることに気づいたものの、「膨大な数に上る漢字の筆順を覚え直すのは大変だし、俺の字は汚いけど誰でも読めるが、達筆の人が書いた字は読みにくい。したがって、コミュニケーションのツールとしては、俺の字の方が勝っている」と都合よく考え、改めて筆順を学び直すことはやめました。
 でも、社会人となり、上司に年賀状を出したら、小学生の子供さんから返事が来たりで、いささか情けない思いをしたこともありましたけれども、そのうちにOA化が始まって職場のみならず家庭にもワープロやPCが鎮座する環境となり、誰が文章を作成しても「奇麗に整った文字」で書かれるようになり、私にとっては素晴らしい環境となりました。
 ところが、慶弔の場では自署を求められることが多く、つい、前後に書かれた他の方々の自署を見て、「ありゃ、皆さん上手だなぁ。俺、書きたくないなぁ。子供の頃、キチッと勉強しておけば良かったなぁ」と、今頃になって後悔しています。
 聖書を見ると、全ての漢字にフリガナが付されていますから、もしかしたら私のように漢字をいきなり「形」で覚えてしまう子供が出現するかも知れません。聖書が誰にでも親しく読まれるよう、漢字にフリガナを付すのも良し悪し(善し悪し)です。
 天なる主、御子であられるイエス様、決して聖書を非難している訳ではないことを理解され、お赦しください。

祖父の回想を読んで 伝えたかった「神意」

○ぶどうの枝第53号(2020年12月20日発行)に掲載(執筆者:HT)

 私の祖父は、一八七二(明治五)年三月、新潟県高田市で生まれました。日清、日露戦争の時代、軍人として艦船に乗っていました。退官後は、「日本移民協会」という会を設立し、大正中期より昭和初期まで従事しました。
 祖父は、キリスト教と出会い、中学三年のとき、同級生の親友六人とともに受洗していました。教会と女学校の創立を記念してとのことだったそうです。どちらの教会と学校なのか、定かではありません。男尊女卑の時代、当時としては大変なことだったのでしょう。

 日本移民協会の創立

 その後、海軍兵学校を終えて、日清戦争の真ん中に艦船上の人として出発。二十三年後、現役を退き、海軍生活を終えました。
 退官後は、尊敬する義兄とともに「日本移民協会」という会を創立しました。第一次世界大戦も終末期で、「人種平等、平和維持、世界の資源の公平」等を基軸とし、国の過ちを正し、差別のない世界の実現を願い、立ち上げた協会と記されていました。
 移民協会の働きが徐々に理解されるようになってきた頃に発生したのが「満州事変」です。祖父は言っています。争いは「愚」、人種の差別、不平等、自由を奪い、迫害を生じると。
 日清戦争は、十九世紀末、「下関条約」の成立により閉戦。そのほぼ十年後の二十世紀初期、日露戦争は、「ポーツマス条約」をもって閉戦を迎えることとなりました。その後、祖父は、四十五歳で「巡洋艦」上の人としての任務を終えて、二十三年間の現役を終了、海軍での生活から退きました。
 海軍現役中の任務は多種、多難でした。争いの現場においては、責任重大です。「連合艦隊」の一員として臨んでおり、「巡洋艦」での任務は複雑でした。回想に家族の消息をその都度書き残していたことが印象に残っています。でもなお思います。祖父にとっての本当の「海」は、日本移民協会の皆さんとともに、その活動に携わったことだったのではないかと。

 祖父の「感無量」

 祖父の「感無量」という文字をそこかしこに見ました。中でも「防護巡洋艦、秋津州(アキツシマ)」の着任を命ぜられたときや託された業務を無事終わったときなどの記述で特に感じました。今回、この回想の記録を読み終えて思うのは、この「感無量(感慨無量)」の言葉を通し、経験を「神意」として伝え、証しとして残しておきたかったのではないかと。
 回想の最後のページに記された言葉です。
 「武力解決は、一時の不得。不倶戴天(フグタイテン)の敵という時代。広く活眼を開き、包容の態度を練りもて。人類の幸福は、神意人道なり。聊か(いささか)の所見を記して子孫に教ゆることとす。一九三七(昭和十二)年十一月記す 加藤壮太郎」(武力での敵、味方は当てにならない。目を開いて、物事の道理や本質を見抜くべきです。人の幸せの全ては神様の意志のみにあります)。
 祖父に関しては、手元にある写真数枚と、三歳ぐらいのとき父とともに上京し会った記憶しかありませんでした。回想を読んで、私も祖父のまねをして「感無量」と言いたいと思います。

美子の取材日記(六) 心の機微を描いた「化粧」

○ぶどうの枝第53号(2020年12月20日発行)に掲載(執筆者:YK)

 新宿三丁目の紀伊國屋ホールで、平淑恵の一人芝居『化粧』を何度か観た。大衆演劇一座の女座長・洋子が主人公の、うらびれた芝居小屋で起こった、生き別れの母と子の物語。初日の幕が開く前の楽屋で舞台化粧をしている洋子の元に、若かった頃の彼女が捨てた息子が、今や押しも押されもせぬ人気アイドルに成長して母親の舞台を観に来る。そうと聞いた彼女の心の揺れようたるや尋常ではない。
 さらに、物語に出てくる芝居小屋は近く取り壊されるようだ。背後では絶え間なく工事のクレーンの轟音が鳴り響き、洋子のか細い独り言の回想がかき消されそうになる。
 さて、この舞台を二度目に観て気がついた。この話は全部、洋子の妄想なのではないか、と。一人芝居だとばかり思って観ていた物語は芝居なんかじゃなく、洋子の哀れな現実だったのだ。
 よくできていると感心しながらのめり込んで観ていた一人芝居の脚本は、実は恐ろしいことに懸命に生きてきた洋子という狂人の現実なのだった……。

 洗礼を受けた井上ひさし

 この舞台は井上ひさし脚本の『化粧』だ。井上ひさしといえば『ひょっこりひょうたん島』や『ひみつのアッコちゃん』など子ども向けの作品が有名だけれど、『化粧』のように人生を重ねてきた人びとの心の機微を描いたものもある。それはもう寂しくて救われない人生だ。
 ある冬、井上ひさしの戯曲を専門に上演する「こまつ座」の事務室で平の取材を待っているとスタッフが教えてくれた。
 「井上は東北のラ・サール会の孤児院に預けられて育ったんですよ。洗礼を受けたのはその頃のことなんですって。この『化粧』には井上の心の機微が反映しているでしょう?」
 本がびっしり並んだこまつ座の書架。浅草橋の駅から降り積もった雪を踏みしめながら行った当時の「こまつ座」は、広くはないけれどもホッとする場所だった。真冬の雪道と井上のぬくもり……「こまつ座」に近い秋葉原や浅草橋辺りの高架からは、いつもそんことを想いながら総武線の窓から景色を眺めるのだ。

ダビデの悔い改めの祈り 賛美を回復される神 詩編五一編一~一七節

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 ある家族が黄色いカナリヤを飼っていました。朝から晩まで素敵な声をさえずっていたそうです。籠の中には必要なものが備えられていました。餌や水を与える道具だけでなく、水浴びをするためにガラス製の器もありました。
 ところが、ある日飼い主が掃除をしていて、うっかりその水浴びの器を割ってしまいました。すると、間もなくカナリヤの元気がなくなり、二日目には鳴かなくなってしまったのです。原因が分からず、病気になってしまったのだろうかと心配していたのですが、一週間後、水浴びの器を入れたところ、すぐにカナリヤは中に入り、水浴びをし、きれいな声で鳴き始めたのです。
 この話は、自分がきれいでなければ、歌えなかったことを教えています。ダビデも同じ経験をしたのです。彼は、罪を犯したことによって賛美することができませんでした。ところが、悔い改めることによって賛美が回復されていきました。 
 ご存じのように、ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。そのとき、神様は預言者ナタンを通してダビデの罪を指摘しました。ダビデは、一国の王様でしたが、六節にありますように「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と、自分は神に罪を犯したと告白しました。
 そのとき、神様は、自分の罪を告白したダビデに罪の赦しを与えてくださったのです。 神様の恵みにより、罪の赦しをいただいたダビデは、神様にこう告白します。「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(一四節)。
 ダビデは御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、と祈り求めました。そして、神様に一つの決心をしています。「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように」(一五節)。
 ダビデは、神様に自分に御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、そうすれば、あなたに背いている者、罪人に、「あなたの道を教えます」と決心したのです。
 それは、罪人が主に立ち帰るためでした。ダビデは、神様からいただいた救いの恵みを他の人と分かち合い、罪の中に苦しんでいる誰かが、主に立ち戻ることができるように祈ったのです。私たちはどうでしょうか。救いの恵みを他の人と分かち合ったことがあるでしょうか。
 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせてください」と求めていたダビデは、「主よ、私の唇を開いてください」と祈り求めています(一七節)。

 祈りと賛美が消えるとき

 これは、裏を返せばいつか自分が罪の中にいたとき、唇が閉じていた、ということを表しています。罪の中にいるとき、唇が閉じて、祈りが消えてなくなります。次に、賛美が消えているのです。いくら唇を開いて祈ろうとしても、祈りの唇が開きません。雑念だけがあふれ、思い浮かびます。このとき、クリスチャンは、霊的にうめきます。神様との関係が閉じられてしまったからです。
 ダビデは耐えられませんでした。罪の中にいたとき、唇が開かず、苦しんでいたと告白します。そして、「主よ、わたしの唇を開いてください」と、祈ったのです。一六節に、「神よ、わたしの救いの神よ。流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業を、この舌は喜び歌います」とあります。
 ここで、「流血の災い」とは、ダビデが、バト・シェバの夫であるウリヤを激しい戦いの最前線に出し戦死させた、殺人の罪を指しています。その流血の災いから、わたしを救い出してくださいというのは、その殺人の罪から自分を救い出してください、ということです。
 このように、流血の災いに対する赦しと救いを求めたダビデは、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と祈ったのです。ここで「恵みの御業」は、犯した罪を悔い改める人に対する、神様の赦しと救いの御業です。また、「喜び歌います」ということは、全ての力を尽くして、賛美することです。全ての力を尽くして、自分が犯した罪から救ってくださった恵みの御業を声高らかに歌うことを示しています。
 聖書を見ると、ダビデは賛美する人でした。神様の臨在を現す「主の契約の箱、神の箱」がエルサレムへ運び上げられたとき、ダビデは裸になっていることも気づかないほど、神の御前で踊り、賛美したのです(Ⅱサム六章一四節)。
 また、歌である詩編は、百五十編の中、「ダビデの詩」、あるいはダビデと書かれた詩が、七十三編もあります。ところが、実際、ダビデが書いたのに、ダビデと書かれていない詩編も多くあります。これを見ると、ダビデがどれほど多くの詩編を作って、神を賛美したのかを知ることができます。
 それだけではなく、ダビデは詩編二二編の四節で、「あなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」と、告白しています。

 賛美する人に

 ダビデは、神様がイスラエルの賛美を受ける方であることを知っていたのです。ですから、ダビデは、戦場に出ていくときにも、賛美しました。敵から非難を受け、人々からの裏切りを受けたときにもダビデは賛美しています。サウル王から追われる逃亡のときにも、ダビデの唇から賛美は離れなかったのです。なぜでしょう。ダビデは、賛美する人であったからです。
 サムエル記下二三章を見ると、ダビデが死を前にして、最後の詩を作って、神様を賛美する場面があります。ここで、ダビデは、自分の身分についてこう言います。サムエル記下二三章一節です。
 「以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者。ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌」となっていますが、このうち、「イスラエルの麗しい歌」について、口語訳では、「イスラエルの良き歌びと」となっています。ダビデは、人生の最後を迎えて、イスラエルの王ではなく、「イスラエルの良き歌びと」として、自身の身分を語っているのです。つまり、王様よりイスラエルの神を賛美することが大事であることを表しています。
 クリスチャンは賛美する人です。「主よ、わたしの唇を開いてください」と祈り、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と告白したダビデのように、それぞれ置かれた場所で賛美を回復し、声高らかに、歌うように祈り願います。
 今、残念ながら、新型コロナウイルスのことで、大きな声で讃美歌を歌うことができませんが、このときこそ、それぞれのお好きな讃美歌があると思います。その讃美歌を繰り返し歌うことによって、今のときを乗り越えていきたいと思います。私たちの人生の目的は、何かを成し遂げるためではなく、神様を賛美することにあります。

俳句

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:AS)

○平成二十二(二〇一〇)年作
 幾度の 春を待たずば 巣立ちゆく
 奇跡をと 願いし母の 耐える冬
 子の病い 御栄えの春を 主にて待つ
○令和二(二〇二〇)年作
 新緑や 覚悟の透析 新生活
 五月晴れ 主の答えは 透析に

受洗者より 教会に通い学びたい

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:KM)

 今回洗礼を受けて、今まで深くは知らなかったキリスト教について、これまで以上に関心を持ちました。同時に名ばかりの洗礼にならないよう、今後もキリスト教について学んでいきたいと思います。
 最初は親に連れられてきた教会でしたが、礼拝に来る人たちの真剣な様子に引かれ、自分も本気で学びたいと思いました。これからも教会に通いたいと思います。

イースターに寄せて 母の文語体聖書

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:TA)

 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを心掛け、教会の様々な行事に初めて参加体験した日々は、私のこれまでの人生で一番足早に過ぎた一年でございました。
 顧みますと、教会の出来事が浮かび上がってまいります。
 今までのにぎやかな雰囲気とは異なった「心のクリスマス」を過ごしたこと。またあるときは、金先生のお説教に込み上げるものを我慢できず、お説教の終わるのを待ちかねて礼拝堂を抜け出し、洗面所で一人涙を流したこと等々。
 それはコロナウイルスが猛威を振るい出し、世界中の国々が恐怖の渦に巻き込まれ始めた三月上旬のある日、主日礼拝の終わった後、KさんとAさんからのお誘いを受け、婦人会に参加した折のことでございました。
 普段は人様に自分のことなどほとんど話すことのない私でしたけれど、なぜか生前の母が文語体の聖書を持っておりましたことをお話しする気になったのです。
 と申しますのは、受洗を志し、聖書に親しむ日々を送るようになったとき、ふと思い出したことがございました。
 母の居間の文机の上には、端然と聖書が置かれており、私は時折居間に呼ばれ、聖書の一節を暗誦させられたものでした。最初の暗誦は、「マタイによる福音書、六章二八~三〇節」だったことも鮮明に記憶しております。
 当時小学校低学年だった私にとっては、言葉の意味も分からず、けれども文章がリズミカルで音楽的に感じられたせいか、さして苦痛ではなく、にもかかわらず書かれている意味を理解できたのはしばらく後のことでした。
 今にして気付けば、私の受けた母からのしつけは聖書が原点のように思われます。
 讃美歌の思い出も多く、そのようなわけでつい皆様にお話ししてしまいました。
 会の終わる頃、金先生のお心遣いで母の好んだ讃美歌を歌ってくださいましたとき、心温まるひとときを持つことのできた私は、ただ涙に終始してしまったことも記憶に新しくよみがえります。
 母が逝って三十年。聖書と母のつながりを今はもう確かめるすべもございません。

 そして再び巡りきたったイースターの日、祈りも涙もまこと(真実)であることが天にいます神様の御許に届くことを願っている私がおります。
 受洗の際の誓いを忘れることなく、神様に私の全てを委ね、御手にすがり、御力を頼み、祈りを怠らぬ明け暮れを送り迎える私でありたいと存じます。
 過ぎた一年を振り返るとき、金先生を始め教会員の皆様に折に触れて、有形無形の支えをいただきましたことを思い、とてもうれしく感謝いたしております。
 今後とも何卒よろしくと申し上げます。
 本当にありがとうございました。

讃美歌練習を担当して 信仰が生み出す新しい歌

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:MK)

 本日(三月二十九日)は、金先生が冬期休暇なので奨励を務めさせていただきます。前回は五年前、本誌『ぶどうの枝』にも書いたのですが、当時訪問した長崎のキリシタンのことをお話ししました。
 今回は、讃美歌練習で考えたことについてです。練習の担当になって、自分なりにできることを考えようと楽譜を見ていましたら、これは職業病なのですが、作詞・作曲者の生没年が気になりました。『讃美歌二一略解』や、二階にある『讃美歌物語』などを参考に、讃美歌の歴史的な背景について、少しお話をしている次第です。
 作詞作曲者が「いつ」の人なのか、いつ作られたのか、ということに注意しておりましたら、年代の傾向も分かってまいりました。
 古い方では、中世のグレゴリオ聖歌のようなものがあります。逆に新しい二十世紀以降のもの、日本人が作ったものもあります。そして、その中間、おそらく数としても一番多いのが、十九世紀頃の讃美歌です。今日「讃美歌らしい」という感じがするのは、だいたいこの頃の歌だと思います。
 讃美歌集の中では皆同じように見えても、時代も背景も様々であることが分かります。そして、ここが大事だと思うのですが、今から見ると古い時代の歌であっても、その当時は新しい歌だった、ということです。歴史というのは、今から見ると古いのですが、その当時は一番新しい時代であり、一番新しいものだったのです。讃美歌も、その時代その時代の、新しい歌として作り続けられていた、ということです。
 十九世紀頃の「讃美歌らしい讃美歌」というのは、日本で言えば、江戸時代の終わり頃から、明治時代頃に当たり、つまりアメリカやイギリスから、日本にやってきた宣教師たちが紹介した讃美歌だと思われます。それは、宣教師たちにとっては、自分たちと同時代に作られた「新しい歌」だったことになります。
 本日の讃美歌、三三三番は、元はタンザニアの民謡で、結婚式の時に男女のグループが歌い交わすものだそうです。それを讃美歌にしたというのは、自分たちの文化から賛美の歌を作り出した、という意味で素晴らしいと思います。
 新しい歌を作るということには、古くからの歌をただ歌い続けるのではなく、あるいは他人のものをそのまま使うのではなく、自分たちの信仰を、自分たちの形に表わして賛美する、という意味があるのだと思います。そのために、新しい讃美歌は、常に作られ続けなければならないのだと思います。
 そして、讃美歌を作ることに限らなくても、賛美自体は、誰にでもできるはずです。他人のものではない、自分なりの賛美―言葉でもよいし、行いでも、そして自分の生き方、ほかならぬ自分の人生自体が、御心に従って生きようとするなら、賛美になりうるのではないか、ということに思い至ります。それも、一つの「新しい歌」なのではないでしょうか。
 前回、長崎のキリシタンのお話のときは、「待ち望む信仰」と題しました。二百五十年もの間、潜伏に耐えることができたのは、彼らの信仰が、いつか、大きな黒船に乗って司祭(パードレ)がやってくる、キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになるという、希望を持ってその日を待ち望むものだったことが、キリスト教の信仰そのものと一致していたからではないか、と考えました。
 今、コロナウイルスの感染対策として、集まって声を出すこと自体を自粛しなければならないのですが、かつての潜伏キリシタンたちに倣って、今は心で賛美し、願わくは遠からず、また大きな声で、晴れやかに歌える日が来ることを待ち望みたいと思います。

随想 聖書、そして私 ダビデの過ちから

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:SK)

 全くなじみのないカタカナ名の連続。「これって何?」というのが憧れていた聖書の第一印象です。
 我慢し何度か繰り返し読んでいたら、「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり」(口語訳)との箇所に、かつて小さな違和感を覚えたことを思い出しました。
 ペリシテ人を討ち、モアブを討ち、と戦ってきたダビデ王。お疲れになっていたのでしょうか。出陣する時期なのにエルサレムにとどまっていたある日、午睡から覚め、半ばもうろうとしたまま、屋上を散歩していますと、何と暮れかかる中庭で水浴びをしている美女が…。早速調査。ヘト人ウリヤの妻、バテシバと判明。使いの者をやって、彼女を召し入れ、床を共にしたのです。
 家に帰った彼女から子を宿したのとの報に、ダビデは考えました。全軍の長であるヨアブに命じ、戦場からウリヤを呼び返し、尋ねます。まず兵士たちの安否、更に戦況を聞き、労をねぎらい、優しく「家に帰って足を洗うがよい」と言い、すぐにたくさんの贈り物を届けます。
 真面目なウリヤは、家に帰るどころか、王宮の入口を守っている家臣と一緒に眠ります。これを知ったダビデは内心慌てながらも、平然と「遠征から帰ってきたのにどうして」と問いますと、「…私の主人ヨアブも家臣たちも野営しているのに、私だけが家に帰り、飲み食いなど、私にはできません」。
 ダビデは一瞬ドキリとしつつも「今日はここにとどまるがよい。明日送り出すとしよう」と言い、次の日、今度はウリヤを食事に招き、酒に酔わせ退出させますが、ウリヤはなおも家に帰らず、これまでのように王宮の家臣たちと共に眠ります。
 あの手この手を使うダビデに、あくまでも兵士として行動するウリヤです。バテシバは、既に子を宿しています。急がねばなりません。ダビデの命令を受けたヨアブにより、強力な敵の兵士がいる激戦地に配置されたウリヤは、他の兵士たちと共に戦死します。
 夫の死を聞いたバテシバは、嘆きました。七日間の喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を引き取ります。間もなく男の子が生まれました。不義の子です。聖書は、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記しています。
 主に遣わされた預言者ナタンによって「…このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」と告げられます。予告どおり子が弱りますと、ダビデは神に祈り、断食し、引きこもり、地に横たわって夜を過ごしますが、子は死にました。
 子の死を知ったダビデは、家臣が驚くほど決然として立ち上がり「主がわたしを憐れみ、子を主が生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食したり、泣いたりした。そのようなことが何になろう…」と深く悔いたのでしょう。
 かつては、使いの者をやってバテシバを召し入れたダビデでしたが、悲しみを知った今は、夫の死を嘆き悲しむバテシバを慰め、自ら行き床を共にし生まれた男の子が「主に愛された者」と名付けられたソロモンです。「主はその子を愛された」と聖書は記しています(サムエル記下一一章一節~一二章二五節)。
 七十歳を過ぎ、丁寧に聖書を読む機会を与えられ、あの違和感を覚えた一行の謎がほんの少し分かりかけてきたこの頃です。何と聖書は面白く、そして恐ろしい不思議な書なのでしょうか。

百歳を迎えられて S姉の戦前戦後の回想録

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:TI・MI)

 佐倉教会員のS姉は、八月二十六日で満百歳の誕生日を迎えられました。百歳を迎えるに当たり、ご本人からお聞きしたことをまとめてみました。
 S姉は、一九二〇(大正九)年に東京府四ツ谷で七人兄弟の末娘としてお生まれになりました。その後、現在の大久保に転居し、戸山小学校を経て、府立第五高等女学校(現在の都立富士高校)に通学されました。女学校時代は、徒歩遠足で足を鍛え、通称「練馬大根の足」と言われるくらい立派でした。
 女学校卒業後は、東京お茶の水のキリスト教精神に基づくYWCA駿河台女学院家政科にご入学。まさにここでの学生生活は、青春真っただ中でした。
 この時代は、日中戦争・太平洋戦争のときでしたが、六歳年上の兄上に感化され、聖書を知り、世界史への関心を強められ、さらに近くにあったYMCAの絵画サークルに参加しました。また、ご自身のいとこの方を通して、後に夫となるYS氏との出会いがありました。
 一九四二(昭和十七)年除隊した六歳年上のYS氏と結婚なさいました。新婚家庭は、小田急線沿線喜多見に持たれました。終戦後は、文京区小石川に転居。Y氏は、虎の門病院耳鼻咽喉科の医師として勤務なされました。
 ご結婚生活では、お子さんに恵まれませんでしたが、趣味として絵画を描き、自動車免許を取って、愛車ブルーバードで、毎日、義雄氏を病院まで送迎をなさいました。送迎の帰り道では、当時出来たばかりの青山のスーパー紀ノ国屋に寄って買い物をしました。
 また、三越特選売り場の主要スタッフとしてブラウス・ワイシャツ等の仕立・販売を行い、自ら、愛車で納品まで行き、自宅でもミシンを踏みながらの生活でした。
 この姿は、戦後日本の新しい女性としての生き方だったのではないでしょうか。
 一九八四(昭和五十九)年クリスマスに淀橋教会で峯野牧師より受洗。六十四歳。
 一九八六(昭和六十一)年、夫Y氏七十二歳で逝去。
 一九八九(平成元)年、佐倉ゆうゆうの里に転居。そこで、里の聖書の会に参加。当時は、K御夫妻が島津先生を支えておられました。
 S姉は、このK兄が妻・S姉の葬儀でのことを詠っています。
 「車椅子を互いに乗り交わす仲良き夫婦、夫は通夜に言葉を失う」と、そのときの情景が忘れられないと……。
 一九九〇(平成二)年佐倉教会に転会。
 今でも、お宅に訪問すると、油絵が幾つも飾られており、世界史年表が貼られています。そして、最愛のご主人Y氏の写真とご愛用だったパイプも。
 百歳まで、自立した生活を守っていらっしゃるのは、健康に恵まれ、ご本人の心の明るさによるものではないでしょうか。そして、神様を見上げる生活を長年続けていらっしゃることにほかなりません。