2022年4月24日「わたしではありません。神が」

○金 南錫牧師   創世記41章14-57節

 ヨセフは、ファラオの夢を解き明かしました。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。七頭のよく育った雌牛、七つのよく実った穂は、七年間の大豊作を表しています。そして、その後にやってきたやせた七頭の雌牛、また痩せて干からびた穂は、七年間の飢饉を意味します。また、この飢饉は先の豊作など忘れさせてしまうほど、激しいものです。また、夢が二度繰り返されたのは、神がこれを速やかになさるからです」という解き明かしでした(25-32節)。

ただ、ヨセフは一貫して神中心の立場を貫きます。ファラオから「お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と問われた時に、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えるのです(16節)。また、雌牛の夢を解き明かした時には「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです」と言いました(25節)。さらに、穂の夢についても28節で、「神が…」と同じ言葉を繰り返すのです。ヨセフは、神に対する信仰を失いませんでした。困難の中にありながら、神をより信頼し、「わたしではありません。神が」という信仰を持ち続けていたのです。

2022年4月17日「御言葉から始まる復活信仰」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書24章1-12節

 婦人たちは、日曜日の明け方早く、準備していた香料を持ってイエス様の墓に急ぎました。ところが、墓に着いて見ると、石が墓のわきに転がしてあって、中にイエスの遺体は見当たりませんでした。彼女たちは途方に暮れていました。するとそこに輝く衣を着た二人の人、おそらく天使たちが現われて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と告げられ、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とあります。彼女たちは天使たちの言葉によって、本当の意味でイエス様が御自分の死と復活を予告しておられたことを思い出したのです。また、その一部始終を11人の弟子たちや他の人皆に知らせたのです。今日の聖書箇所には、まだイエス様の復活の姿は現れません。代わりに、天使たちの「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」というイエス様の復活の言葉だけが語られています。私たちも、復活のイエス様の姿を見ていません。しかし私たちの前には、聖書の御言葉があります。私たちにとって、復活信仰はその御言葉から始まります。

 

2022年4月10日「監獄の中のヨセフ」

○金 南錫牧師   創世記40章1-41章13節

 今日の箇所には、牢獄の中で、ひたすら忍耐の日々を送るヨセフの姿が記されています。ヨセフは給仕役の長の夢を解き明かしたのち、彼に「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください」と切実に願いました(14節)。しかし、ヨセフの解き明かしの通り、給仕役の長はもとの職務に復帰しましたが、彼はヨセフのことをすっかり忘れてしまうのです。つまり、ヨセフはさらに二年間、牢獄の中に置かれたのです。それが41章1節の「二年の後」という言葉で分かります。

 この間、ヨセフはどういう日々を送ったのでしょうか。牢獄の中で2年という長い期間を過ごしながら、ヨセフであったとしても、厳しい状況であったと思います。しかし、この時、ヨセフは主が共にいてくださるという信仰を失いませんでした。創世記41章16節に、ヨセフがファラオの夢を解き明かした時、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」とあります。ヨセフはファラオの前で、直ちに神に対する信仰を告白したのです。ヨセフは牢獄の中にいても、決して自分を見捨てないで、共にいてくださる神に信頼して、忍耐をもって、生き続けようと努力したのです。

2022年4月3日「主がヨセフと共に」

○金 南錫牧師   創世記39章1-23節

 エジプトに奴隷として売られてしまったヨセフに「主がヨセフと共におられた」とは何という慰めでしょうか。主が彼と共におられたということは、ヨセフもまた神様に信頼し、祈り続けていたことを意味しています。主人ポティファルは、ヨセフがいることで、いろんなことがうまく回っていることに気がついたようです。そして、それはヨセフが信じる神様のおかげだ、ということが分かります。ヨセフは主人から信頼を得て、財産の管理から、すべてのことを任せられるようになりました。ただ、人はすべてがうまく行っている時に誘惑がやってきます。顔も美しく、体つきも優れていたヨセフに、主人の妻は「毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった」というのです(10節)。

 このことでヨセフは濡れ衣を着せられ、監獄に入れられました。しかし、ヨセフは牢の中でも、自分の置かれた立場を受け入れて、そこで自分にできることを精一杯やっていくのです。やがて監守長は、ヨセフに囚人たちの世話を任されるようになりました。このようにヨセフは、ポティファルの家でも、監獄に入れられた後も、置かれたところで最善を尽くしたのです。どうしてそれができたのでしょうか。ともにおられる神様を見つめていたからです。私たちも今置かれているところで、神様を見つめながら精一杯生きて行こうではありませんか。

2022年3月20日「ユダとタマル」

○金 南錫牧師   創世記38章1-30節

 ユダは兄弟たちと離れて、移り住んだところで、ある女性と結婚して、エル、オナン、シェラの3人の息子たちをもうけました。ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えましたが、エルは主の意に反したので、死んでしまいます。当時の社会では兄弟が亡くなった場合、その弟が兄嫁を自分の妻として迎えて、兄の子孫を残すことが、習慣としてなされていました(申25:5、6)。それでユダは、次男のオナンに、兄嫁のタマルを妻として与えますが、オナンもまた、死んでしまい、残された三男のシェラがタマルを妻にめとることになります。しかし、ユダはタマルをシェラの妻として迎えて、舅としての責任を果たすべきでしたが、その責任を果たさないで、タマルを実家に帰してしまいます。

 タマルはシェラが成人したのに、自分がその妻にしてもらえないと分かったから(14節)、亡き夫の子を残すことを舅ユダによって実現しようと考えるのです。そして、ユダの子を身ごもります。ユダはタマルによってベレツをもうけました。そのベレツによって、ダビデ王と、後に救い主イエス・キリストが生まれてくるのです。ですから、今日のユダとタマルの出来事は、私たちの救いと関わる出来事です。

2022年3月13日「エジプトに売られるヨセフ」

○金 南錫牧師   創世記37章12-36節

 兄たちが羊の群れを飼うために、出かけていたときに、父ヤコブはヨセフに兄たちの様子を見てくるようにと、命じます。ヤコブはシケムに着いて、兄たちと羊の群れを探しましたが、見当たらないのです。ヨセフが野原をさまよっていると、一人の人に出会って、その人の方から「何を探しているのかね」と話しかけてくれるのです(15節)。また、ヨセフが兄弟たちによって「さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう」と殺されかけたときに、長男のルベンは「命まで取るのはよそう。代わりに荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」と言って、兄弟たちを説得しました(21、22節)。また、四男のユダが「弟を殺して、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか」と提案され(26、27節)。兄弟たちはこれを聞き入れました。こうして、ヨセフの命は救われました。

 ヨセフは確かに兄たちから殺されかけましたが、ルベンとユダの提案によって兄たちに殺されませんでした。また、エジプトへ奴隷として売られてしまいましたが、そこで生き延びていきました。そこに神様のご計画、摂理があります。

2022年3月6日「少年ヨセフの夢」

○金 南錫牧師   創世記37章1-11節

 今日のところ、ヨセフはまだ17歳でした。お兄さんたちが何か悪いことをすると、ヨセフは父ヤコブに告げ口をしたのです(2節)。また、彼はヤコブが年を取ってから生まれた子でした。そんなヨセフに「裾の長い晴れ着」を作ってあげました(3節)。兄弟たちは父がヨセフを愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに語ることができなかったのです(4節)。

 こういう状況でヨセフは二つの夢を見るのです。畑でヨセフが束ねた束がいきなりまっすぐに立って、その周りに兄たちの束がやってきて、ヨセフの束にお辞儀をする夢と、兄弟たちだけではなく、両親も自分を拝む夢でした(9節)。ヨセフがこの夢を家族に話すことによって、兄たちはますますヨセフを妬み、憎むようになっていきます。後に、お兄さんたちはヨセフのことを「あの夢見る者」とさげすむのです。でもヨセフが17歳の時に、神様が見せてくださった夢がこの後、幾多の困難に向かうヨセフへの励ましとなりました。その夢の中に、見えざる神の摂理が隠されていたのです。その摂理の信仰が私たちの力となっていきますように、祈り願います。

2022年2月27日「再びベテルへ」

○金 南錫牧師   創世記35章1-36章43節

 「ベテル」は20年以上前に、ヤコブが兄エサウを避けてハランに逃げて行った時、最初に神に出会った所で、ヤコブにとって、信仰の原点でした。ヤコブは家族たちに今まで神様以外の頼りにしていたものを全部取り除いて、悔い改めて、信仰の原点であるベテルに上ろうと、呼びかけました(2節)。こうして、ヤコブたちはしばらく暮らしたシケムから、ベテルへ向かいます。そして、ベテルに着いて、祭壇を築き、礼拝を捧げます(6、7節)。

 ベテルで神様は再びヤコブに現われて彼を祝福しました(9節)。その祝福は、改めてヤコブの名前を「人を押しのける者」ヤコブから、「神の民」イスラエルへと変えられることです。また、その名と共に神様はアブラハムとイサクに与えたカナンの地をヤコブと彼の子孫にも与えると約束されました。このように、ベテルに帰って来て、悔い改め、主に立ち帰ったヤコブを、神様は大いに祝福されたのです。

 私たちも、もし神様との正しい道から外れていたときに、少し立ち止まって、いつからそうなっていたのか、思い起こしたいものです。そして、原因が分かったら、迷わないで悔い改めるのです。そうして、神様に立ち帰るのです。

2022年2月20日「シケムでの出来事」

○金 南錫牧師   創世記34章1-31節

 ヤコブの一族は、バダン・アラムから無事にカナン地方にあるシケムの町に着き、そこにしばらくの間、定住することになります。しかしここでヤコブの娘ディナに不幸な事件が起こります。ハモルの息子シケムが「彼女を見かけて捕まえ、共に寝て辱めた」のです(2節)。彼は彼女に心を奪われ、愛するようになります(3節)。そして、父ハモルに「どうか、この娘と結婚させてください」と願うのです(4節)。そこで、父ハモルは、ヤコブに息子のシケムがヤコブの娘ディナを恋い慕っていることを理由に、ディナを息子の嫁にほしいと願い出ます。さらに、「お互いに姻戚関係を結び、…私どもと一緒に住んでください」とまで言うのです(9、10節)。しかし、ヤコブの息子たちは、ディナを嫁として与えるつもりはありませんでした。なぜなら、シケムがディナを汚したからです。そして、シケムとその父ハモルをだまして、割礼を受けることを条件として求めます。

 ハモルとその息子シケムは、この条件なら受け入れてもよいと思いました。とはいえ、彼らはイスラエルの神を信じる信仰から、割礼を受けることではなかったのです。ただヤコブの家族と姻戚関係を結ぶことで、メリットがあると考えたからでした。そして町に帰り、すべての男子が割礼を受けることを提案しました。すると、男たちはすべて、割礼を受けることに同意しました。三日目になって、男たちが傷の痛みに苦しんでいたとき、ディナと同じ母を持つ兄のシメオンとレビは、剣を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺しました。また、ハモルと息子シケムも剣をかけて殺し、シケムの家からディナを連れ出したのです(26節)。ヤコブは息子たちがしたことによって、自分たちが危機的な状況に置かれたことを嘆くのです(30節)。それに対して、シメオンとレビは「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」と言い返したのです(31節)。

 本日の聖書箇所において、シケムの行為は姦淫の罪に当たり、確かに放置できません。しかし、選民イスラエル人が復讐心に燃えてだまし討ちするために割礼を利用しようとしたことは、許されるものではないのです。ですから、ある意味において、ディナを辱めたことによって悪者に見えたシケムよりも、これを罠にはめたディナの兄たちの方がより悪く見えたと言えます。それなのに、神様の赦しの福音を担っていくのは、この惨めなことを行なったディナの兄たち、シメオン、レビたちであることに変更はないのです。だまし続けるヤコブ一族のような者たちを、神様は憐れみをもって、赦し、神の祝福を担っていくように、導いてくださるのです。その神様は私たちをも赦し、くすしき恵みをもって、守り導いてくださるのです。

2022年2月13日「兄エサウとの再会」

○金 南錫牧師   創世記33章1-20節

 「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた」(1節)。予告どおり(32:7)、エサウが四百人の者を引き連れて近づいて来ました。この時、ヤコブはエサウが20年前の出来事を今も恨んでいて、自分に仕返ししようとするのではないかと恐れていました。それで、ヤコブは「子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた」とあるように、もしもの場合には、自分が最も愛するラケルとヨセフが助かるようにしました。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七回も地にひれ伏してお辞儀をしました。エサウはへりくだるヤコブの姿を見ていました。ヤコブが赦しを求めていることを分かったはずです。エサウはヤコブの思いを受け止めます。4節に「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」とあります。エサウは思わずヤコブのもとに走り寄っていくのです。そして抱き締めて、涙を流しました。ヤコブはようやく赦してもらえたという思いになれたのではないでしょうか。

 こうしてヤコブとエサウとの間に、和解がもたらされました。ヤコブは兄に自分の妻と子供たちを紹介し、先に送った贈り物のことも、兄の御好意を得るためですと、ありのままを告げます。するとエサウは「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい」と受け取るのを辞退しようとします。この時、ヤコブはこのように答えています。10節です。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。」エサウが神様のように見えたというのです。このことは、前日の夜、ヤコブがヤボクの渡しで、祈りの格闘をした時に出会った神の顔が今、兄の顔と重なったことを言っています。つまり、ヤボクの渡しで神の顔を見たヤコブは、自分の過去の一切を赦している兄の顔に、神の顔の照り返しを見たのです。ヤコブは兄の顔を恐れずに、まっすぐに見つめることができました。それは、ヤコブが神の御顔をまっすぐに見つめることができる者となったからです。

 コロサイの信徒への手紙1章19、20節に「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」とあります。神様はイエス・キリストを通して、私たちに神との和解の道を開いてくださいました。私たちキリスト者はイエス・キリストの十字架の贖いを通して、神との和解を受けた者として、この世において、人と人との和解、国と国との和解、平和をもたらす務めに励みたいと願います。