2022年10月の主日聖書日課から

10月2日
○出エジプト記12章21-27節
 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
 「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。

○マルコによる福音書14章10-21節
 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

10月9日
○創世記32章23-31節
 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

○マルコによる福音書14章26-36節
 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。
 『わたしは羊飼いを打つ。
 すると、羊は散ってしまう』
 と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

10月16日
○イザヤ書25章1-9節
 主よ、あなたはわたしの神
 わたしはあなたをあがめ
 御名に感謝をささげます。
 あなたは驚くべき計画を成就された
 遠い昔からの揺るぎない真実をもって。
 あなたは都を石塚とし
 城壁のある町を瓦礫の山とし
 異邦人の館を都から取り去られた。
 永久に都が建て直されることはないであろう。
 それゆえ、強い民もあなたを敬い
 暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。
 まことに、あなたは弱い者の砦
 苦難に遭う貧しい者の砦
 豪雨を逃れる避け所
 暑さを避ける陰となられる。
 暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨
 乾ききった地の暑さのようだ。
 あなたは雲の陰が暑さを和らげるように
 異邦人の騒ぎを鎮め
 暴虐な者たちの歌声を低くされる。
 万軍の主はこの山で祝宴を開き
 すべての民に良い肉と古い酒を供される。
 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
 主はこの山で
 すべての民の顔を包んでいた布と
 すべての国を覆っていた布を滅ぼし
 死を永久に滅ぼしてくださる。
 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
 御自分の民の恥を
 地上からぬぐい去ってくださる。
 これは主が語られたことである。
 その日には、人は言う。
 見よ、この方こそわたしたちの神。
 わたしたちは待ち望んでいた。
 この方がわたしたちを救ってくださる。
 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
 その救いを祝って喜び躍ろう。

○マタイによる福音書5章1-12節
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 「心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

10月23日
○ヨブ記32章1-14節
 ここで、この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分は正しいと確信していたからである。
 さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。また、ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った。彼らが皆、年長だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、この三人の口から何の反論も出ないのを見たので怒ったのである。
 ブズ人バラクエルの子、エリフは言った。
 わたしは若くあなたたちは年をとっておられる。
 だからわたしは遠慮し
 わたしの意見をあえて言わなかった。
 日数がものを言い
 年数が知恵を授けると思っていた。
 しかし、人の中には霊があり
 悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。
 日を重ねれば賢くなるというのではなく
 老人になればふさわしい分別ができるのでもない。
 それゆえ、わたしの言うことも聞いてほしい。
 わたしの意見を述べてみたいと思う。
 わたしはあなたたちの言葉を待ち
 その考えに耳を傾け
 言葉を尽くして論じるのを聞き
 その論拠を理解しようとした。
 だが、あなたたちの中にはヨブを言い伏せ
 彼の言葉に反論しうる者がない。
 「いい知恵がある。
 彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。
 ヨブはわたしに対して議論したのではないが
 わたしはあなたたちのような論法で
 答えようとは思わない。

○ルカによる福音書12章13-21節
 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

10月30日
○創世記9章8-17節
 神はノアと彼の息子たちに言われた。
 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
 更に神は言われた。
 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
 神はノアに言われた。
 「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

○ルカによる福音書11章33-36節
 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2022」(日本キリスト教団出版局、2021年12月10日発行)より作成

2022年9月の主日聖書日課から

9月4日
○イザヤ書5章1-7節
 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
 そのぶどう畑の愛の歌を。
 わたしの愛する者は、肥沃な丘に
 ぶどう畑を持っていた。
 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
 良いぶどうが実るのを待った。
 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
 わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
 わたしがぶどう畑のためになすべきことで
 何か、しなかったことがまだあるというのか。
 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
 なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
 さあ、お前たちに告げよう
 わたしがこのぶどう畑をどうするか。
 囲いを取り払い、焼かれるにまかせ
 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
 わたしはこれを見捨てる。
 枝は刈り込まれず
 耕されることもなく
 茨やおどろが生い茂るであろう。
 雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
 主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
 見よ、流血(ミスパハ)。
 正義(ツェダカ)を待っておられたのに
 見よ、叫喚(ツェアカ)。
 
○マルコによる福音書12章1-12節
 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』」
 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

9月11日
○ホセア書11章1-9節
 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
 わたしが彼らを呼び出したのに
 彼らはわたしから去って行き
 バアルに犠牲をささげ
 偶像に香をたいた。
 エフライムの腕を支えて
 歩くことを教えたのは、わたしだ。
 しかし、わたしが彼らをいやしたことを
 彼らは知らなかった。
 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
 彼らの顎から軛を取り去り
 身をかがめて食べさせた。
 彼らはエジプトの地に帰ることもできず
 アッシリアが彼らの王となる。
 彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
 剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
 たくらみのゆえに滅ぼす。
 わが民はかたくなにわたしに背いている。
 たとえ彼らが天に向かって叫んでも
 助け起こされることは決してない。
 ああ、エフライムよ
 お前を見捨てることができようか。
 イスラエルよ
 お前を引き渡すことができようか。
 アドマのようにお前を見捨て
 ツェボイムのようにすることができようか。
 わたしは激しく心を動かされ
 憐れみに胸を焼かれる。
 わたしは、もはや怒りに燃えることなく
 エフライムを再び滅ぼすことはしない。
 わたしは神であり、人間ではない。
 お前たちのうちにあって聖なる者。
 怒りをもって臨みはしない。
 
○マルコによる福音書12章28-34節
 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

9月18日
○列王記上21章4-16節
 アハブは、イズレエルの人ナボトが、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない」と言ったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった。妻のイゼベルが来て、「どうしてそんなに御機嫌が悪く、食事もなさらないのですか」と尋ねると、彼は妻に語った。「イズレエルの人ナボトに、彼のぶどう畑をわたしに銀で買い取らせるか、あるいは望むなら代わりの畑と取り替えさせるか、いずれにしても譲ってくれと申し入れたが、畑は譲れないと言うのだ。」妻のイゼベルは王に言った。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」
 イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。彼らはイゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに言った。「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。

○マルコによる福音書12章38-44節
 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

9月25日
○申命記15章7-11節
 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

○マルコによる福音書14章3-9節
 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2022」(日本キリスト教団出版局、2021年12月10日発行)より作成

2022年9月 教会学校ニュース13号

 夏休みが終わり、学校が始まります。
 これからの秋において勉強や運動など通して生徒の皆さんが豊かに成長されることを祈っています。
 教会学校幼小科では、お茶の作法や絵本読み聞かせなどのプログラムを用意しています。
 お気軽にご出席ください。

2022年8月の主日聖書日課から

8月7日
○民数記11章24-29節
 モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

○マルコによる福音書9章33-41節
 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

8月14日
○申命記10章12-18節
 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。

○マルコによる福音書9章42-50節
 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

8月21日
○イザヤ書54章1-8節
 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
 歓声をあげ、喜び歌え
 産みの苦しみをしたことのない女よ。
 夫に捨てられた女の子供らは
 夫ある女の子供らよりも数多くなると
 主は言われる。
 あなたの天幕に場所を広く取り
 あなたの住まいの幕を広げ
 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。
 あなたは右に左に増え広がり
 あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ
 荒れ果てた町々には再び人が住む。
 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。
 うろたえるな、もはや辱められることはないから。
 若いときの恥を忘れよ。
 やもめのときの屈辱を再び思い出すな。
 あなたの造り主があなたの夫となられる。
 その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
 全地の神と呼ばれる方。
 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように
 主はあなたを呼ばれる。
 若いときの妻を見放せようかと
 あなたの神は言われる。
 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
 とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
 あなたを贖う主は言われる。

○マルコによる福音書10章13-16節
 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

8月28日
○ミカ書6章1-8節
 聞け、主の言われることを。
 立って、告発せよ、山々の前で。
 峰々にお前の声を聞かせよ。
 聞け、山々よ、主の告発を。
 とこしえの地の基よ。
 主は御自分の民を告発し
 イスラエルと争われる。
 「わが民よ。
 わたしはお前に何をしたというのか。
 何をもってお前を疲れさせたのか。
 わたしに答えよ。
 わたしはお前をエジプトの国から導き上り
 奴隷の家から贖った。
 また、モーセとアロンとミリアムを
 お前の前に遣わした。
 わが民よ、思い起こすがよい。
 モアブの王バラクが何をたくらみ
 ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。
 シティムからギルガルまでのことを思い起こし
 主の恵みの御業をわきまえるがよい。」
 何をもって、わたしは主の御前に出で
 いと高き神にぬかずくべきか。
 焼き尽くす献げ物として
 当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
 主は喜ばれるだろうか
 幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
 わが咎を償うために長子を
 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
 人よ、何が善であり
 主が何をお前に求めておられるかは
 お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し
 へりくだって神と共に歩むこと、これである。

○マルコによる福音書10章46-52節
 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2022」(日本キリスト教団出版局、2021年12月10日発行)より作成

2022年8月 教会学校ニュース12号

 生徒の皆さんは、夏休みをどのように過ごしているでしょうか。
 暑い季節ですが、教会学校は開いています。
 8月の礼拝のお話しは、モーセに導かれたイスラエル民族のエジプト脱出についてです。
 ぜひご出席ください。

神の導きを信じるヨセフの信仰 創世記四五章一~二八節

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 今まで、自分の身をあかそうとしなかったヨセフはいよいよ兄たちに身をあかしました。また、同時にヨセフはこれまでの人生に起こった出来事を振り返って、神の視点から自分の人生を再発見することができました。それはどんなことだったのでしょうか。
 兄たちの悔い改める姿を見て、ヨセフは自分を抑えきれなくなりました。そして、家来たちを部屋から出させて、声をあげて泣きました。ヨセフは、兄たちが以前とは違って、末の弟ベニヤミンを守ろうとした姿を見て、二十二年前に自分を見捨てたときの兄たちとは違うことが、よく分かったわけです。そして、ようやく自分がヨセフであることを兄弟たちに告白します(三節)。当然ながら、兄たちは驚きのあまり、答えることができませんでした。また、同時にかつて自分たちがヨセフに対して犯した罪のことを思い出し、ヨセフの復しゅうを恐れていました。驚き恐れる兄たちにヨセフは、「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています(五節)。ヨセフは兄たちをゆるしていました。かつて兄たちに憎まれてエジプトに売られたことを一切言わないで、逆に兄たちのことを心配し、気遣っているのです。
 では、ヨセフはどうして兄たちをゆるすことができたのでしょうか。それは、ヨセフが神の方を見ていたからです。兄たちからされた理不尽なこと、売られた者としての悲しみ、奴隷としてのつらい生活、ポティファルの家で誤解された者としての孤独、そして無実の罪によって監禁されなければならなかったときの絶望感など、ヨセフの人生は悲しいもの、つらいもの、そして傷に満ちたものでした。その心の傷はエジプトの総理大臣になったとしても、消えることはありませんでした。そのように、人だけを見ていたら、恨みつらみが湧いてきて、心の傷を忘れずに、根に持ってしまうのです。
 しかし、ヨセフは神の方を見ていました。神の視点から自分の人生を見ようとするとき、そこに起こるすべての出来事が、神の導きの中にあることを信じるようになりました。「なぜ、自分がエジプトに売られてこなければならなかったのか」「なぜ、自分が理不尽な苦しみが絶え間ない人生を過ごさなければならなかったのか」。自分の人生のすべての「なぜ」に意味があったことに目覚める瞬間でした。

 神の大きなご計画

 エジプトに売られる前のヨセフの言動を見ると、ヨセフもはじめは父親に甘やかされた、生意気な人間でした。しかし、ヨセフは今「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています。つまり、自分がエジプトに売られたのは、神の導きによるものであると受け止めることができたのです。このヨセフの言葉は、神の視点から自分の人生を見ようとするとき、どのような素晴らしい変化が起こるかを私たちに教えています。
 なお、六節以下を見ると、飢きんはあと五年続くことが、ヨセフに示されていました。家族がその飢きんを生き延びるために、先にエジプトに来た自分が権力者となって、家族をここに招くように、神様が取り計らってくださったと言うのです。九節、一〇節に「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます』」とあります。
 確かにヨセフがエジプトに来たのは、兄たちがヨセフを憎んだからでした。でも、そのことも神の方から見れば、神様の大きなご計画の中でなされたことだと、ヨセフは受け止めたのです。こうしてヨセフは兄弟たちに、父と家族を連れて、このエジプトに移り住んでくださいと、彼らを招待します。
 その後、ヨセフの兄弟たちがエジプトに来たという知らせは、ファラオの宮廷にも伝えられました。それを聞いて、「ファラオも家来たちも喜んだ」とあります(一六節)。なんとファラオが自分のことのように喜んだのです。そして、ファラオは最高のもてなしをして、ヨセフの家族をエジプトに迎えようとしました。
 ファラオの命令に従って、ヨセフは兄たちに車と食糧を与え、さらに晴れ着をそれぞれに与え、父の贈り物も用意されました。やがて兄たちは、父親の元に戻り、すべてを報告します。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」(二六節)。これを聞いて、ヤコブは「気が遠くなった」とあります。信じることができなかったのです。しかし、ヨセフから自分を乗せるために送った車を見て、気を取り直すことができたのです。それほどヤコブにとっては衝撃的な報告でした。ですから、ヤコブが「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言ったときには、死んだと思っていた息子に会いたい一心であったのです(二八節)。こうして、ヤコブはエジプトに向かうことを決心しました。

 神の視点から再発見

 今日の箇所において、ヨセフは、自分の人生のすべての出来事が、神の導きの中にあったことを信じるようになりました。ですから、ヨセフは、五節の後半で「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告白しています。
 また、七節に「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは」とあります。そして、八節、九節で「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました」と証しているのです。これが、ヨセフの信仰でした。神の導きを信じる信仰です。神の導きを信じることは、自分の人生の全ての出来事を神の視点から再発見することです。人生に起こる喜怒哀楽の全てを神の視点から見ようとするとき、意味のない苦しみは一つもないことにつながります。ヨセフの場合、かつて見た夢のことも、兄たちに憎まれてエジプトに売られたことも、また、牢獄に入れられて、そこで二人の役人に出会ったこと、そしてエジプトの総理大臣になって、今兄たちと再会を果たしたことも、全部つながっていたのです。
 その背後には神様の導きがあったのです。私たちもそれぞれにいろんな不思議な出会いや出来事があって、今につながっているのです。「わたしをここへ遣わしたのはあなたたちではなく、神です」と言ったヨセフの信仰は、神の導きを信じる信仰です。その神に全てを委ねて、残された人生を全うすることができますよう、祈り願います。

受洗者より 受洗祝福の言葉に感激

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:NH)

 年内に受洗しなくてはと、命も終わるのではと、牧師先生のご指導で日にちも定まり、受洗できました。八十一歳です。
 両親の伝道所のお陰で、家には男女年齢問わず集まり、にぎやかでした。中学生の頃より奉仕活動に参加。楽しかったことは、土曜日讃美歌の練習会です。好奇心旺盛な頃で帰り道に、先生のお宅には珍しい物や、あんなのがあった、あれは何する物?とか。勉強は苦手でしたが、十二年間我が家姉妹は全員皆勤でした。
 貧乏生活でしたが、両親は一生懸命でしたから、何の不足も感じず、頑丈な体を作っていただきました。友だちもたくさん、今も続いています。結婚が決まったときに、母からNという名前は、お父さんと一緒に考え、正しことを宣べる子どもになってほしいからNとしたと聞き、「大丈夫だよ、悪いことはしないから」と言いました。そのときに「キリストの道」と分かりましたが、聖書は思うように進まず今になりましたが、行く先々で教会は探してきました。これから一年生になりましたことを母に伝えて、先の見えた毎日を大切に頑張ります。
 金牧師ありがとうございました。佐倉教会の皆様が暖かく見守り励まし、受洗後の祝福のうれしいお言葉を大勢の皆様からいただきました。名前と顔がまだ分からずごめんなさい。感謝です。車に乗ってから感激の涙でした。うれしい、思い出の深い受洗でした。
 ありがとうございました。これからもよろしくご指導ください。神様と共に歩もうと主に仕える志をいただき、感謝いたします。乱筆失礼。

随想 MIさんとの思い出 「ばあちゃんドクターヘリに乗る」

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:MO)

 MIさんが天に召されとても寂しくなりました。Iさんとの思い出はたくさんありますが、一番の思い出は「ありがとう神様」の本をいただいたことから始まりました。その中には、Iさんが急性心筋梗塞の発作を起こし、ドクターヘリで運ばれた経験を書かれた「ばあちゃん ドクターヘリに乗る」が載っていました。
 当時私は、N大学C病院、内科医局秘書として勤務しており、研修医の先生方が読まれたら、きっと良い参考になると思いました。ドクターヘリで運ばれた患者目線で書かれたリアルな文章だったからです。
 研修医は、二年間の間に進む専門を決めます。医局には各自の机のほかにソファーとテーブルがあり、外来が終わった後など、休憩できるようになっています。そのテーブルの上に「ありがとう神様」の本を置いておきました。すると何人かの研修医が興味深く読んでおられました。
 それなら救命救急に配属されている研修医こそ、ご参考になるのではと思い、救命救急の秘書さんにお願いして医局に置いていただきました。何日かたって救命救急の秘書さんから、「M先生がこれはとても良い。HEM―Netに掲載したいから原稿のデータが欲しいとおっしゃっている」と伺い、驚きました。
 M先生は、当時千葉北総病院の救命救急教授で、ドクターヘリを立ち上げた先生です。救急ヘリ病院ネットワークHEM―Netとは、ドクターヘリによる医療システムの普及を目的として活動している組織です(現在のようにドクターヘリが全国的に知られておらず、普及にご苦労されていた時期でした)。
 研修医の先生に、患者さん目線でのIさんの作品はきっと何かを感じてくださるだろう、良いお医者様になっていただきたい、そんな軽い気持ちでの行動でしたので、私も驚きましたがうれしくて、すぐにIさんに連絡を取りましたが、Mさんはお留守で、電話に出られたI先生からは、「データはありません」とのお返事。
 データでお渡しできなければ、掲載はできないとのことで、それは残念なので、私が入力して提出することにしました。
 HEM―NeTに掲載されたIさんの「ばあちゃんドクターヘリに乗る」を私も拝見しとてもうれしく思っていたところに、Iさんからご家族がとても喜んでくださったと伺い、より一層うれしかったことを思い出しました。
 医局秘書の仕事は、先生方の事務的なことから多種多様です。若い先生は息子や娘の年代でもありいろいろ相談も受けました。
 そんな先生方がご立派になられる成長過程を拝見できるのは、日々神経を使う仕事でもありましたが、楽しい仕事でもありました。そんな中で「ありがとう神様」を読んでいただきたいと思ったもう一つの理由としては、前編にI先生の「マタイによる福音書」が載っていますので、聖書との出会いになればとの思いもありました。そのときの研修医の先生がお一人、急命救急に進まれ現在活躍されております。私は勝手にIさんの本との出会いが少しあるのでは……とひそかに思っています。