受洗者より 祈りへの道のり 嬉しかった葉書

○ぶどうの枝第50号(2019年6月30日発行)に掲載(執筆者:TA)

 夫と二人、佐倉の地の生活が始まったのは二〇一四年秋のことでございました。
 それまでとは異なった環境、病を得た夫のための選択とはいえ、私にとっては言うまでもなく毎日がとまどいの連続でした。
 そんなとき、ふと想い出したことがございました。幼い頃、何も分からないままに母に連れられ最寄りの教会の日曜学校に通ったり、多感な少女時代心にわだかまりがあったり、沈みこんだりしたときなど折に触れて教会を訪れ、人気のない礼拝堂で十字架を見上げているとなぜか心が静まったこと、東京目白の東京カテドラルで催される月に一度の「パイプオルガンの夕べ」に欠かさず通ったことなどなつかしく、再び教会のドアを押す機会はないものかと思い始めた私でした。
 ある日、それはあじさいの花が咲き誇る季節だったことを鮮明に覚えております。我が家のメール・ボックスに一枚の葉書が入っており、それはA御夫妻連名で私の住むゆうゆうの里で月に一度の集まりの「聖書を読む会」へのお誘いだったのです。
 とてもうれしかった。本当にうれしかった。どれほど読み返したことでしょう。このことに安藤先生のお力添えがあったことを知ったのはしばらく後のことでした。
 にもかかわらず人見知りの私は決心がつきかねて、思いきって集まりに伺ったのはそれから三か月ほどたち、夏の暑さが後ろ姿を見せ始めた頃だったのです。
 そのときの勉強は「詩編五十一編」で、初めての私にも金先生のお話は丁寧で分かりやすく、少しばかり肩に力の入っていた私は、ゆっくりそれが溶けてゆくのを感じておりました。
 そのとき教会への道が開かれたのでした。それ以来気付くと主日礼拝の後、心が少しずつ和んでゆくのを感じ取っている私がおりました。思い立つと矢も楯もたまらず私は受洗を口にしてしまい、この短兵急なお願いにも金先生は快く受洗の学びをお引き受け下さり、祈りの道を歩む準備が始まったのです。
 けれどもお願いした学びにもかかわらず気持ちの揺れ動くことも度々で、あるときは金先生のお話が深く心に染み入り、またあるときは歩みを止めて立ち尽くす日もあって、時計の振り子のような心境に我ながら疲れを覚えたことなどが思い出されます。そんな明け暮れの中で私を支えてくださったのは安藤先生はじめ、A御夫妻、教会でお目にかかった方々のさり気ない励ましのお言葉でした。

 天にある永遠の住みか

 忘れもいたしません。昨年十一月初旬、その日金先生のお説教は「コリントの信徒への手紙二、五章一~一〇節」で、「天にある永遠の住みか」のお話は、それまで求めるものの焦点がはっきり定まらなかった私に答えを与えてくださいました。
 その夜、聖書のそれを何度となく読み返し金先生のお話を考え続け、眠ることなく迎えた朝はいつになく晴れやかで、日々の祈りを怠らず歩んでゆくことを迷わず心に決めた私なのでした。
 穏やかに晴れた春の一日イースター。受洗を迎え、金先生の手のひらが私の頭上にしっかりと置かれたとき、神様の温かな深い御慈愛の御手を感じ、畏れにも似た感動が私の中に広がってゆき、その想いは終生忘れることはないでしょう。
 礼拝の後イースターそして受洗の祝会のお料理は、教会の方々のお心遣いがしのばれて、心の高ぶりがいまだ収まらぬ私は、ともすればこぼれそうな涙とともに味わったことを今も忘れておりません。

 受洗を終えた今、小さな紆余曲折を重ねた日々を想い返すとき、心をこめて申し上げたい言葉がございます。
 金先生 神様にお導きくださいましたこと
  心より御礼申し上げます
  ありがとう存じました

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