随想 神様の摂理を受け入れて

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:NI)

 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記一章二一節)。
 長かった人生の旅路も、いよいよ残り少なくなってきました。思い返しますと、聖歌二九二番の歌詞「きょうまでまもられきたりしわがみ……」の正にこの一言に尽きます。
 私は、墨田区本所の桜並木の大変美しい隅田川の近くで生まれました。その地で、昭和二十年の終戦の年に東京大空襲に遭遇し、火事の熱さを避けるために、祖父に抱かれて隅田川に入水しました。幸いなことに、そのときは祖父の気転もあり、無事に助かりました。
 ところで先日は、思いがけなくも佐倉市役所の玄関ロビーで、そのとき体験した東京大空襲の展示会がありました。私は、どんなものかと興味深く見にいきました。展示物の中に、無残にも着のみ着のままの多くの死体が、隅田川に流されていく光景を見ました。その瞬間ショックを受けて思わず立ちすくんでしまいました。
 誰の人生においても、本当に思いがけない事件事故など、人知では測り知れないことが起こってきます。私は、終戦直後の飢餓や疫病のような困難から守られ、今日まで何とか生かされてまいりました。ところが、思い返しますと、時には希望と現実との間に大きなギャップを感じる苦難を体験しました。正直に告白しますと、受洗後もそんな苦難に出会いますと、神様を信じていくことに疑いが生じたことがありました。
 しかしながら、これまでヨブ記を何度となく読み、私なりに神義論を学んできました。そこで、悔い改めて幸も不幸も全てを神様の摂理として受け入れるべきと、確信するようになりました。その結果、半世紀以上にわたり、神様はわたしをキリスト者として持続させて、今日までお守りくださいました。
 ところで、病気などの「不幸」は、全て具体的かつ客観的で誰にも共通すると思えます。他方、「幸福」は極めて抽象的かつ主観的で、万人に共通ではないように思えてなりません。
 私は若い頃から、長く生きれば生きるほど、分からないことが次第になくなってくると思っていました。しかしながら、年をとるにつれて、かえって分からないことが多くなってきたようです。
 このことに関して、ギリシャ哲学者のソクラテスが提唱した、有名な「無知の知」ということが思い出されます。即ち、知らない(無知である)ということを知っている時点で、知っていると勘違いしている人よりも、優れているという考えです。例えば、死後の運命についても、正にそのように考えられます。そういう問題は、一生かかって聖書を通して、自分自身の信仰を高めていくことが大切ではないでしょうか。従いまして、無理に今すぐ分からなくても良いのではないかと思うようになりました。
 最後になりましたが、前代未聞の世界的コロナ禍の中、今日まで守られてきましたことが、何よりも幸いと思います。この不条理の世においては、運命はいかに厳しくとも、「神様の摂理」が最も優しいものと、ようやく確信できるようになりました。
 晩年の私は「恵まれた幸せな人生でした。今日までお守りくださり本当にありがとうございます」と、神様に心から感謝するばかりです。ハレルヤ