転入会者より 転入に当たり思うこと 人を愛すことのイメージ

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:KN)

 私は、一九七九年(二十歳)のときに沼津教会で受洗しました。
 その後、すぐに就職のために千葉県に住むこととなり、千葉教会を経て佐倉教会に通うようになりました。
 初めて佐倉教会に来た頃、私は三十代半ばであり子どもたちは小学生でした。それから現在に至る長い年月で、「人を愛す」ということのイメージが変化したように思います。
 原罪とは、アダムとエバが神様のようにこの世を支配したいと願うことだと聞きました。このことが心に残りました。良かれと思い子どもにアドバイスすることも、場合によっては私の好みに合った方向付けとなり、支配につながるからです。子ども自身が心の奥に持っているものを引き出す関わりが必要であり、それが「愛」です。そんなことは当然だと思う人は多いと思います。けれども、場合によってはアドバイスが支配につながり、それは原罪につながるという発想はありませんでした。
 少し前のことですが、テレビをつけると田中ウェルベ京さんが話していました。
 「子どもたちが悩んでいるときに、すぐに共感したり解決できる助言をしたりしてはいけません。まず話を聞いて、本当の悩みは何かということを子どもと二人で探る。そうすることで、お互いに実態把握の力と解決する力を養うことができます。また、解決してあげないで問題をそのままにしておくこともよいことです。私たちは、先の見えない困ったことが起きると本能で恐怖を感じます。それなので早く解決してモヤモヤから抜け出したいと思います。けれども、解決しないでそのままにとどめておける力が必要であり、そういう力を付けることが大切です」
 この話を聞き「人を愛す」ということのイメージが、より具体的になってきました。
 私の子どもたちは何年も前に成人しているので、成長期の子どもとして向き合う必要はありません。にもかかわらず田中ウェルベ京さんのお話が心に残っているのは、受洗してから「人を愛す」ということの方法を無意識に模索していたのかもしれません。「隣人愛」という言葉は、私たちにとってとても大切な言葉ですが、私にとっては難しい言葉でした。
 神様の愛に気付いてほしいと願う人に会ったら、遠回りではありますが田中ウェルベ京さんのお話のように対応することが良いと思います。そうすることで、人はたくさんの可能性を持ち、神様に愛されていると伝えることになると思います。
 佐倉教会に、再び迎えてくださりありがとうございます。私にとっての「人を愛すことのイメージ」を書かせていただきました。佐倉教会には、在籍する人の数だけ「人を愛すことのイメージ」と「信仰の形」があると思います。皆様の尊い「愛」と「信仰」に敬意をもって、共に礼拝を守っていきたいと思います。
 どうぞよろしくお願いたします。