○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:MK)
二〇二四年度の事業として取り組んでいた百二十周年記念誌は、皆様のさまざまな御尽力・御協力により、本年三月三〇日に無事刊行することができました。歴史についての部分では、草創期の教会について新しく判明したことも多かったのですが、記念誌には書ききれなかったことや、その後さらに分かってきたこともあり、四月二〇日のイースター祝会でお話させていただきました。
草創期の牧師たち
歴代の牧師については、百周年記念誌には一三人の方の写真が載っていますが、他にもお名前が挙げられている方がいます。嶋津虔一先生が編纂された「八十年史」(百周年誌に転載)では、一九〇四年(明治三七)に宣教を始めたソルントン宣教師夫妻が佐倉教会の「生みの親」とされていますが、同年七月には佐倉を離れており、最初の総会は同年一一月二七日(創立記念日)ですから、その時に牧師だった木村定三師が初代ということになると思います(敬称は以下略)。木村定三は同年六月に弘前から赴任しており、詳細は不明ですが、ヘフジバ・ミッションと密接な関係があったホーリネスの中心人物である中田重治が弘前出身なので、その縁なのかもしれません。この年には、手塚千織子も「伝道婦」として二月に静岡から赴任しています。
翌一九〇五年一〇月以降は資料が乏しいが、井上伊之助・三谷碩五郎が定住伝道者と思われる、とされており、この内、井上伊之助(在職一九〇七~〇九か)は、台湾伝道者として有名であることが分かりました。聖書学院(中田重治らの東洋宣教会・中央福音伝道館の神学校)の神学生時代に、当時日本の植民地だった台湾で父親が原住民に殺害されたが、「敵を愛せ」と示され、さらに台湾伝道の召命を受けて、佐倉教会の牧師を辞した後、台湾に渡って医療と伝道に尽くした人です。自らは一人の受洗者も出せなかったが、一九四七年の帰国直前に山地の原住民がリバイバル(信仰復興)的な状態になったことを知らされ、一九七七年時点で八〇%がキリスト教徒になっているそうです。台湾で色々な紹介動画が作られており、高尾日本語教会が一〇年前に作った「父の仇討ちを乗り越えた青年―井上伊之助」には、一九〇八年(明治四一)ちょうど佐倉で牧師をしていた時期の新婚当時の写真が出ています。
https://www.youtube.com/watch?v=OB0tQVVF-Nk&t=517s
この二人に続く牧師は、菱谷(ひしや)与三郎(在職一九一一~一三)と鈴木仙之助(同一九一三~一六)ですが、記念誌にも書いたように元警察官だった人で、菱谷与三郎の写真は初めて見つかりました。二人とも、銚子教会の牧師だった平出(ひらいで)慶一が受洗に導き、東京の聖書学院に送った、と『主のあわれみ限りなく 平出慶一自伝』(一九八二年、日本福音基督教団成城キリスト教会)にあります。平出慶一は自らの経歴の中で、聖書学院卒業後、二年間のオブリゲーション(義務)としてヘフジバ・ミッションの銚子町の教会に赴任したと書いていますので、井上伊之助以降の佐倉教会の牧師も、聖書学院卒業後に同じ形で来ていたものと思われます。
初代会堂前の写真
銚子教会で一九〇六~〇八年に牧師をつとめた平出慶一のことは、同教会の米沢講治先生から教えていただき、自伝があるのに気づいて入手した所、口絵に佐倉教会(佐倉福音伝道館)が現在地に移る前の、最初の会堂の写真があって驚きました。
この写真は百二十周年記念誌にも掲載させていただきましたが、写っている人物について、もう少し分かってきました。中央で大太鼓をたたいている平出慶一の右二人目は、当時佐倉の牧師だった井上伊之助、平出慶一の後ろの西洋人は、日英国旗が掲げられていることから、英国人(聖公会牧師)で松江で伝道して多くの弟子を育てたバックストン、その左はバックストンの弟子の一人で、聖書学院の校長をつとめ、佐倉にも何度か来援している笹尾鉄三郎、左端の方にいるのは、この後に佐倉の牧師になる菱谷与三郎と思われます。バックストンを迎えての特別伝道集会に関係者が集結した際の写真と思われ、この集会自体についての記録は見当たらないのですが、関係者の年譜から、年代は一九〇八年に特定できます。今後さらに人物やその背景が判明するかもしれません。なお、英国国旗があるのは、一九〇二年に日英同盟が結ばれ、一九〇四~五年に日露戦争があったことも背景として考えられます。
銚子教会で見つかったグレン師関係の六点の写真については記念誌に書いたとおりですが、廻船の時代は物流の拠点として栄えた銚子に、まず宣教師館などの伝道の拠点が作られ、そこから佐倉などに伝道が進められたことが分かります。
草創期の佐倉教会に関わった人びとの生き様に、多くのことを感じさせられます。
