○ぶどうの枝第63号(2026年6月28日発行)に掲載(執筆者:SH)
奨励をと金先生から話があった時、私のようなまだまだ信仰の弱い者がこの場に立って良いのかと、大変考えさせられる日々でした。
しかし、これも神様から指名されたのだ、と考えた時私を知って頂く場を与えてくれたとし、お受けしました。
私は昭和十八年五月生まれで八十二歳となりました。終戦間近の生まれです。庭先に焼夷弾が落ちるのを間近に見た経験もあり、幼いながら大変恐怖心を持った体験があります。
今、世界の中で起っている戦争の状況をニュース等で目の当たりにした時、主イエス様の言われる「あなたの隣人を愛しなさい」との教訓が根底にあればと思い、祈らずにはいられません。皆さんと共に祈って参りましょう。
私は兼業農家の長男として育ちました。当時は経済事情により中学を終了すると多くの人が就職を求める時代でした。
私は、地元の高校に進み、卒業後佐倉市の職員として採用されました。当時の佐倉市役所は、佐倉教会の隣にある現在の美術館でした。佐倉教会が隣にあったにも拘わらず建物自体特に目立つものでもなく、気に止める事のない存在でした。ところが今、この佐倉教会は私にとって大きな心の拠りどころとなっています。
その様な時、千葉教会の幼稚園に勤務していた妻と出会い、千葉教会のクリスマス会に誘われ参加。これを通して真のクリスマスを知ったのです。又、結婚の話が出た時古村の実情をよく知っていた義母は、洗礼を受けていた娘を思い非常に心を悩ませていたとのことでした。
妻方の希望で神の前に立っての婚約式・結婚式を千葉教会で行いました。どちらも自分の知識にない形で、又、親族以外の多くの方の参列があり祝福して頂いたことにも驚き私の知らない世界が身近に存在することが大きな衝撃でした。
時が過ぎ、昭和四十八年、私が三十歳で父が急死し、地域の行事一切を私が引き継ぐこととなりました。当時、和田地区は、佐倉市でも封建主義の根強い古村の集まりであり、私の住んでいる宮本集落も長老の力が絶大でした。地域の行事は神仏中心、講制度が強制的に取り込まれる環境でした。一例ではありますが、先ずは年齢が来ると男性にも女性にも数種の講があり、男性は出羽三山を詣でる奥州講、女性は秩父講等があり私も周りからの誘いで当然のように奥州講に加わりました。しかし、その当時は既に信仰からではなく、山巡りを通して村の仲間とのコミュニケーション作りの一端として参加する者が大半であったように思います。私も、その中の一人でもありました。私は、日蓮宗の檀家役員や、神社の役職を指名され関わってきました。
時がたち、キリスト教徒であった義母が召天し、義母の念願であった羽根井宅での家庭集会が始まりました。
これは、島津先生、有馬先生、黒田先生、そして、金先生をお招きしての月一回の学びの会でした。多くの兄弟姉妹の参加を頂き、学びの後に夕食を共にしました。
私にとって、教会員の皆様と垣根を超えた交わりの場となり大変感謝でした。ただ、私には聖書への理解がなかなか難しくただ耳を傾けるだけで申し訳なく思っていた事も事実でした。
時を経て、黒田先生より受洗の話を頂いた時、丁度私たちは、長崎五島列島の教会群を訪ねる計画を進めていました。当地にて厳しい迫害を受けつつも真の信仰を貫いた信徒たちの姿の中に、私の好きな聖句マタイによる福音書七章の御言葉を感じ取りました。求めなさいそうすれば与えられる、神様との繋がりと救いを求める切実な願いが込められていると。
私も、宗派の違いはあれど同じ神を仰ぎ、主イエス様の教えを、謙虚に受け止め、信仰生活を送ることが出来るよう願い、受洗を決めたのです。私は、教会に導かれ先ず心に響いた聖句が、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさいそうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。だから人にしてもらいたいと思うことは、なんでも、あなたがたも、人にしなさい。」の御言葉です。
私は、現役退職後、地域福祉活動やボランティア活動に力を注いできました。その活動の根底には、主イエス様が、私たちの為に命を捨ててまでも、私たちの為に愛を与えてくれたことに感謝しつつ、些細ではありますが、自分の与えられた使命として受け止め取り組んできました。
現在は、多くの活動を手放しましたが年を重ねた今、主の御言葉を糧として分相応の活動を続けていきたいと思っています。
(二〇二五年八月二十四日の奨励をまとめ直したものです。)
